14 怪盗と没落
「おはようございます、お嬢様」
ミラはいつもより深く礼をした。ヴィオラは眉を下げ、椅子から立ち上がると、ミラの元へ駆け寄る。
「ミラ!大丈夫なの?ちゃんと眠れたの?」
全身を触りながら確認する。その声には心配の色が溢れていて、ミラの胸はじんわりと温かくなった。
「はい、お嬢様。ご心配をおかけして、申し訳ありません」
ヴィオラはまったく納得していない様子で、ミラのまだ赤みの残る頬に触れ、次いで手首に目を落とした瞬間、息をのむ。
「ここの傷、痛むんでしょう?」
「ほんの少しです。大丈夫です、お嬢様」
そう答えたミラの横に、静かな足音が近づく。
「……ミラ」
横に立ったのは執事ルーイだった。ただ呼ばれただけなのに、ミラの胸の奥がぴくりと反応する。
ルーイの視線も無意識にミラの手首へ向かい、わずかに眉が寄った。触れたい衝動を押し込み、執事として振る舞おうとする。だが、いつもならまずヴィオラへ挨拶をするはずで、その違和感は隠しきれていなかった。
「体調は?無理してないのか?」
低い声。ミラはほんの一瞬だけ瞬きをしてから、答える。
「大丈夫です。ありがとうございます」
ルーイは目をそらさない。その視線は、いつもよりも長くミラを捉えていた。それは自覚してしまった男の、隠しきれない変化だった。ヴィオラはそんな二人を見比べて、ぽつりと呟く。
「そういえばね、ミラの恋人も心配してたわよ」
「───恋人?」
ルーイの表情が固まった。ミラに恋人がいるなど、考えたこともなかった。ヴィオラに献身的に仕える彼女の姿しか知らなかったからだ。
ミラは慌ててヴィオラへ視線を向ける。
「お嬢様、恋人などおりませんと、何度も申し上げております」
「でも向こうはそのつもりよ?あんなに分かりやすいアピールして」
「違います」
ミラは即座に大きく首を横に振る。けれどルーイには、その『恋人』という言葉が、鋭い文字となって頭上から落ちてきたように感じられた。
エレイン邸で働き始めてから、ミラと最も近い距離にいたのは、確かに自分だった。だが、それは「近くにいただけ」だ。仕事の話しかしない。私生活に踏み込むことも、踏み込まれることもなかった。互いに興味などない、そう思っていた。
だからこそ、ミラの『恋人』という言葉が、思っていた以上に深く刺さる。否定するミラの言葉に、安堵している自分がいることも、はっきりと分かってしまった。胸の奥で、静かにざわりと熱が広がる。明らかな嫉妬心に、ルーイは舌打ちしそうになる。
ヴィオラは当たり前のように続けた。
「ルーイは知らなかったの?ミラのこと、いつもそばで見てたのに」
その何気ない一言が、また深くルーイの胸に突き刺さる。知らなかった、気づかなかった。ミラの近くにいたはずなのに。
「……詳しく、お聞きしても?」
思わず漏れた声は、自分でも驚くほど低かった。ミラは「なぜそこで食いつくの!?」という顔で振り返る。ヴィオラは顎に指を当て、ひと言だけ告げた。
「エレイン騎士団の副団長、レオンよ。ミラのことを好きなのは、屋敷では有名な話だもの」
レオン・フレイザー。ルーイもよく名を聞く人物。若くして副団長に任命され、これまでに挙げてきた成果から、次期団長は間違いないと噂されている男。背も高く、鍛えられた身体に整った顔立ちで、メイドたちからの人気が高いことも知っていた。
その事実を初めて知った瞬間、ルーイの胸の奥で何かが小さく弾けた。それが何なのか。もう、誤魔化せるほど鈍くはなかった。
「レオンは、もう会いにきたの?」
「いえ……朝は訓練がありますので」
今朝、廊下の端からミラの姿を見つけたレオンが、駆け寄ろうとしかけたことを、ミラは思い出す。だが、隣に団長がいたため、彼は足を止め、堪えるような表情を浮かべていた。
「へえ。把握してるのね」
「お嬢様……」
ヴィオラが得意げに微笑むと、ミラは眉を下げた。
「だって、ミラをからかうと、いつも困った顔になるでしょう?それが可愛いのよ」
「メイドをからかうのは止めて下さい」
微笑ましそうに言うヴィオラに、ミラは返答しながら、朝食の準備を進める。ルーイはその場に立ち尽くしたまま、無意識にミラの動きだけを目で追っていた。
「昨日もね、ミラがさらわれたって聞いた途端、大慌てでミュラティス邸へ一人で向かうって言ったのよ」
ヴィオラは、許可を求めに来た時のレオンの顔を思い出す。あれほど必死な表情を見たのは初めてだった。危うく許可を出してしまうところだったが、周囲の騎士団員や団長に止められた。昨夜は街の見回り担当だったらしく、レオンは悔しそうな顔で持ち場へ戻っていった。
その話を聞いたミラの表情が、わずかに和らぐ。
「そうなのですね……お礼を言わないと」
自分のために怒ってくれた人がいた。その事実が、胸の奥を温かくした。
その微笑みを見て、ルーイは思い出す。レオンと並んで歩いていた姿。廊下で言葉を交わしていたこと。訓練場へ呼ばれていたこと。すれ違いざまに軽く会釈をした時、隠しきれないほど嬉しそうにしていた男の顔。
あー、むかつく。
同じ屋敷で、すぐそばにいたのに。気づこうとも、知ろうともしてこなかった。ミラに興味がなかったのも、事実だ。今ならそんな男など、近づけさせないのに。
「ルーイ、眉間の皺がすごいわ」
ヴィオラが首をかしげる。
「……いえ。問題ありません」
その返答は、やけに硬かった。ミラもその変化に気づき、思わずルーイを見つめる。普段なら上手に誤魔化す彼が、今日は一切笑わない。
胸の奥に走る痛みに、ルーイは顔をしかめ、そんな自分自身に腹が立った。
***
ヴィオラの朝食が済むと、各々が業務へ戻り、ヴィオラは家庭教師の到着を待つことになった。
ミラが廊下に出ると、ちょうど反対側からレオンが書類の束を抱えて歩いてくるのが見えた。ミラの姿を認めた瞬間、彼の足が止まり、抱えていた書類がわずかに揺れる。
「……ミラ!!」
次の瞬間には、もうミラの目の前にきていた。
「怪我は?!大丈夫なのか!?」
大柄な体がぐっと屈み込み、ミラの顔を覗き込む。距離は、思わず一歩引きたくなるほど近い。
「ここ、怪我してる。こんなに赤くなって……消毒はしたのか?」
レオンは書類を持っていない手でミラの肩を掴み、赤い瞳で覗き込んでくる。
金色の髪は騎士らしく短く、無造作だった。身長は190センチ近くあり、いつもは見上げる相手だが、今は顔の高さがほとんど変わらない。過剰とも取れるその心配に、ミラは苦笑いを浮かべた。
「落ち着いて、レオン。少し痛む程度だから、大丈夫」
「怖かっただろ。他には、何もされてないのか?」
「うん……されてない」
水をかけられたことや、頬を叩かれたことは、心配をかけたくなくて言わなかった。レオンは小さく息を吐き、金髪をかき上げながら、屈んでいた体を起こす。
「安心した。俺が助けに行けなくて、ごめん。ルーイさんが助けに向かったんだよな。ひとりで向かったって聞いて、驚いた」
窓から怪盗の姿で現れたとは、とても言えない。思い出してしまったリアムの顔に、ミラの頬が熱を持つ。ロマンス小説のような展開に、赤面してしまうのも無理はなかった。
「……ミラの、そんな顔初めて見た」
「そんな顔……?」
「焦るなぁ」
無表情なメイド、それがレオンの知るミラだった。だからこそ、感情を浮かべたその表情に、彼の心臓は強く跳ねるが、それが自分に向けられたものではないことくらい、レオンにも分かっていた。
ミラのどこが好きか。そんなことを考え始めたら、きりがない。きっかけはもちろん、仕事への姿勢だった。
どこかで手を抜く者が多い中で、ミラが気を抜いている姿を、レオンは一度も見たことがない。自分もまた努力だけでここまでのし上がってきたからこそ、そんな彼女に惹かれるのは必然だったのだと思う。
もちろん、完璧な人間ではない。料理は苦手で、大きな蜘蛛を見て本気で驚いていた。それでも、いや、だからこそ。そういうところが、可愛いと思ってしまうのだ。
重症だという自覚はある。今のミラの気持ちが恋愛ではなく、ヴィオラに向いていることも、分かっている。
「能天気に見えて、俺にも色々あるんだ」
「能天気なんて、言ってないけど……」
レオンは片目をつぶって誤魔化してみるが、ミラの無表情は相変わらずだった。
レオンは今まで焦りはなかったし、今すぐどうにかしようとも思っていなかった。ただ、ミラが好きだということを、自覚していただけだった。ミラが誰かを好きになる、それが嫌だとは思う。自分に向けてほしいと願って、何が悪い。
「ミラは……お嬢様のことを、好きでいてくれよ?」
「……当たり前です」
頼むから、誰かの特別にならないでくれ。レオンはそう願うことしかできなかった。
今、自分が何をしたところで、ミラの好意がこちらに向くとは思えなかったから。
***
ミュラティス子爵邸に、一通の書状が届いた。そこには、末娘の犯した罪と、それに対する処罰が簡潔に記されていた。
目を通したミュラティス子爵は、その場で膝を折り、崩れ落ちる。長女は咄嗟に駆け寄り、床に落ちた書状を拾い上げ、目を通す。
『貴殿の領内において、エレイン伯爵家に仕える従者が、不当に拘束される事案が発生した。
本件について調査を行った結果、侯爵領内の秩序を乱す行為であったと判断し、下記の通り処分を決定する。
罰金として、金貨千枚を科す。』
「……金貨、千枚……」
長女の手から、力なく書状が滑り落ちる。
金貨千枚。それは、ミュラティス子爵邸の一年分の収入では足りない。ただ、罰金だけであれば、どうにかなる。だが、それだけで済む話ではなかった。噂はすでに広まりつつあり、長女のもとには縁談辞退の知らせが届き始めていた。屋敷を去る従者も現れ、領民たちの視線は冷たく変わる。社交界からも、遠巻きにされることになるだろう。
「……没落貴族って言われて、一生笑われるわ」
長女の瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。父のミュラティス子爵は地面に突っ伏したまま、微動だにしなかった。
そのとき。
事件の加害者であるセレーネが、部屋の入り口に姿を現した。彼女は、崩れ落ちた父と泣き崩れる姉を、ただ呆然と見つめている。
ぼやけた視界の中で、長女は妹の顔を捉え、ぞくりと、背筋に冷たいものが走った。
兄が亡くなった日。妹は笑っていた。不気味に弧を描いた口元で、嬉しそうに。その表情と、全く同じものを。今、セレーネは姉に向けていた。それが恐ろしくてたまらない。
「きゃああ!!!」
思わず叫び声をあげた。頭を抱え、姉は目を強く閉じ、その場にしゃがみ込む。妹を怖いと感じたのは二回目だった。
「お前えええ!!なぜあんなことをしたんだ!!!」
ミュラティス子爵が床から起き上がり、ずんずんとセレーナの元へ歩み寄る。額の血管は浮き出ており、怒りをそのままぶつけるように、セレーネの肩を掴んだ。
「なぜ……?」
「お前のせいで、ミュラティス家は終わりだ!」
「家族のためです。兄様がいなくなって、ミュラティス家は終わりに向かってました」
「お前のせいで死んだ!!お前が邪魔をしなければ、お前さえいなければ!何のために生まれてきたんだ!?」
セレーネの肩を掴みながら、力任せに華奢な身体を揺らす。それでも、セレーネは父の瞳から目をそらさなかった。彼女の目は悲しみには染まっていない。
「姉様、父様。ここにはいない母様、兄様。」
セレーネの声が近く感じて、姉は耳を塞いだ。
怖い。妹が、怖い。
「───やっと、家族になれましたね。ここまで落ちてきてくれて、ありがとう」
耳元で囁かれたその瞬間、父は言葉を失った。これが、自分の産んだ『娘』なのかと疑い、そして存在を認識した。姉は眩暈に襲われ、その場に崩れ落ちる。
その瞬間。ミュラティス子爵邸に二つの想晶が生まれた。恐怖に支配された姉のものと、喜びに満ちた、セレーネのもの。




