25 怪盗との会話
使用人も警備も廊下を走り回り、屋敷中が騒ぎになっている。
これだけ騒いでいても、見つからない。変装しているのだろうか。ニコラスは頭を抱えた。
「もう逃げ出してしまったのでしょうか?」
「その可能性は低いと思うのですが……」
別の部屋の窓から逃げ出した可能性もあるが、目撃情報はまだなかった。闇に紛れる怪盗リアムと違って、彼の白い衣装は目立つ。扉などから出れば、必ず騒がれるはずだ。
「お嬢様の様子を先に見に行ってきます」
ミラの呟きに、ニコラスはふと疑問を抱いた。
「屋敷中が騒ぎになっています。それなのに、お嬢様の部屋からは何の声も聞こえない。何故でしょう?」
「ルーイさんが、部屋から出ないように言っているのかもしれません」
「……そうですね。僕も一緒に行きます」
ニコラスが何を疑問に思っているのか、ミラには分からない。ただ、彼の瞳は鋭かった。
ヴィオラの部屋の前に着くと、見張りの騎士二人の様子に変わったところはなかった。
「異変はありましたか?」
「騒ぎは聞こえましたが、この扉から入った者はいません」
騎士たちは胸を張る。ミラはすぐに扉をノックした。
「お嬢様。ミラです。ご無事ですか?」
ミラがそう声をかけたあとも、返事はしばらくなかった。その場にいる四人は顔を見合わせる。もう一度、ミラは口を開いた。
「お嬢様! いらっしゃいますか?」
「──ミラ、ちょっと待ってくれる?」
扉の向こうから、ヴィオラの声が聞こえた。ミラはぴくりと動きを止める。ミラの入室が許されないことなど、今まで一度もなかった。
「何かあったのでしょうか?」
「着替えの最中では?」
着替えなら、必ずミラを入室させるはずだ。
騎士の言葉を、ミラは心の中で否定した。それに、ヴィオラの声は少し震えている気がした。
ミラは扉の前で微動だにせず、目を閉じた。耳を澄ませば、微かな女性の声と男性の声が聞こえた。
「──できて、──ったです。──気そうで──だけで────いのです」
「また──?」
「はい」
ルーイの声ではない。それだけは確かだった。
ミラは衝動的に、ヴィオラの部屋の扉を開いた。目の前の光景に、目を見開く。
「怪盗エリオ!」
ベッドに横たわるヴィオラと、窓際で今にも飛び降りようとしている白い姿の怪盗エリオ。
騎士二人が慌てて駆け出す。それよりも先に、怪盗エリオはヴィオラを見つめながら、窓から飛び出した。騎士が窓に駆け寄り、外を覗く。しかし、彼の姿はもう見当たらない。
「おい! 怪盗エリオが逃げたぞ!」
下を歩いていた騎士に呼びかけると、辺りが再び騒がしくなった。
「お嬢様!」
ミラがヴィオラの側に寄る。彼女は涙を流していた。だが、ヴィオラはミラを見て、首を横に振っただけだった。
「ミラ、お嬢様は大丈夫」
そう呼びかけたのは、近くに立っていたルーイだった。
「大丈夫って? 説明してください。どういう状況なのですか?」
「俺は用があって抜けるから」
「ちょっと……」
引き止めるミラの声を遮るように、ルーイはにやりと笑う。
「今は、お嬢様を頼む」
それだけを告げると、ルーイはミラの返事を待たず、扉から出て行った。
「……説明になっていませんよ」
小さく呟いても、返ってくる声はない。ミラは扉の向こうへ消えていく、その黒い背中を見つめた。
何かを知っている。けれど、それを自分には話すつもりがない。いつものルーイなら、それで納得することもできただろう。だが、今は怪盗がヴィオラの部屋に侵入していた直後だ。何があったのか分からないまま、お嬢様を任せられたところで、安心などできるはずがない
問い詰めたい気持ちはあった。それでも、今はルーイを追いかけるより、目の前のヴィオラを優先するべきだ。
ミラは大きく息を吐いた。まずは──。
「お嬢様、何もされていませんか?」
まだ涙が止まらないヴィオラは、小さく頷く。そんな彼女の背を優しく撫でながら、ミラは窓の外に視線を向けた。欠けていない月が、眩しいほどくっきりと夜空に浮かんでいた。
「──ごめんね、ミラ」
「お嬢様がご無事なら、それで──」
ヴィオラの「ちょっと待ってくれる?」という言葉が、ミラの脳裏を過る。
主人からの信頼。主人への信頼。それは、目には見えない形で、確かに存在していた。その言葉で傷ついてしまうことさえ、主人に対する過ぎた執着なのだ。
ヴィオラに信頼されていると思っていた。そう思ってしまうことさえ、メイドとしてあるまじきことなのだというのに。
「ごめんね」
ヴィオラがなぜこんなにも謝るのか。
ヴィオラもまた、自分がミラへの信頼を裏切ってしまったのだと自覚していた。その謝罪の言葉が、鋭くミラに突き刺さっていた。
「怪盗エリオとは、お知り合いですか?」
窓際に立っていたニコラスが口を開く。ヴィオラへと歩み寄りながら、その表情は固かった。
「……いえ」
少しの間を置いて、ヴィオラが否定する。
ヴィオラの真横まで来たニコラスは、目を細めた。
「そんなはずはありません。先ほどの会話は、何だったのでしょうか?」
女性と男性の微かな声は、ニコラスにも聞こえていたようだった。
「ルーイの声です。怪盗が入ってきて驚いて……」
ミラは静かに目線を下げた。嘘をついていることは、すぐに分かった。あの声は、ルーイのものではなかったはずだ。そして、ニコラスにもヴィオラの嘘は見抜かれているのだろう。
ヴィオラはニコラスと目を合わせない。手が微かに震えているのも、ニコラスが話しかけてからだ。怪盗が去ったあとは、手は震えていなかった。つまり、恐怖心からではない。
「ルーイさんの声であれば、ミラさんの入室を許可してもよかったはずです。助けを求めることもできたでしょう。何か、怪盗エリオと会話していたのではありませんか?それに──失礼します」
ニコラスは、ヴィオラの震えている左手首を掴んだ。
「お嬢様に何を!もうこれ以上問い詰めるのは……」
ヴィオラの右手が露わになる。その薬指に輝くものを見て、ミラは思わず息を呑んだ。
「え……?」
淡い紫色の光。それは、盗まれたはずのヴィオラのアメシストのリングだった。
ヴィオラが思わず俯く。ニコラスは静かに、ヴィオラの左手首から手を離した。
「怪盗エリオの正体を知っていますね?」
ヴィオラはしばらく沈黙したあと、弱々しく首を横に振った。
そして顔を上げると、強くニコラスの瞳を見据えた。
「私の大切なものだからと言って、返してくれました」
「まさか……彼は少なくとも、ベルナール夫人のエメラルドを返してはいません」
「私にも、分かりません」
ニコラスの脳裏に、クローバー怪盗団の名前がよぎる。怪盗エリオは何か目的があって盗みを働き、それを持ち主へ返しているのだろうか。
ただ、ヴィオラが今、嘘をついていないことは分かった。先ほど嘘をついていたときに見せた動揺が、今はない。
分かった、分かったが。
「怪盗エリオを、かばってはいないのですね?」
「もう、そこまでにしてください。お嬢様が怪盗と手を組むはずもありませんし、アメシストは手元にあります。お体に障りますので、どうかお願いします」
「ミラ……」
頭を下げるミラに、ニコラスは頭をかいた。そして一歩下がると、シャーロックハットをかぶり直した。
「申し訳ございません。質問ばかりしてしまいました。探偵の悪いところです。アメシストがご無事で何よりです」
ニコラスはそう言ってから、少しだけ表情を改めた。
「最後にひとつだけ。今後、怪盗エリオを捕まえるために、質問してもよろしいでしょうか?」
「はい」
「素顔は、ご覧になりましたか?」
ニコラスは、ベッドに横たわるヴィオラが窓際の怪盗エリオを見上げていたところを思い出した。あの距離なら、怪盗の素顔が見えていたはずだ。
「月の光で影になって、顔は見えませんでした。帽子も深くかぶっていました」
ヴィオラの挙動は、嘘ではないと示している。ニコラスは小さく息を吐き、軽く礼をした。
「ご協力ありがとうございました。驚かれたでしょう。ゆっくりとお休みください。僕はベルナール夫人に報告してきます」
長いコートを翻し、ニコラスは部屋から出て行った。
扉が閉まると、ヴィオラは安心したように息をついた。そして、ミラを見上げる。
「必ずちゃんと説明するから。ミラ、信じて」
「お嬢様……ありがとうございます」
ミラの不安を、ヴィオラは分かっていた。そして、ヴィオラのたった一言で、ミラの胸は晴れた。何か理由があって、今は隠すしかないのだ。自分のことを信頼していないわけではない。
そう思えただけで、ミラは安心した。同時に、ミラは初めて気がついた。自分は、ヴィオラに信頼されたいのだ。
ヴィオラに頼られる存在になりたい。ヴィオラの一番役に立つメイドでありたい。何かあったときには、真っ先に自分を頼ってほしい。
いつから、こんな想いを抱くようになったのか。ミラ自身にも、分からなかった。




