28 怪盗と春の気配
南の領地での滞在が長くなるにつれ、ミラとニコラスが顔を合わせることも増えていた。
その日も、ある本屋でニコラスが資料を眺めていた。そこへメイド服姿のミラが通りかかり、声をかける。
「ニコラスさん! こんにちは」
「ミラさん! 本を探しに?」
「ええ。お嬢様のお買い物です」
ちらりと、ニコラスが読んでいたものに目を向ける。そこには、想晶の写真がずらりと並んでいた。
「想晶のことを調べているんですか?」
ミラが尋ねると、ニコラスは顔を上げた。
「最近、怪盗エリオの盗むものが変わったんだ」
「そうなんですか?」
「紫色だけでなく、いろんな想晶を盗むようになった。それに、持ち主に返すことも増えた」
ニコラスは資料へ視線を戻す。
「……何か、目的が変わったのか?」
怪盗エリオは、怪盗リアムに協力し始めた。その姿をミラはまだ見たことがない。けれど、リアムが想晶を視せに来たとき、それが怪盗エリオの盗んできたものだと聞いている。
ニコラスが、じっとミラを見る。顔には出していないはずだ。けれど、何か気づかれてしまったのだろうか。ミラの背筋が、ひやりと冷える。
「……何でしょう?」
「いや」
ニコラスは資料を閉じた。
「最初に会ったときより、ミラさん、変わったなと思って」
「私が……?」
「うん。前より柔らかくなった」
「そうでしょうか……」
「そうだよ。そっちのほうがいい」
ミラは返事をしなかった。自分では、あまり変わったつもりはない。けれど、兄を亡くしてから、笑うことが少なくなったのは自分でも分かっていた。それが少し戻ったのは――。
「……海のせいかもしれない」
「海?」
「なんでもない……です」
「なんだ、それ」
ニコラスが呆れたように笑う。ミラも、つられて笑った。
そんなミラを見て、ニコラスはふっと目を細めると、ぽん、とその頭を撫でた。思いがけない仕草に、ミラは目を瞬く。それが、不思議と嬉しかった。
大人になった兄も、こんなふうに笑って、こんなふうに頭を撫でてくれたのだろうか。そんな考えが浮かんだ瞬間、ミラの指が無意識に右手中指へ触れた。
ブラックダイヤモンド。その奥から、兄の最期の記憶が蘇る。
「勝手に、妹みたいだと思ってしまってる……いつでも頼ってくれていいからね」
「……はい。ありがとうございます、嬉しいです。」
兄がいたことを、伝えようか迷った。けれど、ミラは口を閉ざした。ニコラスなら、きっと心を痛めてくれる。そして、自分に寄り添おうとしてくれるだろう。
それが分かるからこそ、甘えてしまいそうで怖かった。
もし、兄を殺した犯人が分かったら。そのとき、自分はどうなるのだろう。何を想うのだろう。ミラは、それが恐ろしかった。
***
「ミラ」
「はい?」
「海を見に行きたいわ」
朝食を終えたヴィオラが、窓の外を眺めながら言った。
「海、ですか?」
「ええ。せっかく南の領地にいるんだもの」
先日も、誰かから聞いた言葉だった。南へ来たら、海を眺めたくなるものなのだろうか。
ミラは窓の外を見る。冬の海は風が強く、まだ肌寒い。
「今日は少し冷えます」
「分かってるわ。でも、海が見たいの」
ヴィオラは嬉しそうに笑った。その顔を見て、ミラは小さく息を吐く。
ミラには、ヴィオラに海を見せてあげたいという気持ちがあった。ヴィオラが海を好きなことは、シリルの記憶を通して知っている。
ヴィオラが海を好きになったのは、シリルがいたからだった。幼い頃、ベルナール邸で過ごすことが多かったヴィオラは、執事見習いだったシリルと何度か海へ行ったことがある。
「海を見るとね、なんだか遠くまで行ける気がするの。ずっと向こうまで海が続いていて、その先には何があるのかなって考えるのが好きなのよ」
そう話すヴィオラは、まるでこれから海へ冒険に行く子供のようだった。ミラには、そんなお嬢様の姿が少し意外だった。
普段は淑女らしく振る舞い、屋敷では誰よりも優しく穏やかなヴィオラ。けれど、海の話になると、その面影が少しだけ消える。ただ好きなものを目の前にした、一人の少女になる。
「……分かりました。ただし、長時間は駄目です」
「ありがとう、ミラ!」
ヴィオラが、少し冷えた手でミラの手に触れる。その瞬間、アメシストのリングがミラの指に触れた。淡い恋心が、胸の奥へ流れ込んでくる。
ヴィオラの笑顔が見られるのなら。それだけでいい。ミラは、そう思った。
「早く行きましょう!」
「お嬢様、まだ準備が――」
「そうだったわ!」
慌てて手を離し、ヴィオラは自分の身支度について考え始める。
「厚手の外套が必要ね。それから手袋も……あ、帽子は飛ばされないものがいいかしら?」
「全部、こちらで用意しますから。まずは落ち着いてください」
「だって、海よ? 海なのよ、ミラ!」
まるで初めて海を見るかのような喜びように、ミラは小さく息を吐いた。けれど、そんなヴィオラを見ていると、自然と頬が緩んだ。
結局、リアム──執事のルーイも同行することになった。
砂浜へ着くと、ヴィオラは馬車から降りるなり、海へ駆け出しそうになった。
「お嬢様!」
ミラが慌てて呼び止める。
「走ってはいけません!」
「分かってるわ!」
そう言いながらも、ヴィオラの足取りは明らかに浮き足立っている。
砂浜へ足を踏み入れた瞬間、ヴィオラは立ち止まった。
「……わぁ」
目の前に広がる海。冬の冷たい風に淡い青色のドレスの裾が揺れ、どこまでも続く水平線が青空と重なっている。
「素敵……!」
ヴィオラは両手を胸の前で組み、嬉しそうに海を見つめた。
ミラも海を眺める。夜の海とは、まったく違う表情をしていた。
「お嬢様、寒くないですか?」
「大丈夫よ」
広い海を見つめるヴィオラの横顔は、子供のように無邪気だった。
「ミラにも見せたかったの」
「私に?」
「ええ。私、海が好きだから」
ヴィオラは海を見たまま、嬉しそうに笑う。
「好きなものは、大切な人にも見てほしいでしょう?」
そう言って、ヴィオラは海へ向けていた笑顔をミラへ向けた。
──大切な人。その言葉が、こんなにも嬉しいなんて。
「……ありがとうございます。本当に綺麗です」
海も。そして、ヴィオラの笑顔も。ミラは微笑んだ。
ふと、少し離れたところにいるルーイを見る。すると、目が合った。ルーイは何も言わず、少しだけ笑った。その瞬間、ミラの胸に、あの夜の海が蘇る。
二人で歩いた砂浜。月明かり。並んだ足跡。リアムの横顔。リアムの声。
「ミラ?」
「……はい?」
「どうしたの?」
「いえ。なんでもありません」
呆然としていたミラは、慌てて海へ視線を戻した。隣では、ヴィオラが嬉しそうに波を眺めている。やがて、ヴィオラは海へ近づいていく。
リアムはゆっくりとミラの隣に並んだ。
「今、思い出してた?」
「っ……この前来たばかりだから」
「俺も。思い出してたよ」
ミラは驚いてリアムを見上げる。すると、彼の頬が一瞬赤く見えた。すぐに逸らされ、リアムはヴィオラの方へ歩いていく。
胸の高鳴りが、波の音よりうるさい。ミラは、落ち着くまでリアムに近づけなかった。そんなミラを不思議に思って、ヴィオラは振り返る。
「ミラ! 足だけつけてもいいでしょ?」
「駄目ですよ! 水はかなり冷たいはず……」
「冗談よ!」
ミラが慌てて駆け寄ってくるのを見て、ヴィオラは楽しそうに笑った。そんな二人を見て、リアムは声を出して笑う。
ミラが大切にしている人。ミラが守りたいと願っている人。ならば、自分も大切にしたい。ヴィオラを見つめながら、リアムはそんなことを思った。
***
南の領地に、春の気配が訪れ始めた。冷たかった風は少しずつ和らぎ、街の木々には小さな芽が顔を出している。長かった冬も、もう終わろうとしていた。
「そろそろ帰るのね」
ヴィオラは窓の外を眺めながら、ぽつりと呟いた。
「はい。旦那様からも、帰還の準備をするよう連絡が届いております」
「そう……」
少し寂しそうな声だった。ミラはその横顔を見る。
南の領地へ来たばかりの頃は、発熱が続き、ヴィオラは外へ出ることさえ難しかった。それでも少しずつ街へ出られるようになり、海を見に行った。たくさんの時間を過ごした。
「ヴィオラ、また会いにいらっしゃいね」
「フローラ叔母様、ありがとうございました。また、絶対に会いに来ます」
フローラは微笑む。彼女の胸元には、エメラルドが輝いていた。ベルナール邸にエメラルドが戻ってきてすぐに、フローラは身に着けられるようブローチに加工していた。
ヴィオラは名残惜しそうに馬車へ乗り込んだ。ミラも続いて乗り込む。その後ろから、ルーイが扉を閉めた。馬車がゆっくりと動き始める。
馬車は森の中を進む。すると、森を抜けて眩しいほどの日差しが小窓から差した。
「ミラ! 海よ!」
小窓から見えたのは、かつて三人で訪れた砂浜。春の海は、冬に見たときよりも穏やかに見えた。ヴィオラはしばらく何も言わず海を眺めていた。
「これから冬はここで過ごそうかしら」
「お身体のためにも、その方がよろしいかと」
ミラが答えると、ヴィオラは嬉しそうに笑った。
「そうね。でも、お母様はきっと泣いちゃうわ」
そして、最後にもう一度だけ海を振り返る。窓から見える海が、少しずつ遠ざかっていく。
ミラはその景色を眺めながら、あの夜のことを思い出していた。向かいに座ったルーイも、窓の外を眺めていた。目が合う。彼は、ほんの少しだけ笑った。ミラも、小さく笑い返した。
南の領地で過ごした冬が終わる。そして、三人はまたエレイン領へ帰っていく。




