22 怪盗と南へ
ミラは歩きながら、何度も確かめるようにポケットへ手を入れていた。指先に触れるのは、例のレオンの想晶だった。
今日こそ昼間のうちに返そうと思っていたが、仕事が重なり、気づけば夕方になっていた。そんな日に限って、レオンもミラに会いに来る機会がなかったようで、一度も姿を見せていない。ようやく返せる時間ができ、ミラは訓練場の方へ足を向けた。
だが。騎士たちが大慌てでミラを避けながら、廊下を駆けていく。近くにいたメイドに、ミラは声をかけた。
「何かあったの?」
「大騒ぎよ!西の森で熊の群れが出たのと、反対の東の森でも狼の群れが見つかったとか」
ミラは急いで屋敷の門へ向かった。
すでに騎士団は招集されており、鎧を身につけ、剣を整え、馬の準備に追われている。
その中に、見慣れた背中があった。副団長であるレオンは、慌ただしく騎士たちに指示を出している。
ポケットの中の想晶を握り、ミラは迷った。いつも身につけていたものだ。彼には、これが必要なはずだ。だが、今は言葉を交わしている余裕などないだろう。
「急げ!日が落ちる前に森へ入る!」
団長の声が響く。
馬のいななきとざわめきの中、レオンも馬に手をかけた。ミラは思わず声をかけようとした。しかし、騎士たちはもう動き始めていた。
「────」
馬が列をなし、門の外へ向かって進んでいく。
そのとき、一瞬だけレオンがミラを見つけた。今すぐ駆け寄って、出発前の挨拶でもしたいところだ。けれど、距離が遠く、人も多い。今、列を乱すわけにもいかない。
すぐに門が開く。ミラはその場に立ったまま、動けなかった。
騎士たちの背中が、門の向こうへ消えていく。
冬の空気が、少しだけ冷たく感じた。ポケットの中の想晶を強く握りながら、
「……どうか、ご無事で」
ミラはゆっくりと白い息を吐いた。
***
翌朝。
屋敷の空気は、いつもより少しだけ冷えていた。窓の外には薄い霜が降りている。
騎士たちはまだ森から戻っていないと、メイドたちが噂していた。
ミラはいつものように、ヴィオラの部屋へ向かっていた。冬に入ってから、ヴィオラの体調は少しずつ不安定になっている。だから、朝の確認は欠かせなかった。
「ヴィオラお嬢様、おはようございます」
扉をノックしても返事はない。
ミラは眉を寄せた。いつもなら、すぐに声が返ってくるからだ。扉を開けると、部屋の中はまだカーテンが半分閉じられていて、薄暗かった。冬が近づいてからは、窓を少しも開けず、閉め切っている。
ベッドの上のヴィオラに近づくと、妙に息が浅いことに気づいた。
「……お嬢様? 失礼します」
ミラはトレーを机に置く。
ヴィオラの顔は少し赤い。額に触れると、熱があった。
「……熱」
思わず呟くと、ヴィオラがゆっくりと目を開けた。
「ミラ……?」
声が弱く、額には汗が滲み、ヴィオラの胸が小さく上下している。
「すぐ主治医を呼びます」
数分もしないうちに、屋敷の空気は変わった。
医師が部屋へ入り、診察を始める。ミラと執事のルーイはベッドの横で静かに立っていた。
ヴァレンティンも遅れてやってきて、ヴィオラの熱い手を握る。
医師の眉が、ゆっくりと寄った。
「普段と変わらない風邪症状ですが……寒さの影響でしょう。今年の冬は冷え込みが強いと言われていますから。お嬢様の体には、少し厳しいかと……」
「どうすればいいんだ?」
ヴァレンティンの問いに、医師はしばらく考えたあと、口を開いた。
「暖かい場所で過ごされた方が良いのではないでしょうか。このままここで冬を越すのは、負担が大きいでしょう」
息を整えながら、ぼんやりと天井を見つめているヴィオラの手を、ヴァレンティンは強く握る。
「ヴィオラ。また南の領地へ行くのはどうだ?」
ヴィオラは幼少期、今よりも高熱に侵される頻度が多く、その大半を南のベルナール邸で過ごした。ヴァレンティンの妹、フローラが嫁いだ領地だ。
成長するにつれて、体調が安定するようになり、エレイン邸で過ごせるようになったというのに。
「それがよろしいかと……」
医師も頷いた。ヴィオラは返事ができなかったが、否定的な顔ではなかった。今より楽になるのなら、そうしたかった。冬に入ってから、体調の良い日のほうが少ない。そんな自分に、嫌気がさしていた。
ヴァレンティンは静かに頷き、妻のリディアを思い浮かべる。彼女はまた泣いて、自分を責め、ヴィオラに謝罪の言葉を投げるのだろう。
「───すぐに準備を」
ヴァレンティンの言葉に、ミラとルーイは頷いた。
すぐに馬車が手配された。同行者はミラとルーイ、数人のメイドと騎士のみ。
リディアは倒れてしまい、見送りにも行けない様子だった。
ヴィオラは厚いマントに包まれ、騎士たちに支えられながら、ゆっくりと馬車へ乗り込む。ミラも続こうとして、ふと振り返った。返せなかったローズクォーツは、他の騎士に託した。持ったまま屋敷を離れることはできなかったからだ。
そしてミラも馬車へ乗り込み、扉が閉まる。馬車は、屋敷を出発した。
門を出た瞬間だった。討伐を終えた騎士たちの馬が、馬車とすれ違った。馬車の中から、ミラはレオンの姿を捉える。声もかけられず、ただ無事だったことを静かに喜んだ。
泥と血にまみれた鎧、疲れた笑い声。その中で、レオンは剣を鞘に収めていた。
「こんな朝早くに馬車……?」
疑問に思ったレオンに、一人の騎士が近づく。
「お疲れ様でした、副団長」
「ああ。今回は時間がかかったな」
「これ、ミラさんから預かりましたよ」
「ん?」
騎士が、小さなものを差し出した。
「ミラが持ってたのか……探してた」
レオンは淡いピンク色の想晶を受け取った。
剣を見下ろすと、柄の飾りがなくなっている。ミラに記憶がバレることはないだろうが、自分の想いが詰まったものを本人が持っていたのだと思うと、今さらながら恥ずかしい気分になった。
「ミラさんの出発前に預かりました」
「ん、出発?どこか行ったのか?」
森に出ていた騎士たちは、ヴィオラの容態など知る由もない。
「ヴィオラお嬢様の体調が悪化し、南のベルナール領で一時的に滞在することになったそうです。第四班が同行しました」
「はぁぁぁ……」
聞いた瞬間、大きなため息をつきながら、レオンはその場にしゃがみ込んだ。騎士は、不思議そうな顔で彼を見つめる。
先ほどすれ違った馬車に、ミラは乗っていたのか。ローズクォーツを握りしめながら、後悔ばかりが溢れてくる。
もっとミラにアタックするつもりだった。もっと距離を詰めたかった。できることなら、同行するのも自分でありたかった。
「もしかしなくても、ルーイさんも同行した?」
「はい」
「………最悪だ」
ローズクォーツを剣の柄へ戻しながら、レオンは悪態をついた。
***
南にあるベルナール邸に着いてすぐ、久しぶりの再会を語り合う間もなく、ヴィオラは用意されていた部屋へ運ばれた。馬車に揺られている間にも熱が上がっていたらしく、ミラの顔色も悪い。
「君たちは休みなさい」
領主、カシウス・ベルナール伯爵にそう言われても、ミラは部屋の扉から離れようとしなかった。
ベルナール邸のメイドたちが慌ただしく部屋を行き来する中、ルーイは見かねてミラに近寄る。
「前にもこんなことがあったっけ。執事の命令に反して、お嬢様の側を片時も離れないメイドがいたなー」
「その時とは状況が違う。目を覚ました時に、知っている人が誰もいないから」
ヴィオラが目を覚ました時、当然、知っている使用人を探すだろう。南の領地へ向かったことも、朧気に覚えている程度かもしれない。驚いて、また熱が上がってしまうかもしれない。
「心配が顔に出すぎてる……無表情って言われてるけど、お嬢様のことになると結構顔に出るよな、ミラは」
ミラと出会ってから、ルーイの中で彼女の印象は百八十度変わった。そして、そのことを誰にも知られたくないと思っている自分自身にも驚いていた。
「ルーイは休んでていいのに」
「いーや。知ってる顔は二つの方がいいだろ?」
ちらりとミラがルーイを見上げる。ルーイはすでに執事の顔に戻っていた。慌ただしく行き交うベルナール邸の使用人たちを、静かに見つめている。
彼は怪盗であるけれど、執事の仕事で手を抜くことはない。根は真面目なのか、それとも優しいのか。そんな彼の一面を、ミラは改めて感じていた。
二人は扉から少し離れた廊下で、お嬢様の回復を待った。
***
南の屋敷は、穏やかな空気に満ちていた。大きな窓から差し込む陽の光が、長いテーブルを柔らかく照らしている。ヴィオラは椅子に腰かけ、軽く背を預けていた。
「ここの空気も、好きだわ」
小さく笑ったその声には、少しだけ余裕が戻っていた。
ミラはその隣で、静かに紅茶を注ぐ。湯気がふわりと立ちのぼった。向かいには、ヴィオラの叔母───フローラ・ベルナールが座っており、紅茶の香りを楽しんでいた。
フローラはヴァレンティンと同じ、深い青の瞳で穏やかに微笑んでいる。赤茶色の髪は短く切られており、その姿はヴィオラに父の面影を思い出させた。
「気に入ってもらえてよかったわ。あなたの顔色も戻ってきているわね」
ヴィオラの回復は早かった。ベルナール邸の空気にもすぐに馴染み、少しの寂しさは感じるものの、ミラとルーイが同行していたことが大きかった。
目を覚ました時、二人の顔を見たヴィオラは安心したような笑みを浮かべ、そのままもう一度眠ったのだ。そこでミラの緊張の糸も切れ、ようやく心身ともに休むことができた。
「迎え入れていただき、ありがとうございます」
「可愛い姪のためよ。毎年ここで冬を越してもいいくらいだわ」
「嬉しいです。久しぶりに叔父様や叔母様とお話しできるのも楽しいです」
「本当に可愛い。美しく育ったわね、ヴィオラ」
美しい義姉───リディアにそっくりな姪。社交界でも、彼女は一際輝いているはずだ。それなのに、虚弱な体に生まれてしまったことが、フローラには悔やまれてならなかった。
「そういえば」
フローラが、ふと思い出したように言う。
「最近、物騒なのよ」
「物騒?」
ヴィオラが首を傾げると、フローラは深くため息をついた。
「領地内で盗みが増えていてね。ベルナール邸にも入られてしまったの」
フローラはカップを持ち上げる。
「想晶を狙った怪盗ですか?」
フローラが頷くと、ヴィオラは眉をひそめた。ミラの胸が、わずかにざわつく。
「兄様と違って、私は想晶にこだわりはないし、集めてもいなかったんだけど……一つ、大切な思い出が詰まったものを盗られてしまって。それが、とても悔しいのよ」
フローラは少しだけ困ったように笑った。
ヴィオラにとっての、アメシストのようなものだったのだろう。ヴィオラの胸が強く痛んだ。大切なものを盗まれる。その想像をするだけでも、こんなにも胸が締め付けられる。
「あなたの父───兄様からもらった、美しいエメラルドだったのに。リディア義姉様と結婚した時に生まれたものだ、って言っていたわ。見ていると、あの人たちのことを思い出すくらい素敵だった。残念だわ」
胸を痛めていたヴィオラは、しばらく黙っていた。そして、静かに口を開く。
「……許せないわ」
指先に、わずかに力が入る。その声は、思っていたよりも低かった。
「人の大事なものを、勝手に奪うなんて」
その言葉を聞いて、フローラはヴィオラが清らかで真っ直ぐに育ったのだと感じ、わずかに微笑む。
エメラルドが盗まれてから、一月が経っている。残念だとは思う。けれど、もう諦めはついていた。
その一方で、ヴィオラの強い眼差しの奥にある、メイドのミラの表情を執事は見逃さなかった。ヴィオラの意見に同調し、許せないという顔をしている。
「怪盗の目星はついているのですか?」
ミラが口を開いた。声のトーンは一定だが、灰色の瞳は揺れている。
「珍しい黒い鳩と共に現れる、白い怪盗。『怪盗エリオ・ブラン』。聞いたことある?」
「怪盗リアムと比較されて、新聞でよく見かけますね」
怪盗リアムが黒い翼を纏ったと言われるなら、怪盗エリオは白い翼を纏っていると言われる。
「私も聞いたことが。怪盗リアムの模倣犯だと言われていますね」
怪盗エリオの存在が気に入らないリアムは、穏やかな笑顔を浮かべたまま呟いた。
ヴィオラとフローラは気にも留めない。けれど、ミラは気づいた。
───嫌いなのね。
「予告状が届いたわ。それに、ここ三ヶ月ほどかしら。怪盗エリオの目撃情報と被害が、領地内で起こっているのよ。」
「早く捕まるといいですね。お父様のエメラルド、見てみたかったです」
ヴィオラは小さく息を吐いた。その横で、ミラがふいにルーイを見つめる。
その視線に気づいたルーイは、わずかに眉を動かした。意図はすぐに察した。
───ミラの次の言葉が、分かったからだ。




