27 怪盗と海
「ちょっと付き合ってよ」
先ほどエメラルドをフローラへ渡すよう告げたリアムに、もう帰るのだとミラは思っていた。けれど、リアムは違った。
「どこへ?」
「海」
あまりにも唐突な言葉に、ミラは目を瞬いた。思わず眉を寄せる。
「どうして?」
「南まで来たんだから、海くらい見ておこうと思って」
どこか楽しそうにリアムは笑った。いつもと違う表情に、ミラはドキリとする。
「もう夜更けなのに」
「いいんじゃん。夜しか行けないし」
そう言って、リアムは怪盗服の上着と帽子を脱ぎ、先に歩き出した。
ミラはしばらくその背中を見つめていたが、小さく息を吐く。
「……分かりました」
「やった」
振り返ったリアムが、子どものように笑った。
屋敷を出ると、夜の空気はひんやりとしていた。南の領地とはいえ、冬は冷える。昼間よりもずっと静かな街を抜ける。やがて潮の香りが強くなり、遠くから波の音が聞こえ始めた。
砂浜へ足を踏み入れる。月明かりを受けた海は、暗い青色をしていた。寄せては返す波が、白い泡を残していく。
ミラは立ち止まった。目の前いっぱいに広がる海を、じっと見つめる。
「まさか初めて?」
隣からリアムが尋ねた。
「初めてではないけど、あまり来ないから。こんなに大きいものだったっけ、と思って」
「あー確かに。俺もゆっくり眺めるのは初めてかな」
ミラは少しだけ笑った。
そのまま、二人は並んで歩き始める。砂に足を取られながら、一歩ずつ進んでいく。波の音が、二人の間を包んでいた。
「……怪盗のとき」
「うん?」
「絶対、あの服を着てるけど、意味はあるの?」
突然の質問に、リアムは笑った。
怪盗服はいつも、黒い上下に黒いマント、黒いシルクハットと決まっていた。
ミラが怪盗について興味を持っていたことに、少し意外な気持ちになる。
「そうだね。髪が黒いから、黒いほうが馴染むし。お気に入りの仕立て屋がいるから、そこに頼んでる」
「初めて会ったとき、闇に襲われたのかと思ったくらい」
「ははっ。かなりびっくりしてたな」
リアムは笑う。
ミラはあの夜のことを思い出した。金色の瞳だけが浮かび上がっていて、まるで夜空に浮かぶ月のようだった。
「俺からも質問していい?」
「どうぞ」
「なんで、エレイン邸で働くことになった?」
ミラのほどいた金色の髪が、風に揺れる。少し俯きながら、彼女は黙っていた。
「いや、やっぱりいい。」
「ううん、話す」
ミラは一度、大きく息を吸い深く吐いた。
「……父と兄を亡くしたのをきっかけに、母は病んでしまって。食事も喉を通らず、ずっと一点を見つめたままの母の看病に必死だった」
ミラの声が、少しずつ小さくなる。
「幸い、父はお金を貯めていたから、生活には困らなかったけれど……精神的には、限界だった。そんなとき、街で父親と母親に連れられたヴィオラお嬢様を見かけたの」
その頃の光景を思い出すように、ミラは目を伏せる。
「……羨ましいと思った」
リアムは何も言わず、隣を歩いた。
「だから、私は──」
そこで、ミラの言葉が途切れた。しばらく、波の音だけが続く。
「──お嬢様が手に持っていた、ネコのぬいぐるみを盗ったの。大勢の人が見ているところだったから、すぐに捕まったけれど。もちろん、旦那様は許してくれなかった。……でも、お嬢様が私を指差して『メイドにしたい』と言ったの」
「……それで?」
「ちょうど、専属のメイドを探していたらしくて。でも、旦那様も奥様も反対されたわ」
「よくあの二人が許したな」
ヴァレンティンとリディアが、ヴィオラを溺愛していることは、いつも目にしている。
先ほどエメラルドの記憶を覗いたことで、ヴィオラが愛されて育ったことも、改めて実感していた。
「お嬢様は、『あの子はネコが好きなのよ』って言ったの」
ミラの表情が、ほんの少しだけ和らぐ。
「旦那様と奥様も、子供がしたことだからって。それに、私たちの家の事情も調べてくださったみたいで……最後には、許していただいた。だから、私は一生をかけて罪を償うって決めたの」
リアムは、何も言わなかった。ただ、ミラの横顔を見つめる。
どうして彼女が、ここまでヴィオラに尽くすのか。これまで何度も不思議に思っていた。
けれど、今なら少し分かる気がした。ミラにとってヴィオラは、ただ仕える主人ではない。自分を拾い上げてくれた、大切な人なのだ。
そのとき、風が強く吹いた。ミラの髪が大きく揺れる。ミラがぽつりと呟く。
「……初めて話した」
「ん?」
「こんなこと、誰かに話したことない。少し、すっきりしたわ」
リアムがミラを見る。ミラは海を見たまま、微笑んだ。
「へー俺だけか。他の誰にも話さないでね」
「──」
その言葉に、ミラの胸が小さく跳ねた。リアムは、少しだけ笑った。
「じゃあ、今度は俺も話すよ。探してる記憶の話」
ミラは目を見開く。怪盗になったきっかけ。自分がずっと知りたかった、彼自身のこと。
「……いいの?」
「うん、ミラになら」
リアムは海の向こうを見るように、目を細めた。その一言に、今度はミラの心臓が大きく跳ねた。
「……待ってるね」
ミラの話も、リアムは待ってくれた。今度は、ミラが待つ番だった。
少し歩いたところで、ミラはふと振り返って足元を見た。月明かりの下。砂浜には、二人分の足跡が並んでいる。
「私たちの足跡、残ってる」
「ほんとだ。まぁ、波が来たら消えるけどね」
リアムも足元を見る。ミラはその言葉を聞いて、しばらく足跡を見つめた。
「……それでも今、ここにあったことは変わらない」
ぽつりと呟く。リアムが足を止めた。
「……ミラって、たまに変なこと言うよね」
「変ってなに?」
「変っていうか。そういうとこが、良いってこと」
リアムは笑った。けれど、その笑顔はいつもの軽いものとは少し違っていた。ミラはその表情を見て、ほんの少し首を傾げる。
「……何か?」
「いや、なんでもない」
リアムは首を振った。
二人はまた歩き出した。しばらく、言葉はなかった。ただ隣にいる。それだけなのに、リアムには不思議と心地よかった。ふと、隣を歩くミラを見る。月明かりに照らされた横顔。
「……リアム」
すると、ミラがこちらを向いた。灰色の目と視線がぶつかる。
「ん?」
「今日は、ありがとう」
「何が?」
「海に誘ってくれて……嬉しかった」
ミラが微笑むと、リアムの頬がほのかに赤く染まる。
自分がミラと海を眺めたかっただけだ。けれど、ミラにも何か響いたらしい。リアムの足が、ほんの一瞬だけ止まった。
「……そっか」
小さく笑って、また歩き出す。ミラも、その隣を歩く。胸の奥が、少しだけ温かかった。
好きだと自覚してから、初めて二人きりで過ごす夜。何か特別なことをしたわけではない。海を見て、歩いて、少し話しただけ。
それなのに。この時間を、忘れたくない。そう思って、ミラはもう一度、隣の彼を見る。すると、リアムもこちらを見ていた。
「ミラ、楽しそー」
そう言った。ミラは自分の頬が熱くなるのを感じて、慌てて海へ視線を戻した。
「……そう見える?」
「見えるよ」
「なら、よかった」
波が寄せる。二人の足跡が、少しずつ砂に刻まれていく。
その夜のことを、ミラはきっと忘れない。たとえいつか、この足跡が波に消えてしまったとしても。
***
南の領地で冬を越すことが決まってから、いくつかの月が過ぎた。
ある日の午後、屋敷に届いた手紙を整理していたミラは、一通の封筒に目を留めた。見慣れた筆跡だった。
「……レオンから?」
ミラ宛ての、レオンからの手紙だった。彼らしい、真っ直ぐな文字に頬を緩めながら、封を開ける。
『ミラ
エレイン領は去年より積雪が多くて、騎士団の稼働も多い。毎日雪を除けて、白い景色も見飽きたな。
昨年、ミラと雪かきしたのも懐かしい。
ヴィオラお嬢様の体調はどうだろう。ベルナール領はまだ暖かいと聞くが……ミラも無理しすぎずに休んでくれよ?
帰ってきたら、また話す。ちゃんと、告白するから。
レオン』
ミラは、その文字をしばらく見つめた。レオンの顔が浮かぶ。真っ直ぐな赤い目。いつも向けられる、明るい笑顔。
どう返せばいいのか分からない。けれど。
「……ちゃんと、返事を書かないと」
ミラは便箋を取り出した。何を書けばいいのか悩みながら、ペンを走らせる。
『元気にしています。お嬢様もお元気です。
ベルナール邸は、冬なのにとても過ごしやすいわ。
帰ったら、またお話ししましょう。』
そこまで書いて、ミラは少しだけ手を止めた。
それ以上は、何も書かなかった。




