36 怪盗と正体
夜が明ける前。ホールデン領にある研究施設の前に、三台の馬車が止まった。
一台の馬車の扉が開き、黒い外套をまとった男が降りる。その後ろから、灰色の髪をした男が続いた。
研究所の門番が、二人の姿を見て慌てて駆け寄る。
「ルーイ様……? こんな時間に、どうされたのですか?」
商人とは思えない気品と優雅さ。まるで上級貴族のような佇まいに、門番は一瞬、ルーイだと気づかなかった。それでも目の前の男は、二日前に見た商人の顔とそっくりだ。
「二日前はどうも。少し確認したいことがあって」
ルーイは穏やかに笑った。
「こんな時間に確認ですか……?」
門番は長い期間、ここで夜の見張りを担当しているが来客があったことは一度もなかった。研究所は森の奥にあり、動物でさえも寝静まっている時間だ。
「昼だと目立つからね。オーウェンさんを呼んでもらえる?」
「は、はい。ただいま……」
オーウェンはショートスリーパーで常に研究に没頭していることを門番は知っていた。黒い隈を見て、実は眠いんじゃないかと疑うこともしばしばあった。
門番が慌てて研究所の中へ戻っていく。しばらくすると、眼鏡をかけた男が姿を現した。
「これはこれは、ルーイ様。こんな時間にどうされたのですか? しかも、大勢で。」
オーウェン・ハースは、先日と変わらない穏やかな笑みを浮かべていた。視線は、ルーイの後ろの馬車に向いてる。ただ、ルーイの全身を見て、わずかに眉を動かした。
「先日は素晴らしい見学をさせてもらったよ」
「それは何よりです。研究について、ご理解いただけましたでしょうか?」
「うん。だから今日は、別の話をしに来た」
ルーイの声から、笑みが消える。オーウェンは表情を変えずに首を傾げた。
「別と言いますと?」
「研究所で行われている実験について、正式に告発する」
オーウェンの眉がわずかに動いた。
ルーイは一枚の書類を取り出した。オーウェンはすぐにそれを受け取り、目を通した。
「被験者への暴行。無断での拘束。薬品の使用。そして、恐怖や苦痛を利用した想晶の生成実験──」
ルーイが文字を読み上げると、オーウェンは慌てて口を開く。
「お待ちください。それは誤解です」
「そうかな?」
「先日も申し上げた通り、こちらでは法に触れるような実験は行っておりません」
オーウェンは二度もそう強調していた。実際、見学の際には、法に触れるようなことは行われていなかった。
「うん。そう言ってたね。だから、調べてもらうことにした」
ルーイは淡々と答え、もう一枚の書類を差し出した。オーウェンがそこに目を落とす。
「……これは?」
「研究所が購入した薬品の記録。被験者の記録。そして、研究費の流れだ」
ルーイの横に立っていた男が、次々と書類を差し出していく。オーウェンはちらりと視線を向ける。先日同行していた仮面の男も灰色の髪をしていた。だが、顔には火傷の跡があると言っていたが、この男は綺麗な肌をしていた。
「こちらを」
「ありがとう、シリル」
シリルと呼ばれた男は、静かに頭を下げた。仮面の男と同一人物なのだろうか。ただ、今はそれどころではなくオーウェンの頭からすぐにその疑問は消え去った。
「こちらには、研究所内で確認された被験者の人数と、実験内容が記録されています」
「こんなもの……どこから」
オーウェンの声が、初めて揺れた。
怪盗として盗み出したとは言えない。ルーイ──否、リアムは笑った。
「十分な証拠は揃ってるよ」
「お待ちください。あなたは、我々の研究に出資したいと……」
「俺たちは出資を目的に来たんじゃない。研究を知りたかったからだよ」
リアムの金色の瞳が、オーウェンを捉える。
「知りたい?」
「そして、知ることができた。ここが、何をしている場所なのか」
沈黙が落ちる。オーウェンはしばらくリアムを見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「あなたは……一体、何者なのですか?」
リアムは答えず、懐から一枚の書状を取り出した。封蝋には、見慣れない紋章が刻まれている。オーウェンが目を見開いた。
「……まさか」
「昨日は商人として話をしたからね──」
リアムは書状を開き、にやりと微笑んだ。
「──今日は、エルフォード侯爵家の者として話をする」
オーウェンの顔から、笑みが消えた。
「エルフォード侯爵家……」
「俺の名は、リアム・エルフォード」
オーウェンが息を呑む音が響いた。シリルが一歩前へ出る。
「エルフォード侯爵家に仕える執事、シリル・グレイと申します」
オーウェンは何かを考えるように目を細めた。だが、すぐに表情を戻す。
「しかし、これは研究です。被験者たちも同意の上で──」
「同意の上での研究だと、そう記者の前でも言い訳すればいい。本当に何も問題がないなら、あなたたちは困らないはずだ」
リアムの声は低かった。オーウェンは黙り込む。リアムは、その反応を見つめていた。
「一つだけ言っておく。どう言い逃れしようと俺は、あの子たちを見捨てない」
リアムが静かに口を開く。オーウェンの表情が、わずかに強張った。
「……あの子たち、まさか。」
「さあね」
リアムはそれ以上答えなかった。
遠くから、複数の足音が聞こえてくる。他の二台の馬車に乗ってきた、エルフォード侯爵家の騎士たちだった。
「シリル」
「はい」
「ここは騎士に任せよう。俺たちはあの子たちの元へ」
「かしこまりました」
騎士たちがオーウェンを取り囲んだのと同時に、二人は部屋を後にした。
その背中を、オーウェンは黙って見つめていた。昨日まで、自分の研究に興味を持つ一人の商人だと思っていた男。その正体が、侯爵家の人間だったとは。
オーウェンは、強く唇を噛んだ。赤い血が、唇から垂れ落ちた。
***
「ミラ、見て!」
朝食を終えたヴィオラは、新聞を読んでいた。ある一面を指差し、ミラを呼ぶ。
「エルフォード侯爵家、ホールデン領の違法研究所を告発……」
エルフォード侯爵家という文字に、ミラの視線が止まった。
怪盗リアムが告発に向かったはずなのに、どうしてエルフォード侯爵家が新聞に載っているのか。名前を借りたのだろうか、ミラは疑問に思う。
「エルフォード侯爵といえば……ご子息は海外から戻ってきてるのかしら」
「ご子息ですか?」
「──リアム・エルフォード。社交界には一切顔を出さず、エルフォード侯爵は海外へ行ってると公言していたみたいだけど、その存在さえ疑われていた人よ。新聞に載っているってことは、実在したのね」
ミラは危うく、手に持っていた新聞を落としそうになった。
研究所を調査していたリアムという名前が一致しているのは、偶然ではないはずだ。
執事ルーイは、怪盗リアムで。怪盗リアムは、リアム・エルフォード。
ミラの中で、全てが繋がった瞬間だった。
研究所についての調べが早かったこと。研究所への投資金をすぐに用意できたこと。所作が完璧だったこと。休暇を取る日数が多かったこと。想晶を盗むのに、金銭目的ではなかったこと。
全て、侯爵家の子息だったからだ。
「その、リアム様とはお会いしたことありますか?」
「ないわよー。私も存在を疑ってたもの」
「そうですか……」
ヴィオラが、ルーイの正体に気づかなかったことには納得できた。
「気になるの?」
「いえ」
存在自体を疑われていた侯爵家の令息を、一介のメイドが知っているのは不自然だ。ミラは、決して口にできなかった。
「──この研究って、リュシアンが言ってた研究かしら」
ヴィオラの顔から笑みが消え、一点を見つめて思い悩んでいる様子だった。リュシアンが『作られた想晶』の研究に投資をしているのは、分かっているがこの研究所なのだろうか。
ミラは知っていても、頷くことができなかった。ヴィオラに隠し事をしていることに、胸が痛んだ。
「……どうでしょうか」
「もしそうだったら……リュシアンのこと……」
ミラには、ヴィオラの言いたいことがなんとなく分かった。
記事には、子ども達に行われてきた数々の残虐な行為が、簡潔にだが記されている。ヴィオラは胸を痛めていた。
「しかし、研究の内容は知らなかったかもしれないですし……」
「そうよね。リュシアンと話をしたいわ。こんな残虐な研究に加担していたなんて、信じたくないもの」
「手紙を出しますか?」
ヴィオラは頷いた。
リュシアンに直接確かめるため、ヴィオラは手紙を書くことにした。新聞の一面を見て、彼も驚いているに違いない。




