39 怪盗と破棄
リュシアン・ルクレールがエレイン邸を訪れたのは、ヴィオラが手紙を出してから三日後のことだった。
その間にヴァレンティンが記事のことを調べ上げ、リュシアンが研究所へ投資していたことは明らかになっている。ヴィオラはその真偽を、問いたかった。
リュシアンからの返事には、ヴィオラの望むとおり、研究所について話すために伺いたいと記されていた。
応接室には、エレイン伯爵夫妻とヴィオラ、そしてミラと執事ルーイがいた。
リュシアンはいつも通り、皺ひとつない上着に身を包み、柔らかな笑みを浮かべていた。丸眼鏡の奥の薄紫色の瞳も、普段と変わらない。
「お招きいただき、ありがとうございます。ヴィオラ」
「こちらこそ、来てくださってありがとう。リュシアン」
ヴィオラは静かに微笑んだ。
その表情を見て、ミラは少しだけ安堵する。体調が優れない日も多い彼女だが、今日は背筋を伸ばし、しっかりと前を向いていた。
「作られた想晶の件だが……」
ヴァレンティンはリュシアンが腰掛けてすぐに口を開いた。
リュシアンは用意されていた紅茶に口をつけてから、ゆっくりと話し始めた。
「新聞にも載っていましたね。ホールデン領の研究所が違法な実験を行っていたとか。私も驚きました。まさか、あのようなことが行われていたとは」
「まさか? 君がその研究所に投資していたことは調べがついている」
ヴァレンティンが机の上に置いたのは、研究所から押収された投資者リストの写しだった。
そこには、リュシアンの名が記されている。リュシアンは眼鏡の位置を直し、書類へと目を落とした。
「……なるほど。そこまで調べられたのですね」
その言い方に、ミラは眉をひそめた。まるで、見つかってしまったことを残念がっているようだった。
「リュシアン。あなたは、この研究所で何が行われていたのか、知っていたの?」
ヴィオラの声は穏やかだった。リュシアンからの否定の言葉を、待っているように見える。
「──ええ。ある程度は」
あまりにもあっさりとした返答だった。ヴィオラの指先が、膝の上で小さく動いた。
「……ある程度、とは?」
「感情を人工的に引き起こし、想晶を生成する研究です。もちろん、被験者に強い恐怖を与えたり、身体を拘束したりすることがあるのも知っていました」
室内の空気が凍りついた。ミラは両手をぎゅっと握り締めた。
「あなたは……知っていて、出資を続けていたの?」
ヴィオラの声は震えている。リュシアンは不思議そうに首を傾げた。
「研究の過程で、多少の犠牲が出ることは珍しくありません。医療だって、すべての治療が成功するわけではないでしょう?」
「医療と、子どもたちを傷つけることが同じだとでも言うの?」
ヴィオラの声が大きくなる。カップがかすかに揺れ、紅茶の表面に波紋が広がった。
そこでヴァレンティンが机を強く叩いた。
「彼らは生きた人間だぞ! 恐怖に震え、痛みに苦しみ、助けを求めていた子どもたちだ! それを研究の材料としか見ていなかったのか!」
「……伯爵、感情的にならないでください」
「感情的にだと?」
ヴァレンティンが立ち上がった。普段は温厚な彼の顔に、隠しようのない怒りが浮かんでいた。
「感情を踏みにじって何を生み出そうというのだ! 美しい結晶さえ手に入れば、その過程で何人が泣こうと構わないというのか!」
リュシアンは、ほんの少しだけ眉を寄せた。
「私は、誰も傷つけていませんよ。ただ、出資しただけです──」
ヴィオラは言葉を失った。リュシアンは続ける。
「──想晶の価値は、その美しさと希少性によって決まります。どれほど純度が高く、どれほど美しい色を持つか。それこそが重要なのです。生み出される過程にこだわりすぎていては、研究は進みません」
ミラは思わず拳を握りしめた。
かつて、この男はヴィオラの身体を気遣い、無理をさせないようにと何度も言っていた。だからこそ、彼ならお嬢様を任せられると信じていた。けれど、彼が気遣っていたのは、目の前にいる人間だけだったのだ。
目の届かない場所で苦しむ者には、何の関心も持てなかったのだろうか。
「あなたが想晶にとても興味があり、美しいものを見つけたとき、どれほど嬉しそうにするのか知っていました」
「ええ。ヴィオラなら、研究を理解してくださると思っています」
ヴィオラは、静かに首を振った。
「いいえ。私は、あなたが想晶を愛しているのだと思っていました。でも、違ったのですね」
「何を仰っているのです? 心の底から、愛していますよ」
ヴィオラは一度、息を吸った。
「あなたが愛していたのは、想晶そのものではなく、そこに価値をつけることだったのです」
「……何が違うというのです?」
「想晶には、人の想いが宿っています。誰かが誰かを大切に思った記憶も、失いたくないと願った気持ちも。私は、それを美しいと思っていました。けれど、あなたは、その想いを生み出す人間のことを考えなかった」
「研究を進めれば、いずれ多くの人々に恩恵をもたらすことになるでしょう。多少の犠牲を払ってでも、価値のある研究を進めるべきです」
「──その犠牲に、あなた自身がなるつもりはないのでしょう?」
ヴィオラの言葉に、リュシアンは口を閉ざした。
自分で手を汚すわけでもなく、見て見ぬふりをしながら、その美しさを生み出す。
「あなたは、苦しむ子どもたちを見ていない。研究の成功だけを見ているのです」
ヴィオラはリュシアンを信じていた。自分の身体が弱いことを知り、無理をさせず、いつも穏やかに接してくれた。彼なら、自分の隣にいてくれるのだと思っていた。けれど、それは彼のすべてを知ったうえでの信頼ではなかった。
自分が見ていたのは、彼のほんの一面にすぎなかったのだ。
ヴィオラは顔を上げ、真っ直ぐにリュシアンの瞳を見据える。
「リュシアン」
「何でしょう?」
ヴィオラは立ち上がり、胸を張った。そして、息を吸う。
「──私は、あなたとの婚約を破棄いたします」
その言葉は、驚くほどはっきりと応接室に響いた。ミラは息を呑んだ。
ヴァレンティンもリディアも、何も口を挟まなかった。ヴィオラ自身が決めたことだからだ。
リュシアンの表情から、笑みが消えた。
「……後悔しますよ」
「いいえ」
ヴィオラは静かに答えた。
「ですが、ヴィオラ嬢。あなたは、ご自身の立場をもう少し理解なさったほうがよろしい」
リュシアンは眼鏡の位置を直し、淡々と続けた。
「あなたの身体が弱いことは、最初から承知していました。それでも私は、あなたとの婚約を望んだのです。すべて理解したうえで。それなのに、あなたは私との婚約を破棄するとおっしゃるのですか?」
その言葉に、ミラは息を呑んだ。
リュシアンは、本心からヴィオラの身体を気遣っていたのではなかったのだろうか。
貴族同士の婚約に、そうした思惑がまったくないとは誰も考えていない。けれど、ヴィオラを目の前にして、これほど露骨に口にするとは。
ヴァレンティンの頭に血が上った。
「……リュシアン・ルクレール!」
ヴァレンティンが声を荒らげ、立ち上がった。
「娘を、領地を手に入れるための道具のように言うのはやめろ!」
「伯爵、誤解なさらないでください。私は、貴族として当然のことを申し上げているだけです」
「当然だと?」
ヴァレンティンがリュシアンを睨みつける。リュシアンは、わずかに眉を寄せた。
「私は現実的な話をしているのです。エレイン家の娘として生まれた以上、ヴィオラにも果たすべき役割がある。私もまた、その責任を引き受ける覚悟で婚約を望んだのです」
ヴァレンティンは、リュシアンに掴み掛かろうとした。政略結婚であることは承知の上だった。だが、娘を道具のように扱われることだけは、どうしても許せなかった。
しかし、ヴィオラが口を開こうとしていることに気づき、ぐっと言葉を飲み込んだ。これは、娘自身が決めることだ。父として、言いたいことは山ほどある。だが、彼女が自分の意思で未来を選ぼうとしている今、その言葉を奪いたくはなかった。
ヴィオラは両親を見つめ、それからリュシアンへと向き直った。
「──リュシアン・ルクレール様。もう一度言います。私は、あなたとの婚約を破棄いたします」
リュシアンは息を呑んだ。こんな彼女の姿を見たのは初めてだったからだ。いつも、自分の弱さを責め、一歩下がっていた彼女はどこにもいない。
「私はエレイン家の娘である前に、一人の人間です。自分が信じられないと思った方と、これから先の人生を共にすることはできません」
「婚約を破棄すれば、次の婚約者だって見つかるかどうか……お身体のこともあり、なかなか社交界にも参加できていないではありませんか。」
「私は、あなたが何を知っていて、何を選んだのかを聞きました。そのうえで決めたのです」
ヴィオラは背筋を伸ばした。
「リュシアン様。あなたが私に優しくしてくださったことまで、嘘だったとは思いません。けれど、私に優しくできるあなたが、ほかの誰かの苦しみを見過ごせる。そのことが、どうしても受け入れられないのです」
リュシアンの表情が崩れる。
「ヴィ、ヴィオラ……少し冷静になって考え直しませんか。研究所はもう封鎖され、投資の話もなくなりました」
「──今まで、ありがとうございました。どうか、お帰りくださいませ」
それは、ヴィオラ・エレインが初めて、自分の意思で突きつけた別れだった。リュシアンはしばらく彼女を見つめていたが、やがて椅子から立ち上がった。
「……分かりました。あなたがそうおっしゃるのであれば、受け入れましょう」
最後まで、謝罪の言葉はなかった。彼はヴァレンティンに一礼し、応接室を出ていった。
扉が閉まる。静寂の中、ヴィオラは小さく息を吐いた。
「お父様、お母様……ごめんなさい」
「謝ることなど何もない」
ヴァレンティンは、すぐに答えた。リディアは優しくヴィオラを抱きしめる。
「ヴィオラの選択は間違っていないわ」
「お前がどれほど悩んで決めたのか、私たちは分かっている」
「……ありがとうございます」
ヴィオラは微笑んだ。けれど、その目には涙が浮かんでいた。ミラはそっと彼女の隣へ歩み寄り、手を取った。
「お嬢様……」
「ミラ」
ヴィオラはミラの手を握り返した。
「私、ちゃんと自分で決められたわ」
「はい」
「……怖かったけれど。でも、これでよかったのよね」
ヴィオラは小さく微笑んだ。ミラは、彼女の手を強く握った。
「はい。お嬢様が決めたことですから」
ヴィオラがこれから歩む道は、きっと簡単なものではない。けれど、もう誰かの決めた未来に従うだけではないのだ。彼女は自分の足で、自分の未来を選んだのだから。




