31 怪盗と投資
リュシアンが帰ったあとも、カロラはしばらく自室から出てこなかった。
ミラが様子を見に行くと、ベッドの上で膝を抱えている。いつもなら明るく笑っている橙色の瞳には、まだ怯えが残っていた。
「……ミラさん」
「大丈夫?」
「はい……もう、大丈夫です」
そう答えながらも、カロラの声は震えていた。
「ごめんなさい。あんなに大きな声を出してしまって……」
「謝らなくていいわ」
ミラはそう言って、カロラの背中をゆっくりと撫でた。しばらくすると、カロラの震えが少しずつ落ち着いていく。
「……あの人は、あれが研究の……結果だって言ってたんですよね」
「ええ」
「どうして……あんな記憶から生まれたものを、綺麗だって言えるんでしょう」
カロラの瞳から、再び涙がこぼれそうになる。
ミラは答えられなかった。自分も同じことを考えていた。
あのシトリンには、何度も殴られた人間の記憶が残っていた。それを聞いた上で、リュシアンは美しいと言った。想晶に込められた想いではなく、その輝きだけを見ている。それが、彼らの研究なのだろうか。
ミラはカロラの部屋を出ると、廊下で待っていたリアムと目が合った。
「どうだった?」
「まだ怖がってる。しばらくは無理に視てもらわない方がいいと思う」
「そうだね」
リアムは短く答えた。
二人は少しの間、黙っていた。やがて、リアムが低い声で言う。
「……あのシトリン、気になるね」
ミラが言おうと思っていた言葉だった。
「私も」
「リュシアンは研究に金を出してるだけだって言ってたよな」
「ええ。もし、あんな方法で想晶を作っているのなら……許せない」
ミラは、先ほどのカロラの怯えた顔を思い出す。
あのシトリンに残っていた記憶が、本当に研究によって生まれたものなのかも分からない。それが研究のために誰かを殴った記憶なのか、それとも、もともと虐待を受けていた人間が、その過去を思い出しただけなのか。まだ何も分からない。
リアムが、ミラを真っすぐに見る。
「……あのシトリンだけで、研究所を疑うのは早いかもしれないけどな」
「でも、もし本当にそうなら……」
想像するだけで、背筋が凍るような感覚だった。
「だから。リュシアンが何に金を出してるのか、調べてみる価値はあると思う」
ミラは頷いた。
「……そうね。調べましょう」
「うん」
リアムも頷く。けれど、ミラはすぐに首を傾げた。
「でも……どう調べるつもり?」
「ん?」
リアムは、何かを隠しているような声だった。
「リュシアン様が投資している研究所なんて、簡単に分かるものなの?」
「まあ、なんとかなるよ」
「なんとかって……」
あまりにも曖昧な答えに、ミラは眉を寄せる。
「リアム、何か方法があるの?」
「ある」
リアムはあっさり答えた。ただ、詳しく話すつもりはないらしい。
「じゃあ、教えて」
「それは……」
リアムは一瞬だけ言葉を止める。
「ちょっと待ってて」
「……それだけ?」
「うん。それだけ」
ミラは納得できないようにリアムを見つめた。でも、リアムが待っててと言うのなら。
「分かった。でも、無茶はしないでね」
「えー、ミラに心配されるとは思わなかった」
リアムは一瞬瞬きをしたあと、顔を逸らしながら軽口を叩いた。
「心配くらいする」
「そっか」
リアムは少し嬉しそうに笑った。
「じゃあ、任せて」
そう言って、リアムは廊下の向こうへ歩いていった。ミラはその背中を見送る。
──いったい、どうやって調べるつもりなのだろう。怪盗としての情報網でもあるのだろうか。それとも、まだ自分の知らない何かを持っているのか。そんな小さな疑問を胸の片隅に残しながら、ミラも自分の仕事へ戻った。
***
それから数日が経った。リアムはいつも通り、夜になるとミラの部屋を訪れる。
「ミラ」
怪盗服姿で現れた彼の手に、いつもの想晶は握られていなかった。代わりに、紙の束を持っている。
「調べ終わったよ」
「……え?」
あまりにもあっさりと言われて、ミラは足を止めた。
「もう?」
ミラは目を見開く。ほんの数日しか経っていない。どうやって調べたのか気になったが、口には出さなかった。
「ここ」
差し出された紙を受け取り、ミラは目を通していく。
「表向きの研究内容は、想晶の生成方法と品質向上。ここ数年で、かなり大きな資金が入ってる」
ミラは紙に並んだ数字を追う。
「……これ、全部リュシアン様から?」
「全部じゃない。でも、まぁまぁな額を出してるのは間違いない。ただ、伯爵家や公爵家からも大きな額が入ってる」
これだけの金額を出しているということは、研究内容を知ったうえで資金を提供しているのだろうか。
「一番驚いたのは、ここ」
「わ……すごい額……」
「ナディーヌ・ランクリフ嬢。彼女の名義で出資されてた」
ミラは目を見開く。
ヴィオラが招待されたお茶会で、ナディーヌが作られた想晶に興味を持っていたことを思い出す。
「……投資を始めたのね」
「そうみたいだな」
お茶会で見たナディーヌは煌びやかだった。たくさんの想晶で着飾っていて、これからは作られた想晶も、その中に加わっていくのだろうか。
「研究所の場所も分かったの?」
ミラが資料へ視線を戻す。そこには一枚の地図と、印がつけられていた。
「リュシアンの出資先を調べれば、すぐに分かった。彼はここにしか出資してない。表向きは普通の、申請された研究所だから。ここから馬車で半日くらい。街から少し離れた場所にある。ホールデン領の中だな」
「……ホールデン伯爵家」
「そう。でも、ホールデン伯爵家は出資していない。研究内容までは知らないのかもな」
ホールデン伯爵家は、エレイン伯爵家と関わりが少ない家だった。社交の場で顔を合わせることはあっても、親しい付き合いがあるわけではない。領地も離れており、エレイン家がホールデン領を訪れることもほとんどなかった。
最近、一人目の子息が生まれたばかりで、社交界ではその話題をよく耳にするようになった。けれど、ヴィオラが直接会ったことはなく、個人的な接点もなかった。だからこそ、その領地にある研究所のことを、ミラたちが知ることもなかったのだろう。
リアムが、また別の紙を指差す。
「あと、気になることがある。この研究所、研究内容をほとんど公表してない」
「……どういうこと?」
「研究が成功した、って発表は何度か出してる。でも、何を使って、どうやって想晶を生み出したのかは一切書かれてない」
ミラの表情が険しくなる。
「……問題は、ここからどうするか」
リアムが静かに尋ねた。ミラは資料を握りしめる。
研究所の場所が分かったからといって、すぐに向かうわけにはいかなかった。二人だけで何ができるのかも分からない。勝手に入り込めば、エレイン伯爵家に迷惑をかける可能性もある。
それでも、あのシトリンが何なのかを知りたいという気持ちは消えなかった。
「研究所に行っても不自然でない理由……難しいわね」
ミラは考え込む。そこで、リアムにひとつの考えが浮かんだ。
「研究所が資金を集めてるなら、投資を持ちかければいい」
「私たちが?」
「金を出したい人間が、必ずしも貴族とは限らないだろ」
実際、想晶は高価なもので、商人や富裕層が研究に投資すること自体は不自然ではない。ただ、ミラが懸念しているのは、その資金だった。
「お金はどうするの……」
「あー……」
リアムは一度、言葉に迷った。ミラは小さく首を傾げる。
「……俺、怪盗だよ?」
「それは理由になってないと思うけど……」
「まあ、なんとかなるって」
想晶を売ったときに得たお金があるのだろうか。
「リアムは秘密が多い」
人のことは言えないが、自分よりもまだ隠していることが多いと、ミラは思っていた。
「俺のこと知りたい?」
金色の瞳が真っ直ぐ見つめてくる。ミラは言葉に迷った。
知りたい、知っていきたい。でも、なぜかと聞かれたらミラは答えられる自信がない。それでも、
「……知りたいよ」
ああ、ダメだ。そうリアムが思った時には遅かった。顔にみるみるうちに熱が集まり、赤さを隠している暇はなかった。バチリと目が合い、ミラは数回瞬きをする。
「そんな顔、初めて見た」
いつもからかわれてばかりだが、リアムが本気で照れた表情は初めてだった。今までは上手く逸らせていたのに。
「調子狂うな、ほんと」
「なんだか嬉しい」
「何が嬉しいの?」
リアムの金色の瞳が細まる。
「知りたいって言ったでしょう?リアムのそんな顔を、初めて見たから」
「どーしたの、今日……俺で遊んでる?」
赤いままのリアムを見て、ミラは笑った。
「……からかうのって、こんなに楽しいんだ。知らなかった」
「それがミラの本性? 悪いなー」
リアムはシルクハットを深くかぶる。この仕草がどういう意味なのかも、ミラは最近分かってきた。そして、彼は次にマントを翻すはずだ。
ミラの予想通り、リアムがマントを翻した。視界が黒くなったかと思うと、次の瞬間。予想は外れ、リアムは目の前に迫っていた。
「ほら。ミラも赤くなった」
リアムが楽しそうに微笑む。瞬きをしているうちに、気がつけばリアムは窓の縁を掴んでいた。
「金は用意するから。おやすみ、ミラ」
そう言って、リアムは逃げるように去っていった。
ミラは小さく笑い、彼の赤い顔を思い出して頬が緩んだ。




