35 怪盗とお嬢様
「──お嬢様。ヴィオラお嬢様」
いつの間にか眠りについていたヴィオラは、聞き慣れた声で目覚めた。視界には、ルーイの姿が映る。
「お嬢様、ご挨拶したいという方が」
「ご挨拶……」
ベルナール邸で、しかもこんな夜更けにご挨拶。怪盗エリオが屋敷に侵入すると言われているのに、なぜ今。
ルーイが優雅に下がると、目線の先の窓枠に腰かける、白い怪盗の姿があった。
「怪盗エリオ?」
シルクハットを深くかぶった怪盗エリオが目の前にいた。ヴィオラは咄嗟に、右手の薬指に触れる。そこで、別室に保管してあることを思い出した。アメシストのリングを盗みに来たはずだが、部屋を間違えたのだろうか。でも、ルーイは挨拶と言っていた。ヴィオラはすぐにルーイを見上げる。
「──ヴィオラお嬢様」
怪盗エリオが声を発した瞬間、ヴィオラの薄水色の瞳が大きく開いた。顔は見えないが、声で気づいた。だって、ずっと隣で聞いてきた、自分の名前を呼ぶ声。
「──シリルなの?」
そこで、ルーイはようやく確信を得た。
突然ヴィオラの部屋に侵入してきた彼を、ルーイは執事として捕らえようとした。そこで怪盗エリオは、「ヴィオラお嬢様の、元執事なのです。少しだけお嬢様とお話させていただけませんか」と言った。ヴィオラの反応を見て、それは事実だったのだと理解できた。
「このアメシストを、ずっと探していたのです」
シリルの手元には、先ほど盗んだばかりのアメシストのリングがあった。
「これはあの日、拾って。私が生んだアメシストなの」
「いいえ。これは、私が生んでしまったもの。お嬢様への、想いが漏れ出てしまった罪の証です」
「罪……」
主人に恋をしてしまった罪だと、シリルの言いたいことはヴィオラにも伝わっていた。シリルの想いには気づいていたし、きっと自分の想いも気づかれていただろう。決して口にしなかった二人だが、この想晶が生まれたことで、口にしてしまったようなものだった。
「あの日落としてしまって、色だけを頼りに探していたのですが、まさかお嬢様が拾っていたなんて」
「じゃあ、どうしてエメラルドを盗んだの?」
「それは……私が怪盗になって、初めて盗むのは旦那様──いえ、ヴァレンティン・エレインが生んだものにしようと決めていました。憂さ晴らし、のためです」
シリルに、こういう人間味のある一面があることを、ヴィオラは初めて知った。いつも完璧だったシリルから、憂さ晴らしという発言が出るなんて。
「……どうして笑っているのですか?」
「嬉しいの。シリルのそんな姿が見られて」
「そこは怒るところですよ、お嬢様」
あの頃に戻ったかのようだ。シリルのこういう発言で、ヴィオラは目頭が熱くなる。もう会えないと思っていた。このアメシストに閉じ込めたと思っていた。
でも、これはシリルの想いだった。じゃあ、尚更。
「シリル、これは私が持っていたいのだけど……良いかしら」
シリルの桃色の目に迷いの色が浮かぶが、ヴィオラには帽子で見えなかった。
「……はい。光栄です」
アメシストに込めた想いを知られた今、それを受け入れてくれるとは、シリルは思っていなかった。
「お嬢様。ミラです。ご無事ですか?」
ミラの声がした。相変わらず、お嬢様に従順なんだと、シリルの頬が緩む。
シリルは窓際から降りて、ヴィオラの両手にリングを包み込ませる。そして微笑むと、すぐに窓際に立った。
立ち去るのだ。そう思うと、ヴィオラは引き止めたい気持ちでいっぱいになる。
「お嬢様! いらっしゃいますか?」
「──ミラ、ちょっと待ってくれる?」
声は震えてしまった。ミラの入室を許可しなかったことなど、今まで一度もなかったからだ。ミラへの罪悪感があるが、今は考えている余裕はなかった。一度も扉は見ず、シリルの姿を捉えたままだった。シリルが口を開く。
「お会いできて、嬉しかったです。お元気そうで、それだけで私はいいのです」
もう会えないと、会わないと思っていたのは、シリルも同じだった。病弱なヴィオラが、元気でいるだけで幸せだった。
「また会える?」
「はい」
こちらから会うつもりはない。それでも、涙を浮かべたヴィオラに、それを言うことはシリルにはできなかった。
扉が開く音がした。ミラが驚いているのが、シリルからも見える。
「怪盗エリオ!」
二人の騎士が慌てて駆け出す。それよりも先に、シリル──怪盗エリオはヴィオラを見つめながら、窓から飛び出した。騎士が窓に駆け寄り、外を覗く。しかし、彼の姿はもう見当たらない。
「おい! 怪盗エリオが逃げたぞ!」
下を歩いていた騎士に呼びかけると、辺りが再び騒がしくなった。
「お嬢様!」
ミラがヴィオラの側に寄る。ヴィオラは涙でミラの顔が分からなかった。そして、ヴィオラはミラを見て、首を横に振っただけだった。
「ミラ、お嬢様は大丈夫」
そう呼びかけたのは、近くに立っていたルーイだった。
「大丈夫って? 説明してください。どういう状況なのですか?」
「俺は用があって抜けるから」
「ちょっと……」
引き止めるミラの声を遮るように、ルーイはにやりと笑う。
「今は、お嬢様を頼む」
それだけを告げると、ルーイはミラの返事を待たず、扉から出て行った。
「……説明になっていませんよ」
小さく呟いても、返ってくる声はない。ミラは大きく息を吐いた。
「お嬢様、何もされていませんか?」
まだ涙が止まらないヴィオラは、小さく頷く。背中を撫でてくれるミラに、全てを早く話したい気持ちがある。でも、探偵や騎士もいる。それに、気持ちの整理もしたかった。だから出た言葉は。
「──ごめんね、ミラ」
「お嬢様がご無事なら、それで──」
ミラの言葉が、ヴィオラの胸を締め付ける。普段は顔に出ないのに、ミラが傷ついた顔をしていたからだ。ミラが信頼してくれていることは知っているし、自分もミラを信頼している。それを裏切ってしまったように、ヴィオラは感じた。
ミラを信頼していることは変わらない。誰よりも一番信頼しているのだと、ヴィオラは早く伝えてあげたかった。
***
「お嬢様……」
全て話し終えたヴィオラは、ミラの言葉を待った。
ミラは無言で立ち上がると、ヴィオラの側に寄る。
「……抱きしめても、よろしいでしょうか?」
ヴィオラは立ち上がり、ミラへと手を伸ばす。弱い力で、ミラはヴィオラを抱きしめた。
「お嬢様、シリルさんにまた再会できて本当に良かったです」
ミラの言葉に、ヴィオラは驚きを隠せなかった。すぐに話さなかったことや、傷ついたことなどは置いて、真っ先に主人の喜びに共感してくれた。そして同時に、ミラにはシリルへの気持ちが気づかれているのだと分かった。
ヴィオラは一瞬、力を弱めた。
「あの時は、シリルを守るために、ミラへすぐ話せなかったの。いつだって信頼してるのは、ミラよ」
「まず不安に感じてしまい、申し訳ございません。従者がこのような感情を主人に抱くなど、あってはならないことだと思います。でも、こうやって話していただけただけで、抱いていた不安など消え去りました。それよりも私は、お嬢様が幸せに感じられたことが嬉しいです」
囁かれた言葉に、ヴィオラは笑みを浮かべる。
「ふふっ、ミラは私のこと大好きね」
「もちろんです。何よりも誰よりも大好きです」
「私も、大好きよ」
ヴィオラの抱きしめる力が強くなる。
私がお嬢様を守らなければ。また、その想いが強くなる。
もしも。あの研究施設で何が行われているのか、リュシアン・ルクレールが理解したうえで投資しているのなら。そんな男に、お嬢様を任せていいのだろうか。そんな疑問さえ、ミラは浮かんでしまう。
知っていたか、知らなかったかでは大きな違いがあり、それを確かめなければならなかった。




