26 怪盗とエメラルド
微かな、布の擦れる音。
怪盗エリオは足を止め、耳を澄ませた。ベルナール邸の屋根の上は風が強く、うまく音を拾えない。
瞬間、背中に何かを当てられた。振り返ろうとすると、それは強く押しつけられる。恐らく、銃だろう。
「振り返るな」
その声に、聞き覚えはない。エリオは振り返らず、力の入っていた肩をゆっくりと下ろしていく。
「誰だ?」
「──君の尊敬する、怪盗リアムって言ったら?」
エリオの瞳が、大きく見開かれた。
怪盗リアムと名乗った男は、エリオの背後で小さく笑っている。
「何の用でしょう?模倣したことを、怒りに来た?」
「いーや。君はもう、怪盗を辞めるつもりでしょ」
先ほどのヴィオラとの会話。そして、アメシストを返した姿を見て、リアムは気がついていた。
「はい、もう辞めます。探していたものは、見つかりました」
もう、大丈夫だ。エリオはそう思った。これ以上、ここに留まる理由はない。
すると、リアムは後ろに突きつけていた銃を離し、エリオの前へ姿を現した。記事で見た通りの黒い姿。真似をするために何度も見た、そのままだった。
背丈の変わらない彼が、エリオに一歩近づく。そして、その顎を掴んだ。
「俺の、仲間にならない?」
あまりの顔の近さに、エリオは二つの意味で目を見開いた。
一つ目は、素顔だ。ここまで距離を詰められれば、リアムの瞳の色や顔立ちまで見えてしまう。そして同時に、自分の顔も見られているだろう。
二つ目は──。顎を掴むなんて、リアムは男が好きなのかということ。
「すごい勘違いしてる顔してるけど、俺は女の子が好きだから」
「……よかったです」
距離の詰め方が異常だと思ったが、エリオは口に出さなかった。
リアムは距離を変えないまま、にやりと笑う。
「もう君は手を染めた。罪は消えないよ」
わかっている。もう、自分が以前と同じ場所に戻れないことくらい。
「また手を染めろ、と言うのですか?」
「もちろん。君の力を借りたい。代わりに、君が望むなら表の仕事も用意する」
模倣とはいえ、怪盗リアムのような身のこなしと盗みの技術。そして、逃げるのも上手く、危うく取り逃がすところだった。そんな、怪盗エリオの能力がほしいとリアムは思った。
「表……あなたは何者ですか?」
「俺は────」
リアムが告げた言葉に、エリオは息を呑んだ。
怪盗リアム。その正体を知る者など、いない。そして、目の前の男が自分に提示したものは、怪盗としての居場所だけではなかった。
「……なるほど。分かりました」
エリオは、初めて口元を緩めた。
こうして、怪盗エリオは怪盗リアムの仲間になった。
***
普段通り、ヴィオラの寝顔を確認する。彼女はとても話せる状態ではなく、ミラは状況が掴めないまま夜を迎えた。
あれからリアムはすぐに戻ってきて、フローラに事情を説明すると業務へと戻った。ミラには何も告げないままだった。
怪盗リアムが現れる時刻。ミラは落ち着かない様子で、本を読んでいた。内容はまったく頭に入っていない。今日、リアムは部屋に来るのだろうか。ミラの頭の中はリアムでいっぱいだった。
「俺のこと待ってる顔? それ」
びくっとミラの肩が大きく跳ねる。リアムのことを考えすぎて、リアムが来たことに気づかないなんて。
「はい」
ミラは窓際に座る黒い姿に向き、頷きながら答えた。冗談のつもりだったリアムは、素直な返事に思考が停止し、頬がほのかに色づいた。
「……聞きたいことがあった」
「あ、そういうこと」
少しがっかりしたような顔をしながら、リアムは窓際から降りてミラへと近寄る。ベッド脇の椅子に腰を下ろした。
「怪盗エリオと、お嬢様の会話は聞かない。リアムは、あのあとどこに行ったの?」
ヴィオラはミラに説明すると伝えていた。その部分を先に聞こうとは、ミラは思っていない。疑問に思ったのは、リアムの行動だった。
「それを話しに来た。怪盗エリオを仲間にしたから、ミラにも言っとかなきゃって」
「な、仲間?」
あまりにも突拍子のない話に、ミラの声が思わず大きくなる。リアムはそんなミラを見て、楽しそうに笑った。
「今日の盗み、俺そっくりだっただろ。正直、驚いたよ。だから、手伝ってもらうことにした」
「それを怪盗エリオは受け入れたの?」
「そう。もう怪盗は辞めるつもりだったみたいだけど」
「辞める人をまた誘わない方がいいでしょ」
悪の道から逸れるのであれば、尊重すべきだ。ミラはそう考えた。
ただ、リアムはにこりと微笑みながら、
「一度、盗んだら罪は消えない。許されるわけないから、俺も」
「……」
ミラの喉が、ごくりと鳴った。
リアムもまた、罪の意識を抱えている。そのことを、ミラは初めて知った。罪を知りながら、それでもリアムは想晶を盗み続けている。
何を抱えているのだろう。何が、リアムをそうさせているのだろう。知りたい。
ミラはまた、リアムのことを知りたいと思ってしまった。それは、怪盗に協力することを決めたあの日と同じだった。そして、目的の想晶をすべて見つけたとき彼は、どうするつもりなのだろう。
「だから、エリオにはたーくさん盗んできてもらう」
「リアムが決めたことなら、分かりました」
「協力の証に、これ」
リアムが立ち上がる。そして、ミラの前へ何かを差し出した。
それを見た瞬間、ミラの灰色の瞳に鮮やかな緑が映り込む。
「エメラルド……もしかして、フローラ様の?」
「そう。ヴァレンティン・エレインが生み出したっていう、エメラルド。エリオが返してほしいってさ」
ずっと取り返したいと願っていたものが、今、目の前にある。大きく、深く澄んだ緑。
まるで深い森の輝きを、そのまま結晶の中に閉じ込めたようだった。光を受けるたび、その緑は鮮やかに揺らめく。ミラはその輝きから目を離せなくなっていた。
エメラルドに吸い寄せられるように、ミラは手を伸ばした。指先が触れた瞬間、視界が眩しい光に包まれる。
▼▼▼
聞こえてくるのは、祝福の鐘。
白い花で飾られた教会の中には、大勢の人々が集まっている。その中央に立っていたのは、まだ今よりも若いヴァレンティンだった。
隣には、純白のドレスを纏った女性。リディアだ。彼女が微笑むと、ヴァレンティンもまた、穏やかに笑った。
──幸せ。その感情が、あまりにも真っ直ぐに伝わってくる。
「……おめでとう、ヴァレンティン」
フェリックス・アルマン。誰もが知る公爵家の当主だが、ヴァレンティンにとっては昔からの友人だった。
「ありがとうございます、フェリックス公爵」
「堅苦しいな」
「ここで昔のように呼べと?」
「二人きりなら、そうしてくれ」
フェリックスが笑う。ヴァレンティンは呆れたように息を吐いた。
そのとき、遠くからリディアの声が聞こえた。
「ヴァレンティン」
振り返った彼の表情が、一瞬で変わる。その顔には、大きく『愛しい』と書いてあるように見えた。
「アルマン公爵、本日はありがとうございました」
「お礼を言いたいのはこちらですよ。友を選んでいただいてありがとうございます」
その言葉を聞いたリディアの若葉色の瞳に、涙が浮かぶ。
リディアは、自身の身体が弱いことを懸念していた。跡継ぎを残さなければならない身でありながら、子供を授かれるかどうかも分からない。これまで多くの者から、白い目を向けられてきた。
だからこそ、誰かからこんなふうに祝福されることが、嬉しかった。
「リディアを泣かせないでくれ」
「いいんです。嬉しい、幸せの涙なの」
ヴァレンティンは、ただリディアを見つめていた。
今日から、この人と生きていく。幸せで涙を流してくれる。それが嬉しい。けれど、それだけでは足りない。この先、何十年と時間が過ぎても。今日のことを忘れたくない。
彼女が笑ったことも。自分が幸せだと思ったことも。この胸に溢れている想いも。
「……想晶って、不思議だよな」
突然そう呟いたヴァレンティンに、フェリックスが目を瞬かせる。
「急に何だ?」
「人の想いが、形になる」
ヴァレンティンは静かに言った。
「どれだけ時間が経っても、その人が何を思っていたのかを残してくれる」
「そうだよ。やっと気づいたのか、ヴァレンティン。私はその美しさに魅入られ、惚れ込んだ一人だ!」
「君たちは代々、想晶への愛が狂気的だな」
初代アルマン公爵がアルマン社を立ち上げて以来、その跡を継いできた者たちは、皆『変態』と呼ばれている。もちろん、想晶に対してだけだ。
「それくらい狂っていないと、アルマン社はここまで大きくなっていないさ」
迷いのない返事だった。フェリックスが笑う。ヴァレンティンも、小さく笑った。
そして、もう一度リディアを見る。胸の奥が、温かくなっていくのが分かった。
この人となら。きっと、これから先も──。
その瞬間。ヴァレンティンの胸の奥で、何かが強く煌めいた。
幸せだ。この人と出会えてよかった。これからも、ずっと一緒にいたい。強く、強く。
溢れ出すほどの想いが、ひとつの形へと変わっていく。
▼▼▼
記憶が、そこで途切れた。
エメラルドに詰まった愛に、ミラは胸を打たれた。
こんなにも深く誰かを愛する人たちのもとで、ヴィオラは生まれたのだ。そう思うと、彼女があれほど優しく、真っ直ぐな人に育ったことが、少しだけ分かる気がした。
ミラは知らなかった。ヴァレンティンが想晶を集める理由。どうして、これほどまでに想晶を大切にしているのか。けれど、今なら少しだけ分かる気がした。
想晶は、ただ美しいだけではない。そこには、その人が生きた時間がある。大切な誰かを想った瞬間がある。そして、その想いは、何年経っても消えない。
「幸せそーな顔」
両手に顎を乗せ、リアムはミラをじっと見つめていた。
その微笑みが、先ほどの記憶の中にいたヴァレンティンの表情と、どこか似ている気がする。
──そんなふうに思うのは、ただの自惚れだろうか。
「……素敵な記憶でした」
「うん」
リアムは、ミラの手元にあるエメラルドへ視線を落とした。
「少し、羨ましい」
「夫人が?」
リアムは目を瞬かせた。
「こんなにも強く誰かを想えて、想われて。それが形になって残ることが」
ミラはエメラルドを愛おしそうに見つめる。
「何十年経っても、きっとこの想いは消えないのよね」
「……そうだね」
リアムの声が、少しだけ静かになった。
ミラは気づかない。リアムがエメラルドではなく、自分を見ていることに。
「だから、旦那様は想晶が好きなのかもね。あんなに大切そうに話していたから」
「……なるほどね」
リアムは小さく笑った。そして、何かを思いついたようにミラへ近づく。
「ミラを強く想ってる人もいるから」
──目の前に。その言葉を、リアムは飲み込んだ。
今はまだ、伝えるべきではない。怪盗という立場で、ミラを利用している形で。目的も達成していないのに、恋愛に腑抜けている場合ではない。
分かっている。それでも。どうしても、溢れてしまう。
気づいて、と願ってしまう。
「想ってる人……」
それが、リアムだったなら。どれだけ嬉しいだろう。そう願っている自分に、ミラは驚いた。
こんなにも、自分はリアムのことを好きになっていたのか。
「あ。あいつのことじゃないから、思い出すなよ?」
あいつとは、レオンのことだろう。ミラは口には出さず、思わず吹き出した。
「ふふっ……」
楽しい。胸の奥が、ふっと軽くなる。自分の心が、少しずつ戻っていくような気がした。
感情を表に出すことが乏しくなってしまった、あの日から。こんなふうに笑えるようになったのは、確実にリアムのおかげだ。
好き。
その言葉が、思わず口から零れてしまいそうになる。ミラは慌てて、ぐっと唇を噛んだ。




