15 怪盗と侵入
屋敷の廊下は、すでに静まり返っていた。
ミュラティス子爵家への処罰が決まったことは、エレイン邸にも届いている。その知らせを聞いた瞬間、ミラの胸には安堵と同時に、焦りが生じた。
盗まれたままのブラックダイヤモンドのリングが、売られてしまうかもしれない。
気づけば足は勝手に動いていた。馬小屋を訪れると、執事服のままのリアムはすでに馬を引き出し、今にも屋敷を出ようとしていた。どうやら考えていることは同じだったらしい。ブラックダイヤモンドが売られてしまう前に、取り返すつもりなのだろう。
だからミラは咄嗟に、リアムの服を掴んだ。
「……ミュラティス邸へ行くの?」
突然現れたミラに、リアムは馬上でびくりと身を震わせた。
「びっくりしたなぁ。……ああ、今から盗り返してくる。想晶専門の怪盗に任せなさい」
リアムに任せておけば、必ずリングが手元に戻ってくるのはミラにも分かっている。ただ、それでも。
「お願い、私も行かせて」
「ダーメ」
「お願い」
「ミラ」
「行くって言ってるの」
視線がぶつかる。いつもの無表情ではなく、意地を張った灰色の瞳だった。リアムは小さく息をつく。
「……危険だから、大人しく待ってろって。すぐに取り戻すからさ」
「分かってる。でも、あれは私の想晶なの」
ブラックダイヤモンドが奪われたまま、何事もなかったように過ごせるほど、ミラは強くなかった。
リアムは小さく息を吐き、迷った末に口を開く。
「……足手まといになる」
いつにも増して真剣な表情のリアムだったが、ミラはそれでも諦めきれない。自分が足手まといになることくらい、ミラ自身が一番よく分かっていた。
「邪魔なら、その場で置いていって」
ミラの瞳は揺らぐどころか、ますます強い光を宿していく。
「はぁ……置いていけるわけないだろ?」
「お願い。あれは……形見なの」
リアムの瞳が大きく見開かれた。
ミラの口からブラックダイヤモンドについて語られたのは、これが初めてだった。あれが彼女自身の想晶ではなく、誰かの『形見』だということも。
「……形見、か」
「リアムのことは信用してるの。でも、私がこの手で取り返したい」
『信用してる』という一言に、リアムの頬がわずかに緩む。
しばらく押し黙っていたリアムだったが、ミラの瞳は揺れることなく、まっすぐ彼を見据えていた。
やがてリアムはもう一度深く息を吐き、口を開く。
「……絶対に、俺から離れるなよ」
それが、惚れた弱みだった。
***
セレーネの部屋の場所は、リアムの記憶に残っていた。一度盗みに入った時、まるで従者の部屋のようだと感じたからだ。装飾は最低限。華美な調度品も、貴族の令嬢らしい私物も見当たらなかった。
部屋には灯りがついており、窓際に降り立った怪盗リアムと、メイドのミラを、セレーネは頬杖をつきながら出迎えた。
まるで、来ることを予想していたようだ。
「……遅かったわね」
機嫌が良いのか、信じられないほど穏やかな笑みだった。処罰はすでに言い渡されているはずで、悲嘆に暮れていると予想していたリアムは、完全に見当違いだったことを悟る。
「盗みに戻ってくると思ってたわ。ミラ・リーヴと、怪盗リアム」
その笑みに、ミラの背筋が凍りついた。ムーンストーンの記憶を覗いた時に、浮かべていた笑顔そのものだったからだ。
「……リングを取り返しに来ました」
「返すわ」
あまりにもあっさりとした返答に、ミラは疑うような視線を向けた。
だがミラは知っている。一瞬だけ覗いたセレーネの記憶から、彼女が『異常』であることを。
「持ってたのよ。あなたが来るまで」
机の上に、ブラックダイヤモンドのリングが無造作に置かれる。リアムが一歩、前に出た。
「随分と余裕だね?」
「ええ。だって」
セレーネは肩をすくめ、楽しそうに言った。
「処罰に感謝してるもの。没落した私たちは、やっと家族として平等になれたんだから」
ミラの呼吸が、止まる。理解しようとは思わなかったが、どうしても頭の中では彼女の言葉を飲み込もうとする。
けれど、セレーネの言葉ひとつひとつが、ミラの価値観と決定的に噛み合わない。
「……何を、言ってるの」
「分からない?」
セレーネは首を傾げる。
「姉様も、亡くなった兄様も。期待されて、愛されて、その分、苦しんでたのよ。子爵家の繁栄のために」
そう言って、立ち上がったセレーネはミラへ一歩、近づいた。リアムが、その間に入るように前に出た。
「でも私は、最初から何もなかった。期待も愛も知らない、偽物の家族だった。家族なのに、私だけ。」
紫の瞳が、笑っている。心底嬉しそうに。
「だからね。全部壊れた今の方が、ずっと安心するの。これからは私だけが、家族を支えられる。だから今度は、私が愛されるの。」
ミラは、言葉を失っていた。リアムは片眉を下げ、乾いた笑みをこぼす。
「───」
「軽蔑してるわね。でも、あなたたちに理解されたくもないわ」
セレーネは本気でそう思っていた。自分より不幸な人間など、この世にいるはずがない。そう信じて生きてきた。そしてこれからは、平凡な幸せを手に入れる予定だ。落ちてきた家族は、自分を愛せざるを得ないはずだから。
なんて、幸福なのだろう。書状を受け取ってからというもの、セレーネの笑いは止まらなかった。
「持っていっていいわよ」
にっこりと微笑んで。
ミラはゆっくりと机に近づき、ブラックダイヤモンドのリングを手に取った。触れた瞬間に、いつもの記憶が頭の中に流れてくる。小さく息を吐き、リアムのもとへ下がった。
セレーネは、すでにその想晶から興味を失っていた。
ミラが傷つけられたことを責めるつもりで来たリアムだったが、セレーネはすでに、自ら没落への道を選び、進んでいる。
それを、セレーネ自身が気づいていないのだから。もう何も、手を下す必要はない。
「───私は、もう満たされたから」
リアムは返す言葉を失った。その沈黙を破ったのは、ミラだった。
「狂っているのかと思っていましたが……冷静で、安心しました」
リアムは思わずミラを見る。判断に狂い、自分を過信し、破滅へと向かう彼女が冷静だと言う。
「どこが?」
「……そうね、私は冷静ね」
狂ったふりをしているつもりが、狂っているのか。それはセレーネ自身にも、分からない時があった。それでも、ミラに冷静だと言われたことが、不思議と救いだった。客観的に自分を見られるようになってからだ、家族を愛せるようになったのは。
「怪盗リアム」
セレーネはちらりと彼を見る。
「あなたの正体は、エレイン伯爵の従者なの?」
「今は、そうだね」
あまりにも容易く認めたリアムに、ミラは思わず見上げる。その表情は、いつも通り余裕があるように見えた。
「あなたが昔、想晶を盗みに来た夜。母様が発狂していてとても、爽快だったわ」
「それは、どうも」
母の歪んだ表情を見て、セレーネは安堵した。兄の時と同じ感覚だった。人間味を感じた彼らに、セレーネは血の繋がりを感じた。自分が鏡で見る、いつもの表情に似ていたからだ。恨んでいるし、愛している。
「あなたたちには感謝ばかりね」
「では、またいつでも盗みに参ります」
リアムは優雅にお辞儀をしてみせる。セレーネの手元にあるのは、二つの想晶のみ、きらりと輝いている。
この誘拐事件を通して生まれたものだと、リアムには想像できた。盗んでも、何の価値もないだろう。
「想晶なんて、もう買えない人生よ。これからは」
それでも、セレーネは笑っていた。心の底から、今が一番幸せだと感じている笑顔だった。
「ありがとう。」
窓から去っていく二人の背に、セレーネは呟いた。
その声は、ミラの耳に届いていた。けれどもう、怒りも同情も湧かなかった。
ただ、彼女の記憶を知ってしまったからこそ。少しだけ、心に残るものがあった。それは同情ではない。
「誰かに愛されますように」
愛しているだけのセレーネへ、祈ったつもりはない。
愛されなかったセレーネへ、ミラが投げた、ただの言葉だった。
***
二人は屋根から静かに離れた。
屋敷の明かりが遠ざかるにつれ、胸の奥に溜まっていた緊張が、少しずつほどけていく。
ミラは、ブラックダイヤのリングをはめた右手を、強く握りしめていた。
しばらく無言のまま歩いていたが、ミラはふいに足を止めた。リアムが気づいて振り返る。
「……リアム」
呼ばれただけで、彼は何も言わずに立ち止まった。ミラは右手を胸元に当て、小さく頭を下げる。
「……ありがとう。ついてきてくれて」
リアムは一瞬だけ目を瞬かせてから、いつものように肩をすくめる。
「取り返したのはミラでしょ。お礼を言われることじゃない」
自らの手で取り返したい彼女が心配で、協力しただけだとリアムは思っている。
「……それでも」
ミラは顔を上げないまま、続けた。
「……私、一人じゃ、行けなかったから」
ブラックダイヤモンドとは、もう二度と巡り会えなかったかもしれない。その考えが胸を締めつけ、ミラの指先がわずかに震える。
それにきっと一人だったら、セレーネに同情してしまっていた。けれどリアムが隣にいたから、ミラは忘れずに済んだ。セレーネが自分にしたことを。
リアムは、何も返さない。ミラはリングに視線を落とす。黒い石は、月の光をほとんど反射しない。
話したい、ブラックダイヤモンドの記憶。リアムになら、話してもいい。そんな考えが、自然と浮かんでしまった。
けれど。ミラは唇を軽く噛み、言葉を飲み込む。
「……また、今度」
「?」
「いつか……ちゃんと、話すから待ってて」
何を、とは言わなかった。けれど、リアムはそれ以上問い返さない。なにより、ミラが秘密を話そうとしてくれることに喜びを感じていた。
ミラはもう一度だけ、リアムの方を見る。
「……本当に、ありがとう」
「ちゃんと離れなくて、偉かった」
軽口が返事の代わりのようだった。そんなリアムらしさに、ミラは思わず声を出して笑った。




