13 怪盗と自覚
一度潜入した屋敷だけに構造は覚えている。だが、ミラがどの部屋へ閉じ込められたのかまでは分からない。怪盗リアムは、ミュラティス邸の屋根から静かに屋敷を見下ろしていた。
壁を伝い、窓という窓を覗き込んでいく。これまでの潜入とは違い、胸を締めつける焦りがあった。
もし、ミラが傷つけられていたら。その想像だけで、怒りが胸の奥から込み上げる。
「見つけた」
窓の向こう、ベッドに横たわるミラの姿が目に飛び込んだ。
***
どれくらい時間が経ったのか分からない。灯りひとつない部屋はすっかり暗く、ただ窓の外の月だけが薄く床を照らしている。
涙は止まったが、体の冷えは戻らない。布一枚もない硬いベッドの上に横たわりながら、窓からいっそ飛び降りて逃げてしまおうか。ミラの頭にそんな危うい考えが浮かんだ。
その瞬間だった。ひゅう、と冷たい風が室内を切り裂いた。ミラははっと顔を上げた。
月明かりを受けた金色の瞳。想晶の輝きのようなその光と目が合い、反射的にミラは手を伸ばしていた。
「────今宵は貴女を、頂戴します」
黒いマントが翻る。窓側に吸い寄せられるように走れば、伸ばしたミラの手が強く掴まれて、細い体は迷いなく抱き寄せられた。
「……リアム?」
信じられないというより、夢を見ているような感覚。目の前に現れた姿を見上げながら、ミラは現実をまだ受け入れられなかった。次の瞬間、リアムがその顔をぐっと近づける。息が触れて、ミラの心臓がひとつ跳ねた。
「ミラ」
低く、いつもの軽口とは違う声はかすかに震えていた。
「ミラ」
二度呼ばれた名に、ミラは喉を震わせるだけで言葉にならなかった。ただ、小さく頷く。
「頬が、赤い」
平手打ちされた頬へ、リアムの指先がそっと触れる。その視線は濡れた髪から肩、張りついた服へと静かに落ちていった。
「……冷え切ってるし」
淡々とした声だった。しかし、その奥に押し殺した怒りが滲んでいる。リアムの視線はミラの手首に向けられた。瞬間、眉間に深い皺が刻まれる。
「なに、この痕」
「縛られただけ。大丈夫」
そう答えた声とは裏腹に、手首には赤く擦り切れた傷から血が滲んでいた。リアムは静かに視線を上げると、濡れた髪へ手を添え、壊れ物に触れるように撫でる。
「……遅くなって、ごめん」
悔しさを押し殺した声だった。胸の奥がじんわりと熱くなり、ミラは思わずリアムのマントを掴む。
「……ありがとう、リアム」
安心させるように微笑むその姿は、怪盗であるはずなのに、ヒーローにしか見えなかった。
「もう大丈夫だから」
その一言だけで、張り詰めていたものがほどける。震え続けていたミラの手を、リアムはそっと包み込んだ。そして手首へ顔を寄せると、そっと口づけた。
「っ──!」
「あ、ごめん。つい」
止められなかったという言葉は飲み込まれた。
ミラの顔が一気に熱を帯びる。鼓動が速すぎて息が苦しい。窓から助けに現れたうえに、こんなことまでされたら、胸が騒がないはずがない。リアムの言葉でいちいち心臓が跳ねることが煩わしく、文句の一つでも言おうとミラが口を開いた、そのときだった。
ガチャリ。鍵の回る音が部屋に響く。扉の向こうの気配に、リアムの身体がぴくりと強張った。
「……くそ、もう来たのか」
「私の、リングが取られたの!取り返したい」
ミラの右手の中指に、あるはずの黒く光るダイヤモンドが見当たらなかった。けれどリアムは首を横に振る。
「わかった。必ずまた盗みにくるから今は逃げるのが先。ほら、俺の目みて」
ミラの灰色の瞳が、リアムの金色の瞳を覗く。その瞳には、迷いが一つもなかった。怪盗リアムが必ず盗んでくれると言うのなら、不思議と不安は消えていく。彼の実力は側で見てきた。どんな想晶でも狙ったら決して逃さない、想晶専門の『怪盗リアム』だ。
「───レディ、失礼します」
その言葉と同時に、リアムの腕がミラの腰へ回った。直後、身体がふわりと浮き上がり、ミラが焦った顔でリアムを見上げた。
「ま、まって!もしかして」
「俺のポリシー、教えただろ?」
窓から侵入して窓から出る、あの言葉が脳裏をよぎる。ミラは激しく首を横に振った。
「む、無理……!」
「誰だ!?怪盗……?」
扉から入ってきたアーヴィンの驚いた表情と、ミラの目が合う。
「落ちないから、てか落とすわけない」
リアムの声にミラは息を飲み、胸から力が抜けた。
「────」
「離すなよ!」
リアムは微笑み、迷いなく窓へ跳んだ。ミラはぎゅっと目を閉じ、リアムの首にしがみつく。アーヴィンの目には、まるで月に飛び込んでいくように見えた。慌てて窓際へと駆け寄る。
風が裂け、黒のマントがはためく。リアムの手が潜入時に使った縄を掴み、二人の身体が一気に斜めへと滑り落ちていく。靴底が屋根を踏む音と共に、リアムが着地した。アーヴィンは思わず息を呑んだ。
「着いた。目、開けて」
恐る恐る瞼を上げると、隣家の屋根の上。ミラを優しく下ろし、リアムは笑顔を見せる。
「怖かったなら、もう一回泣いてもいいよ?」
「一度も泣いてない」
リアムが来てからは驚きで涙は引っ込んでいた。
ミラはリアムを睨みつけるが、彼はシルクハットを抑えながら唇を尖らせた。
「泣きそうになって可愛かったのに。さっきも、必死にしがみついてたし」
「しがみつくしかない状況を作ったのはリアムでしょ!」
「はは、確かに」
リアムの笑い声に、ミラはようやく大きく息を吐いた。もう会えないと思っていた、ヴィオラにも、リアムにも。リアムの軽口を聞いているうちに、張り詰めていた心がほどけていく。恐怖で震えていた手はいつの間にか止まっていた。
「リアム……本当に、ありがとう」
小さく呟くと、リアムは一瞬だけ目を伏せ、ミラの耳元へ唇を寄せると、
「……無事でいてくれて、ありがとう。ミラ」
耳に息がかかり、胸が跳ねて、ミラは反射的に赤く染まった顔を逸らす。
「おい!見つけたぞ!」
子爵家の下からアーヴィンの怒声が飛んだ。ここで逃すわけにはいかなかった。哀れなお嬢様が、せっかく見つけた、家族に認められるための道具。これでセレーネがやっと報われるのだ。
ランプの光が揺れ、何人もの影がこちらに走り出す。リアムが軽く舌打ちをした。
「やっぱり追ってくるかー……面倒だな」
「わ……!」
ミラを慌てて抱え直し、彼は夜空を見上げる。
「しっかりつかまってて、ミラ。ここからが本番」
月明かりを切り裂くように、怪盗リアムは屋根から屋根へと駆ける。その背を追う足音だけが、夜の街へ響いていた。
***
追手の姿が見えなくなり、林の外れに隠していた馬車まで戻ると、リアムはようやく足を止めた。ミラを地面に下ろすと、彼女が寒さで小刻みに震えているのが分かる。
「乗って。ここで立ってたら体が冷える」
それだけを告げるとリアムは馬車の扉を開いた。ミラは黙って乗り込み、リアムはすぐさま手綱を握って馬車を走らせる。
一定の速度で馬車が進み始め、外の気配が遠のいていく。
「……茶会での会話を聞かれてたみたい、能力を利用するためにさらわれた」
馬車の中から小さな窓を開き、ミラが呟くように言うと、リアムの手綱を握る指がぴくりと強張った。
「……聞かれてたのか」
リアムの声は低く、押し殺した怒りが混じっていた。あんな場所で話をした自分への怒りがあった。ガーネットの記憶に気を取られ、警戒が薄くなってしまったのだ。
リアムはほんの一瞬だけ目を伏せる。伏せた睫毛が震えていた。
「子爵家がエレイン伯爵家の従者を誘拐……しかもランクリフ侯爵領内で。普通はありえない。伯爵もお嬢様も黙っていないだろうし、ランクリフ侯爵も動くはずだ」
ミラは黙って聞いていた。リアムの悔しさも、焦りも、言葉にしなくても伝わってきた。
「怒ってるの?」
「怒るに決まってる。……あいつらにも、自分にも。ミラを危険に晒したのは俺の責任でもあるし」
吐き出すような声だった。そこにあったのは、怒りよりも、心配。それがまっすぐ伝わってきて、ミラの胸の奥がじんと熱くなる。表情を見られないのが幸いだった。頬が熱いのを悟られたくなくて、ミラは照れを隠すように言葉を探した。
「能力のことと、怪盗リアムのこと。セレーネ嬢は誰かに話すと思う?」
怪盗リアムが、あの屋敷からミラを連れ出した。それだけで、二人の間に何かあると疑われるには十分だった。
「誘拐した本人の証言なんて、説得力ないでしょ」
その一言でミラの胸がほっと緩んだ。
考えてみれば、セレーネの話を信じる者などいるだろうか。メイドに想晶を視る力があること、怪盗リアムがわざわざ一人のメイドを助けに来たこと。どちらも現実離れした話だ。証拠がなければ、ただの妄言として片づけられる。それも、誘拐した側の言葉ならなおさらだった。
「エレイン邸まであと少し。伯爵への報告は俺がするから。」
「いえ、私も」
「冷え切ってるんだ、まずは温まることが優先」
ミラは小さく頷いた。
馬車は夜闇の中をまっすぐ駆けていく。会話は少なかったが、沈黙は重くなかった。
ほどなくしてエレイン邸に馬車が着いた。執事服にいつの間にか戻っていたルーイが、馬車の扉を開けた。ミラが降りた瞬間、ふわりと花の香りが鼻をくすぐる。
「ミラ!!!よかった」
駆け寄ってきたヴィオラは、涙で濡れた顔のままミラを強く抱きしめた。ミラも弱々しく主人に腕を回す。
「お嬢様、ご心配をおかけしました。またお会いできて、本当に良かったです」
「セレーネ嬢とは、話したこともなかったのに……きっと、私を恨んでいたのよ。だから、あなたを……許せない。すぐにお父様に報告するわ」
悔しさと悲しみで、ヴィオラの声が揺れる。
ヴィオラは知らない。セレーネが抱えていたものも、あの日の真実も。ただ、自分のせいで大切な人が傷ついたのだと思い込んでいる。能力を隠しているミラもまた、真実を話せなかった。
「私も同席します」
ルーイがヴィオラの隣に並ぶ。その時、ヴィオラはミラの体が驚くほど冷えていることに気づき、眉をひそめた。
「こんなに冷えて……!早く温まらないと。ルーイ、まずは入浴の準備を」
「入浴だなんて、そんな……着替えれば十分です」
湯で身体を拭くだけで十分なのだが、ヴィオラは首を縦に振らなかった。
「ダメ。私の命令よ」
「行きますよ、ミラ」
ルーイがミラの肩をそっと支え、エレイン邸の中へ導く。ヴィオラは怒りを押し殺すように息を整え、ヴァレンティンのもとへ足早に向かった。
ミラが湯に足を浸した瞬間、息がもれる。
湯がじわりと沁みる。でも、それがようやく「生きて帰った」と体に知らせてくれるようで、ミラはしばらく湯の中で動けなかった。
赤い頬と手首の擦り傷が目に入る。あの時は痛みを感じる余裕もなかったが、縄の跡は真っ赤で、手首に触れただけで鈍い痛みが走る。
「………っ」
涙が溢れだす。この屋敷に戻れないかもしれない恐怖、大切なリングを失う恐怖、何をされるかわからない恐怖。恐怖はたしかにミラの心に刻まれていた。
怖かった記憶が、湯の熱さに溶け出していくようだった。鏡の前に立つと、濡れた金髪が背に張り付き、頬は赤く、目は泣き腫らしていた。
「……ひどい顔」
ぽつりと呟いた瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられる。ヴィオラの顔が浮かんで、そして助けに来た時のリアムの声が蘇る。
湯気の向こうで、リアムの金色の瞳を思い出した途端、心臓が再び跳ねる。自分でも分からない感情が胸に広がり、ミラは慌てて湯に潜って誤魔化した。
入浴後、ミラはそのまま休むようにと厳しく言われ、これ以上ヴィオラに心配はかけられないため、おとなしく自室に戻り手首を消毒した。
その頃、ヴィオラとルーイはヴァレンティン伯爵の部屋で、誘拐事件の全容を報告していた。ミュラティス子爵家の不敬は明らかで、ヴァレンティンも静かに怒りを露わにする。
「なんとかしよう」
「ミラを…失っていたかと思うと……」
ヴァレンティンの前で泣き始めたヴィオラを宥め、ミラの代わりに彼女が眠りにつくまで寄り添った。本当は、すぐにでもミラの様子を見に行きたかった。だが、ようやく落ち着きを取り戻した彼女を起こす気にはなれず、そのまま自室へ戻る。
扉を閉めると、リアムは椅子へ腰を下ろした。手の甲で顔を覆い、深く息を吐く。ヴィオラの震えた声が、耳に蘇る。
───ミラを……失っていたかと思うと……
必死だった。どの部屋に閉じ込められたのかも分からない屋敷を、片っ端から探し回った。あのとき頭にあったのは、ただ一つ。
「失いたくない。」
その思いだけだった。
リアムは背もたれへ身を預け、額を押さえる。もう、否定できない。
最初は、ただ無表情なメイドだと思った。一緒に過ごした時間なんて、ほんのわずかだ。
思い浮かぶのはただ、断片的なミラの姿だけだった。静かな横顔。落ち着いた声。ヴィオラに向ける柔らかい笑み。誰かを傷つけないように選ぶ言葉。想晶を前にすると隠しきれなくなる、不器用な素直さ。
リアムは熱くなった顔を覆い、誰に聞かせるでもなく小さく息を漏らす。
「……あー、そっか」
自分でも呆れるように、口元がわずかに緩む。
「……気づくの遅すぎでしょ、俺」




