29 怪盗とエレイン邸
南のベルナール領を出発して数日。エレイン伯爵家の馬車は、ようやく見慣れた街並みへと戻ってきた。
「……帰ってきたのね」
馬車の窓から外を眺めながら、ヴィオラが呟いた。
見慣れた街並み。見慣れた道。そして、その先に見えてくるエレイン邸。
やがて、大きな門が開かれ、馬車はエレイン邸の敷地へと入っていった。久しぶりに見る屋敷は、ベルナール邸とは違う安心感があった。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
馬車から降りると、執事長シグヴァルトと使用人たちが出迎えた。
そして、その奥から淡い黄色のドレスを着たリディアが走ってくるのが見える。
「ヴィオラ!! 大丈夫なの? 側にいられなくてごめんね。熱は? 少し痩せた?」
リディアは若葉色の瞳に薄っすら涙を浮かべながら、ヴィオラの全身を見回したあと、弱々しい力で抱きしめる。
リディアも病に侵されていたことは、ヴァレンティンからの手紙でヴィオラも知っていた。
「お母様、この通り元気よ。叔母様にも久しぶりに会えて嬉しかった」
「よかった……。フローラ様にもお礼をしなきゃ」
「ヴィオラ!おかえり!」
リディアの後ろから、ヴァレンティンが歩いてきた。ヴィオラはリディアの肩から顔を出し、微笑んだ。
「お父様、ただいま」
両親との再会を、ミラは微笑ましく見つめていた。
ヴィオラは自室へと戻った。旅立ったときと変わらず、埃ひとつない状態に掃除されている。
「お嬢様、冬の間に届いていた郵便でございます。仕分けられるものは、旦那様が行いました」
使用人の一人が、封筒の束を差し出した。
「ありがとう」
ヴィオラは封筒を受け取る。差出人の名を確認していくと、ヴィオラは少しだけ眉を上げた。
「……リュシアンからだわ」
ヴィオラは封を開け、中の便箋を取り出した。
そこには、ヴィオラの体調を気遣う言葉がいくつも綴られていた。
南の領地で冬を過ごすことについて。身体に無理をしていないかということ。エレイン邸へ戻ることを楽しみにしていること。そして──。
「……研究のほうも、順調みたい」
「例の、想晶の研究ですね」
「ええ」
ヴィオラは便箋に視線を落としたまま答えた。
「どうやら、かなり成果が出ているみたい」
ミラは黙った。胸の奥に、嫌な感覚が残る。
以前、リュシアンから贈られた青いサファイア。あの想晶を見たときに感じた、言葉にできない気味の悪さ。あの記憶が、今でも頭から離れない。
「……今度、見せに来るそうよ」
ミラは一度、息を吐いた。
「少し、怖いです」
「私もよ」
ヴィオラの表情が暗くなる。手紙を握る指に、わずかに力が入っていた。
***
ミラも一度自分の部屋に戻り、少ない荷物を整理した。そして廊下に出て、いつもの業務へ戻る。
すると、向こうから見慣れた騎士服が近づいてきた。
「ミラ!」
聞き慣れた声に、ミラは顔を上げた。
「……レオン!」
「さっき帰ったって聞いて、慌てて会いに来た」
嬉しそうに笑いながら、レオンが歩いてくる。
彼の剣の鞘には、ローズクォーツが煌めいていた。ちゃんと持ち主のもとへ戻ったのだと、ミラは安堵の息を吐く。
「元気だった?」
「それはこっちの台詞。森に行ってる間に南の領地に行くなんてな。帰ったらいないし。心配で心配で」
レオンの眉が下がる。
「そんなに心配しなくても大丈夫だったわ。お嬢様も、もうすっかり元気よ」
「それはよかった!まぁ、そっちの心配もだけど……違う方の心配もあったけどな」
口には出さない。好きな人と恋敵が、一緒に冬を越していたことへの心配だ。
「違う方の心配?」
「こっちの話! お嬢様はずっと寝込んでたのか?」
「最初の頃は熱が続いていたけれど、少しずつ外にも出られるようになったし。最後には海まで見に行ったの」
「海?いいなあ。俺も行きたかった」
レオンの目が輝く。エレイン領に海はなく、気軽に行ける場所ではない。
「海、好きなの?」
レオンは少し不満そうに唇を尖らせた。
「好きっちゃ好きかな。ミラと海を歩いたりしたかった」
「……」
ミラは一瞬、言葉を詰まらせた。
レオンに対して、罪悪感があった。自分の気持ちは、もう決まっている。それなのに、それを伝えられない。応えることもできない。ミラは自分を責めていたが、レオンはそんなことには気づいていなかった。
「……海は綺麗だったよ。昼と夜で、全然違って見えた」
「へえ。夜も見たの?」
「うん」
「誰と?」
何気ない問いだった。けれど、ミラはまた、一瞬だけ言葉に詰まった。
「……ルーイさんと」
「ルーイさんと?」
「……うん」
レオンの笑顔が、わずかに引きつった。
「俺の心配、当たってたな」
ぽつりと呟いて、レオンは胸元を押さえた。
「あー……苦しい」
「レオン?」
本当に、胸が痛かった。何かに締めつけられているような、息苦しい痛み。嫉妬というものが、こんなにも苦しいものだとは思わなかった。
好きで、好きで。だからこそ、苦しい。自分が一緒に見たかった。自分と歩いてほしかった。自分の隣で、笑ってほしかった。
「……ちょっと待って」
レオンはその場にしゃがみ込んだ。胸の奥から、どす黒い感情が溢れ出してくる。
──俺のこと、好きになって。そんな言葉を、今すぐミラにぶつけてしまいそうだった。けれど、それだけはしたくない。ミラが困る顔をするのは、もっと嫌だった。
レオンは目を閉じ、大きく息を吐く。ゆっくりと息を吸い込んでから、立ち上がった。
「……ごめん」
そう言いながら、レオンは少しだけ視線を逸らす。けれど、すぐにいつもの笑顔へ戻った。
「それよりさ。南にいる間、俺のこと少しくらい思い出してくれた?」
「もちろん」
ミラは素直に答えた。
手紙が来たから、というだけではない。レオンと過ごした日々の中で交わした会話を、ふと思い出すことは何度もあった。
「部屋に蜘蛛が出たことがあって。レオンとの会話を思い出した。あと、赤い色を見ると、レオンは元気かなって思ってた」
「……え?」
レオンの目が大きくなる。
「え、えっ。本当に?」
「うん」
今度こそ、レオンは嬉しそうに笑った。
さっきまで胸の中で渦巻いていた黒い感情が、ミラの一言であっさりと消えていく。
ずるい。そんなことを言われたら、何も言えなくなるじゃないか。レオンは、ミラの言葉を心の中で何度も繰り返した。
「それだけで、嬉しい」
赤い瞳が細くなる。
その笑みがあまりにも愛おしそうにミラを見つめるものだから、今度はミラの頬が赤く染まっていく。
「ミラ」
その瞬間、背後から声がした。二人が振り返る。そこには、書類を抱えたルーイが立っていた。
「お嬢様がお呼びだ。急ぎの用らしい」
「あ、分かりました」
ミラが頷く。
「じゃあ、俺も行きます。お嬢様の無事を見たいし」
「レオン。君は騎士団の仕事があるんじゃないのか?」
ルーイが、レオンの言葉を遮る。
「あるけど、主人の心配をしてもいいですよね?」
「そうだね。少しくらいなら」
ルーイは笑った。
「……なんか怖いですね、その言い方」
「気のせいじゃないか?」
いつもの穏やかな笑み。けれど、その手にある書類の端が、ほんの少し歪んでいた。
「ミラ、行こう」
レオンがミラの肩に触れる。ルーイの片眉が、ぴくっと吊り上がった。けれど、もうこれ以上、止める理由は見つからない。
レオンがルーイを振り返る。そして、にやりと笑った。夜の海へ誘ったことへの、仕返しだった。
冷静沈着な執事ルーイの表情が、ほんの一瞬だけ歪む。レオンは初めて、その顔を見た。
***
「ミラさん! ルーイさん! おかえりなさい!」
カロラが笑顔で駆け寄ってくる。ひとつに結ばれた髪が、軽やかに揺れていた。
「会いたかったです! 何も言わずに行っちゃうんですもん……寂しかったです」
そう言ったとき、カロラの橙色の瞳はルーイへ向けられていた。それに気づいたミラの胸が、ちくりと小さく痛む。
素直な彼女のことを、ミラは可愛いと思った。同時に、羨ましいとも感じた。
「問題とか起こしてない?」
「もう!ルーイさん!ちょっと、言葉の使い方を注意されちゃったくらいです」
「また俺が教えるから」
記憶が視える彼女だが、その光景を言葉で伝えることには、まだ苦戦している。
「お願いしますね。ミラさんも顔色が良くてよかったです」
「顔色って、もともと悪かったように聞こえるだろ……」
「違います、違います!もともと綺麗でした!」
「元気そう、でいいんだよ」
カロラの顔がぱっと明るくなり、ルーイを尊敬するような瞳で見つめる。
ルーイのこういう優しいところに、カロラは惹かれているのだろうか。ミラは胸の奥が、きゅっと締めつけられるのを感じた。
「ルーイさん、今日から視るの始まりますか?」
「視たくてたまんないって顔だね」
「はい!あの時間、好きなんです」
「ほんと、素直」
カロラのように、素直に言えたら。ルーイの、リアムの力になりたいと言えたら。好きだと伝えられたら。どうしても言葉にできないミラは、ただ嫉妬することしかできなかった。
「では、業務に戻ります」
「ミラ、頑張りすぎないように。帰ってきたばっかだし、休んでてもいいのに」
「大丈夫」
立ち去ろうとしたミラは、一瞬だけ振り返った。そして、ルーイに向かって微笑む。その笑顔に、カロラの目が大きく開いた。
ミラの背中を見ながら、カロラは口を開く。
「ミラさんと、何かありました?」
ルーイが一瞬、固まった。
「……なんで?」
「んー……なんていうか、とっても可愛い笑顔だったので」
「そんなの、いつもでしょ」
「なんかこう、違うんです……。伝えられない。ほんと、私って下手です。とにかく、笑顔が違います!」
カロラは言いたいことが伝わらず、もどかしそうに眉を寄せる。
けれど、いつもルーイは諦めようとしない。分からない言葉でも、カロラが何を伝えたいのかを理解しようとしてくれた。
「ベルナール邸に行ってからってこと?」
「そうです、そうです!あんなに笑う人でした?」
──俺の前では、よく笑ってた。そう言いそうになって、ルーイは口を噤んだ。
「可愛いです、ミラさん」
「海に行ったからか……。けど、あの騎士にも笑ってたし。あんまり見られたくないんだけど」
「そんなに愛されて、羨ましいです」
カロラは純粋な瞳で、ルーイを見上げる。ルーイは目を逸らしながら、口を開いた。
「また言葉、間違えてる」
「たぶん間違えてません!」
ルーイは逃れるようにカロラへ背を向けた。
けれど、そこには窓がある。ガラスに映った自分の顔が、ほんのり赤くなっていた。
「……」
ルーイは何も言わず、窓から目を逸らした。




