17 怪盗とボタン
「ミラどうしたの? そんなに慌てて」
部屋に戻ってきたミラの表情を見て、ヴィオラはすぐに立ち上がった。ミラの様子がおかしいことは、一目で伝わったらしい。ミラの顔を、ヴィオラが心配そうに見つめる。
「想晶が……ひとつ、消えています」
「……え?」
ヴィオラの顔色が変わる。
ルーイと執事長のシグヴァルトがすぐに呼ばれた。
ヴァレンティン伯爵とリディア伯爵夫人は生憎と、明日の昼まで屋敷には戻らない。現在、屋敷の采配はすべてシグヴァルトに任されていた。彼はミラへ視線を向け、状況の説明を促す。
「どれが盗まれた?」
「リュシアン・ルクレール様から贈られたサファイアです。今朝は確かに、すべて揃っていました。」
「必ず、か?」
「はい。身支度の際、私が確認しています。間違いありません」
ミラの堂々とした態度に、シグヴァルトは疑う余地はないと判断した。ミラが一番に疑われてもおかしくない状況だが、ヴィオラはそれをしなかった。短い沈黙が落ちた。
「怪盗の仕業かしら……」
ヴィオラが不安そうに呟く。だがミラは、ゆっくりと首を振った。
「怪盗であれば、複数狙うと思います。ひとつだけというのは……不自然です」
ミラの言葉に、ヴィオラははっと息をのむ。怪盗であれば、危険を冒して侵入した以上、一つだけ盗んで引き返すとは考えにくい。
ただ、横にいる執事が怪盗であることを、ミラは思い出す。もしリアムなら、記憶のために一つだけ盗む理由も思い浮かぶ。だが今日の行動を思い返しても、その機会はなかった。
「確認しに行きましょう」
ルーイの声は低かった。もし同業の仕業だとすれば許せない。目を離している隙に盗られたのなら、取り返すつもりでいる。本来なら、記憶を視られた想晶を取り返す必要などない。それでもルーイが動く理由はただ一つ。ミラのためだと、本人が一番よく分かっていた。
四人は隣の衣装室へ入った。サファイアがあったはずの場所、保管棚の前でヴィオラは目を見開いた。
「……本当ね、ここだけ空いているわ」
ヴィオラが指差した先には、ぽつりと空白があった。他の想晶もわずかに位置がずれていた。焦って持ち去ったことは明らかだった。
「窓は?」
「異常なしです」
ルーイが窓枠を確かめる。こじ開けられた形跡も、外から侵入した痕跡もない。この窓は普段から開かれることはなく、固く閉ざされたままだった。
「屋敷の外から入った形跡はないな。部屋の外にも騎士が二人、見張っていたはずだ。出入りした業者は確か……」
シグヴァルトの言葉を受けて、ルーイが続ける。
「暖炉の薪の搬入業者には、各部屋を回ってもらいました」
「使用人の目を盗んで入り込んだか……?」
シグヴァルトは、業者の仕業としか考えられなかった。エレイン伯爵家の使用人は、伯爵と自らが調べ抜いた者ばかりだ。その判断が誤りだったとは、認めたくなかった。シグヴァルトは眉を寄せる。
「呼び戻しなさい。屋敷の中に通した以上、確認は必要だ」
「私が行きます」
ルーイが短く告げ、部屋を出ていった。
しばらくして、煤まみれの外套を羽織った業者の男が連れて来られた。突然呼び戻されたことに戸惑い、顔色を悪くしている。
「今日、ヴィオラお嬢様の部屋に入りましたね?」
「は、はい……暖炉の薪を補充しに……何か壊してしまいましたか?」
「隣の衣装室へは、入りましたか?」
シグヴァルトが衣装室を示す。業者は大きく首を横に振った。
「入っていません!きちんと騎士さんの目の前で作業してました!あの時の二人に、聞いてください!」
業者の男は怯えきった様子だった。
「わかりました。念のため、身体検査にご協力を」
「身体検査……?」
「あるものが盗まれまして。出入りした貴方を疑うしかなかったのです。申し訳ございません」
シグヴァルトの紳士的な物言いに、男は素直に従うことを選んだ。盗んでいないのは事実であるし、エレイン伯爵家からの依頼がなくなれば、今後の仕事に支障が出ると判断したからだ。簡単な確認が行われたが、業者の服や荷の中から想晶は見つからなかった。
「ご協力ありがとうございました。今後とも、よろしくお願いいたします」
「こ、こちらこそです!」
業者が騎士たちに連れ出されると、室内に重たい沈黙が落ちた。
「業者ではなかったのね。」
ヴィオラの声が小さくなっていく。では、他に疑うところは一つしかない。
「もし彼だったとしてもあれだけ煤がついていれば、どこかにそれが付着してしまうはずです。彼の犯行ではないのでしょう。」
業者の疑いは晴れた。ミラがもう一度保管棚を隅々まで見る。そこであるものが目に入った。
「……あ。」
全員の視線が、ミラへと集まる。保管棚の上に、細い一本の髪が残っていたのだ。
「長い黒髪が。いつのものかは分かりませんが…」
「ただ、この衣装室への入室は限られた者のみ。黒髪なのはルーイだけだが、短髪だ。」
シグヴァルトが静かに呟く。
ヴィオラが衣装室への入室を許しているのは、両親と三人の執事とミラだけだった。清掃も他の者には頼んでいないのは、希少な想晶が溢れているからだった。
「もし業者や怪盗が盗むなら、時間が限られていますし、一つだけ盗るとは考えにくいです。一つだけなら気づかれないだろうという、衝動的な盗みに見えます」
ミラの推察に、ルーイがわずかに目を細めた。シグヴァルトは深い息を吐く。
「屋敷の者……旦那様が不在の時を狙ったのか。だが、まだ屋敷の者と決まったわけではない。」
「長い黒髪の使用人をひとりずつ調べましょう」
ルーイの提案に、シグヴァルトは頷くしかなかった。
ひとりずつ調べても、別の場所に隠していれば困難になる。それでも、他に方法は誰も思いつかなかった。場の空気が一気に重くなる。屋敷の中の、誰か。ヴィオラは静かに目を伏せるしかなかった。
その瞬間──
「……床に、何か落ちているわ」
下を向いたヴィオラが小さく声を上げた。視線の先、棚の近くの目立たない位置に、黒い小さなものが落ちている。ミラはしゃがみ込み、慎重に指先で摘み上げる。指先で裏返した瞬間、ミラの表情が強張った。
「……ボタン、です」
メイド服に使われている黒いボタン。屋敷の使用人の制服に付けられているものだった。シグヴァルトは眼鏡をくいと押し上げる。
「これで屋敷の者だということが、確定した」
シグヴァルトの声は低く、鋭かった。
誰もが、どこかで侵入者の仕業であってほしいと願っていた。その希望は、今、静かに打ち砕かれた。
***
メイドが八名、詳細を知らない彼女たちは浮かない顔で一室に集まった。待ち構えていたのは執事二名と、ヴィオラお嬢様、そしてメイドのミラだった。招集は突然で、ボタンを付け替える暇など与えなかった。
「単刀直入に告げよう。ヴィオラお嬢様の想晶が一つ、紛失していた」
シグヴァルトを、八名は黙って見つめる。
「サファイアだ。保管棚には長い黒の髪の毛が落ちていた」
その言葉でメイド達は疑われているのだと気づく。
「私達は疑われているのでしょうか?」
「私たちはそんなことしません!」
「お嬢様の衣装室は立ち入り禁止です」
「怪盗が盗みに入ったのでは?」
彼女たちは次々と不満を口にする。エレイン伯爵家に仕え、誇りと責任を持って働いてきた彼女たちにとって、疑われること自体が屈辱だった。
「君たちを疑うのは心苦しい。だが、もう一つ、決定的な証拠が見つかった。従者の服に使用されている黒いボタンだ。今から、全員のボタンが揃っているか確認させてもらう」
部屋に緊張が走った。メイドたちは互いに顔を見合わせ、不安そうに袖口へ視線を落とした。誰もが、自分のボタンがきちんと付いていることを確かめていた。その中で、ひとりだけ顔色を失ったメイドがいた。袖口へ左手を伸ばしかけた指先が震え、そのまま力なく下りる。
「……袖口を見せなさい」
シグヴァルトが静かに告げた。その一言だけで、彼女の肩が大きく震え、反射的に制服の袖口を押さえた。シグヴァルトはその仕草を見逃さなかった。
しかし、調べるまでもなかった。彼女は力が抜けたように、その場へ膝をついたのだ。
「も、申し訳ございません!!私が、やりました……。どうしても、お金が必要だったのです。母が病に倒れて……どうしようもなくて……。ひとつだけなら、気づかれないだろうと、魔が差しました……大変、申し訳ございません!!どうか……どうかご慈悲を……」
床に額をつけ、彼女は叫びにも似た声をあげる。ヴィオラだけが悲しげに目を伏せた。他の者は、ただ冷たく見つめていた。シグヴァルトはゆっくりと近づき、彼女の肩を掴んだ。
「……立ちなさい」
「は、はい……」
彼女は、シグヴァルトの声色が穏やかなことに、どこか許されるのではないかと信じ切った表情で立ち上がる。
「今夜、出ていきなさい。エレイン伯爵家の信頼を踏みにじった罪は重い。今後、お前がこの敷居を跨ぐことはないだろう」
シグヴァルトは怒りを抑え込んでいた。本来なら捕らえるべき案件だった。
それでも解雇で済んだのは、ヴィオラの嘆願があったからだ。外部の者ではなく、従者の中の犯行であるならば、辞任で済ませてほしいと。
メイドは一度、ヴィオラに視線を向けた。目が合った瞬間、ヴィオラの脳裏に、彼女と交わした何気ない会話がよぎる。海が好きだと語っていたこと。「いつか見に行きたいですね」と笑っていたこと。
その優しさに縋ろうと、メイドが口を開きかけた、その前に。ミラが一歩、彼女の前へ出た。
「お嬢様とは、もう話さないでください」
「……っ……うう!!」
泣き声が室内に響き渡る。彼女の泣き声から遠ざけるように、ルーイはヴィオラを伴って部屋を出た。誰も同情の色など見せなかった。中には、怒りを露わにする者もいた。
「これが領民に知られたら、恥だわ」
「そんな人だと思わなかった」
「私達まで疑われたじゃない」
「君たちは実務に戻りなさい」
見かねたシグヴァルトがそう告げると、他のメイド達は黙って部屋を出ていった。
残されたのは、三人。ミラが出ていかなかったのには、明確な理由があった。
「シグヴァルトさん、彼女と話しても良いでしょうか」
シグヴァルトは頷き、少し離れて立った。会話は薄っすらとしか聞こえないが、何かあれば駆け付けられる距離だ。ミラと彼女は同じ時期くらいにこの屋敷に勤め始めたはずだ。何か最後に言いたいことでもあるのだろう、とシグヴァルトは思ったがミラは違った。
ミラは彼女と親しかったわけではない。膝を曲げ、彼女の耳元に口を寄せる。シグヴァルトには聞こえない声で、
「……貴方がサファイアを盗んだ理由は、本当でしょう。母親の病気のため。でも、貴方は一度、悩んでサファイアを戻しに来た」
「なぜ……それを……」
「……みたからです」
メイドは、ミラが現場で自分を『見た』のだと思った。だが、ミラは記憶『視た』のだ。
泣き崩れた瞬間、彼女から生まれたのは、不透明なターコイズだった。罪を冒してしまった自身を責める想いから生まれた輝き。彼女は気づかず、ミラはそれを拾った。色は濃いが、インクルージョンがわずかに見える。
その記憶の中で、彼女は泣きながら盗んでいた。自室に戻り、サファイアを見つめながら後悔し、一度は戻そうとしたことも、ミラは知った。だが、一度盗んだ事実は消えない。ヴィオラが知れば、きっと許してしまう。だからミラは会話を遮った。
ミラは彼女から離れて、見下ろす。彼女を許すつもりはなかった。でも、彼女の言っていることが事実だと伝えたかった。
「……うっ……でも、盗んでしまった……お嬢様の、大切な想晶を……」
「はい。その罪は、消せません」
盗むということは、罪だ。ミラはそう、自分に言い聞かせる。
「ヴィオラお嬢様の話を踏まえ、解雇で済むこととなった。そのことに感謝しなさい」
離れて見ていたシグヴァルトが口を開く。
「……はい……申し訳ございませんでした……」
深々と頭を下げる彼女に、シグヴァルトもミラも、何も言葉を返さなかった。
ターコイズだけが、彼女の罪と後悔を映すように静かに輝いていた。それを抱えたまま屋敷を去る彼女を、見送る者はいなかった。




