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12 怪盗とムーンストーン

「ミラ、遅いわね」


「ええ……」


 ヴィオラの扇子を取りに戻ってから、もう数十分が経っていた。馬車の窓から屋敷を見つめるが、見慣れた金髪の影はどこにもない。温室まではそれほど遠くないはずなのに。


「様子を見てきます」


「お願い」


 ルーイは馬車を降り、ランクリフ邸の正門へ急いだ。扉脇に立っていた警備兵に声をかける。


「エレイン家の執事です。うちのメイドを見ませんでしたか?金の髪に灰色の瞳の──」


「ああ、その子なら。温室に忘れ物を取りに来て、それからこの扉をくぐって出ていったよ。お会いしなかったんですか?」


「……馬車には戻っていません。何か言っていましたか?」


「いえ、特には。ついさっきですよ。青い扇子を持って、軽く礼をして……普通でした」


 兵士は首をかしげつつも、特別な異変はなかったと繰り返す。ルーイの中で焦りが膨らむ。居ても立っても居られず、苛立ちが抑えきれなかった。


「……どこへ行った……」


 ルーイが踵を返そうとしたその時。


「そこの執事!」


 凛とした声が、彼の足を止めた。振り向けば、ナディーヌ・ランクリフが赤い扇子を唇に寄せ、漆黒の髪を陽光に揺らしていた。


「メイドなら、誰かに連れ去られたみたいよ」


「……はい?」


 思わずルーイの素の声が漏れる。


「馬車に押し込まれていたところを、うちの従者が見ていたわ。紋章は──ミュラティス家のものだった」


 金の瞳が大きく見開かれた。血の気が引く感覚が、身体中を駆け抜ける。誘拐だとは、微塵も考えていなかった。ヴィオラは伯爵家の娘であり、その危険性があっても、メイドが誘拐されるなど可能性としては0に等しい。


「ナディーヌ令嬢、馬車を一台お借りできますか」


 ナディーヌの眉がぴくりと動いた。


「まさか、あなたが追うつもり?兵を向かわせたほうが早いわよ」


「お願いいたします」


 頭を下げ、きっぱりとした声音に、ナディーヌは一瞬言葉を失う。目を逸らし、傍らの執事へ指示を出した。


「……用意させるわ」


「感謝いたします」


 礼を残し、ルーイは駆け出す。


 待機していたエレイン家の馬車の扉を勢いよく開けると、ヴィオラが驚いた声を上げた。


「ルーイ!?どうしたの?」


「ミラがさらわれました。追跡します。この馬車をお借りしてもよろしいでしょうか。代わりの馬車はナディーヌ令嬢に手配いただきましたので」


「ミラが……!?そんな……わかった、すぐに」


 メイドが誘拐された理由など分からない。けれど、考えている暇はなかった。御者とヴィオラをランクリフ邸に残し、ルーイは手綱を握る。


 目指すは──ミュラティス子爵家。


 屋敷の場所を知っているのは、かつて夜の闇の中で忍び込んだことがあるからだ。


 あの時、ほとんどの想晶を奪っていった怪盗リアム。まさかまた、同じ屋敷を訪れることになるとは思っていなかった。


 馬が地を蹴る。風が頬を裂く。こんなにも必死になるのは、彼女の能力を失いたくないからか、それとも、彼女自身を。



 ***



 ミラは目隠しをされ、背中で手を縛られていた。馬車に押し込まれてから、どれほど経ったのか分からない。揺れが止まり、外の気配が静まる。乱暴に腕を掴まれ、馬車から引きずり下ろされた。


「っ……誰?」


 声を漏らしても返事はない。足音と自分の呼吸だけが響く。どこへ向かうのかも分からず、不安が胸を締めつけた。

 足が止まり、目隠しが外される。光が差し込み、ミラは瞬きをした。視界が慣れると同時に、息が止まる。


 そこにいたのは──セレーネ・ミュラティス。子爵家の末娘と、その執事がミラを見下ろしている。


 セレーネは銀の髪を二つに束ね、くるくると巻かれた髪が揺れる。丸い紫の瞳は愛らしい、はずだった。だが、片方だけ上がった唇の歪みが、その印象を裏切る。

 背後の執事は濃いブラウンの髪を撫でつけ、金色の瞳を細めていた。リアムの金の瞳とはまるで違い、冷たく光って見える。


「アーヴィン、この子で間違いないの?」


「はい。確かに聞きました」


 アーヴィンと呼ばれた執事は淡々と答えながら、じりじりと距離を縮める。ミラは背後の縛られた手を強く握った。

 執事が懐から取り出したものが、目の前に突きつけられる。


「……想晶……?」


 白い想晶、ムーンストーンのようだ。丸みを帯びた半球状で、光の筋(シラー)が揺らめいている。


「そう。あなた、視えるんでしょう?アーヴィンが、茶会の隅で執事と話しているのを聞いていたのよ」


 アーヴィンは偶然聞いてしまった。主が視える者を探していたのも、偶然だった。

 聞かれてしまった以上、能力を隠す必要はないためミラは素直に首を縦に振った。


「視えます……けれど、さらうほどのことでは……仰ってくだされば、視ますよ」


「こんな状況でも冷静なのね。エレイン伯爵が、そんな貴重な力を他家に簡単に貸すはずがないでしょう? さらう以外、方法なんてないわ。それに、私はこの想晶だけを見てほしいわけじゃないの。貴女をつかって、ビジネスをするの」


「旦那様は、この力のことをご存じありません」


「そうだったの。でも、あなたを誘拐した以上、もう後には戻れないわ」


 エレイン伯爵が、ミラの能力を利用しているものと思っていたセレーネだったが、見当違いだったらしい。

 ミラはわずかに目を伏せる。


「さあ、視て。力が本物なら使ってあげるわ。私のために」


 ミラはゆっくり口を開く。


「……縄を、外してください。触れなければ視えません」


「アーヴィン、外して」


 手首に巻かれた縄が外され、ミラの指先が結晶に触れた。



 ▼▼▼



 セレーネの足は、動かなかった。息をすることさえ忘れ、ただ目の前の光景から目を離せずにいた。


 溢れる赤。

 倒れ込む馬。

 うめき声を漏らす兄。

 泣き崩れる姉。

 駆け寄る従者。

 慌てふためくアーヴィン。

 通りすがりの女性の悲鳴。


 沢山の音が、耳障りだった。


「……さい」


 セレーネのかすれた声は、誰の耳にも届かない。


「……るさい!うるさい!うるさい!うるさい!!」


 頭を抱えて叫んでも、誰もこちらを見ようとしなかった。それは、いつもだけど。


 兄が、目の前で馬車に轢かれた。


 セレーネが砂糖菓子が食べてみたい、と言ったからだ。あまり話したことのない兄は馬車を停め、砂糖菓子を買いに行った。その行動に、セレーネは驚愕した。

 空気のようにセレーネを扱ってきた兄が、初めてセレーネの言葉を耳に入れた。


 それは本当にただの、気まぐれだった。普段なら妹であるセレーネの言葉は無視しているし、勝手に買いに行けばいいと思っていただろう。砂糖菓子など簡単に手に入るのに、哀れな末の妹には誰も買い与えない。急に、たまには良い兄になろうと思ってしまった。


「ありがとうございます、兄様」


 妹に感謝をされても、何の感情も湧かなかった。男に生まれなくて、望まれなくて可哀想だと思った。


 兄がわたあめを店主から受け取り、戻ろうとしたその瞬間。それは、ほんの一瞬の出来事だった。


 隣に座っていた姉はすぐに駆け出したが、セレーネはしばらく馬車から降りられなかった。


 ふわふわとしたわたあめが、地面に投げ出され、血に溶けていく。


「兄様!兄様!!」


 姉の桃色のドレスが、じわりと赤く染まっていく。

 私のせいだ、とは思わなかった。いつも無視していた兄が、勝手に同情しただけだ。


 ミュラティス家には、男は兄しかいなかった。その跡継ぎが、たった一瞬で失われた。


「…私が、兄様の分まで稼ぎますね」


 セレーナの呟きに、涙でぐしゃぐしゃになった姉が、大きく目を見開いた。

 セレーネの紫の瞳をただ、真っ直ぐ見つめた。その時、姉は怒っていたのか、悲しんでいたのか、信じられないのか、それとも褒めたかったのか。


 このときの姉の表情は、今でも忘れられない。


 あれがどんな心境だったのか。セレーネには、今も想像ができなかった。




 ▼▼▼





「……どうやら本当のようね」


 ミラは嘘をつくことができなかった。記憶を追体験した瞬間から、全身にじわりと汗がにじみ、瞳からは止めようのない涙がこぼれ落ちていた。


「……これは、セレーネ嬢の想晶なのですね」


「そうよ。兄様を失ったときに生まれたもの。そして私は、あなたの力でビジネスをするの。ミュラティス家のために」


 ミラの涙はなおも止まる気配を見せない。それをセレーネは、まるで汚れでも見るかのような冷たい目で見つめた。


「まさか、同情? 笑わせないで。私が泣いてないのに、あなたが泣くなんて、おかしいでしょう」


 あの瞬間、セレーネ自身は一滴の涙も流さなかった。それでもミラは、あふれ出る涙を止められなかった。

 姉が抱いていた感情は理解できた。だが、セレーネ自身の感情だけは、どうしても理解できない。それなのに、想晶を通して、その理解できない感情までも無理やり胸に流し込まれたような気がした。

 自分の感情と、セレーネの感情。その決して相容れない矛盾と嫌悪感に胸を締めつけられ、ミラの涙はいつまでも止まらなかった。


「申し訳……ございません」


「いいえ、目障りよ。記憶を視るたびに泣かれたら困るわ。アーヴィン」


「はい、お嬢様」


「黙らせて」


 アーヴィンの口元に、ぞくりとするほど冷たい笑みが浮かぶ。手近にあった花瓶をつかむと、そのままミラの頭上へとひっくり返した。花瓶が地面に落ちて大きな音が鳴る。

 冷水が一気にミラへと降りかかり、アスターの花がばらばらと落ちた。濡れた前髪から落ちる滴が頬を伝い、涙と混じりあった。


「ほら、止まったでしょう」


 セレーネはつまらなそうに呟いた。ミラは俯き、濡れた髪がぽたぽたと床を濡らしていくのを、ただ見つめるしかなかった。


 セレーネ・ミュラティスは期待されずに生まれた。家の跡継ぎは長男、政略結婚の切り札は長女。セレーネは偶然の妊娠で、望まれず、期待もされず育った。兄は男に生まれ教育を受け、姉は美しく生まれパーティーへ通い、セレーネだけがいないもののように扱われた。甘やかされるわけでもなく、虐められるわけでもない、ただただ無関心だった。


 だから、兄が事故に遭った日。初めて両親が自分に関心を向けた。その嬉しさから生まれたのが、このムーンストーン。


「期待されるのって、嬉しいのよ。あなたにも期待してあげるわ。嬉しいでしょう?」


 セレーネはミラの金髪をつかみ上げ、笑った。ミラの顔が痛みに歪む。


「……悲しく、なかったのですか」


 ムーンストーンの記憶の中から、悲しい感情がミラに一切伝わってこなかったのだ。むしろ、


「は?」


 理解不能な質問と言わんばかりに、セレーネは鼻で笑い飛ばした。


「兄様と会話したことなんて、ほとんどないもの。でもあの日、母様は私の話を聞いてくれた。父様は私に縁談を持ってきてくれた」


 母との会話は、ただの事情聴取だった。「なぜ砂糖菓子を頼んだの?」「従者に行かせなかったの?」「馬車が来ているのが分からなかったの?」「なぜ笑ってるの?」セレーネにとっては、母との会話は生まれて初めてだった。

 父が縁談を急いだのは、セレーネを子爵邸から追い出すためだった。


「あんなに嬉しい日はなかったわ。兄様の死は事故。私は……どうも思わない」


 ミラはごくりと息をのんだ。ムーンストーンから伝わってくるのは、胸がいっぱいになるほどの歓喜。記憶を体験したミラの感情と、その中のセレーネの感情があまりにもかけ離れていた。

 想いというものが、こんなにも人によって違うとは思ってもいなかった。


「アーヴィン、このメイドを明日のパーティーに連れて行くわ。力が本物だと皆に示さないと。名前は?」


「………ミラ・リーヴです」


 セレーネがミラを見下ろし、その右手を掴んだ。中指で鈍く光るブラックダイヤモンドを、じっと見つめている。


「これは?」


「……やめてください」


 ミラの頭から血の気が引いた。


「あなたみたいな召使いには、勿体ないわ。子爵家の娘だって、こんな高価なもの買ってもらえないのよ?」


 セレーネは、このリングを奪おうとしている。


「お願いします……これだけは、どうか……!」


 冷静さなどとうに忘れ、ミラは懇願した。


「知ってる?そうやって言えば言うほど、私はそれが欲しくなるって」


 セレーネはアーヴィンに視線を向ける。彼は無言で頷き、ミラへと歩み寄った。


「……お願いします」


「逃げ出されたら困るもの。これは預かっておくわ」


 アーヴィンはミラの右手を掴み、ブラックダイヤモンドのリングを指から引き抜いた。抵抗しようとした瞬間、手首を強く押さえつけられる。


「暴れるなよ、鬱陶しい」


 肩を掴まれ、地面へと投げるように叩きつけられる。息が詰まり、視界が揺れた。

 絶望に押し潰され、セレーネの顔を見ることもできず、ミラはただ地面に顔を埋めた。


「お願いします、そのリングだけは返してください。いくらでも視ますから」


「あれだけ冷静だったあなたが、滑稽ね。ミラを部屋に連れて行って。鍵をして、逃げられたら困るから」


 セレーネの紫の瞳は、ミラを人として見ていなかった。


「おい、早く立て」


「お願いします」


 先ほど強く握られた手首を掴まれ、無理やり強い力で引っ張られる。痛みにミラの顔は歪んだ。


 パチン。立ち上がったミラの右頬をセレーネが手の平で叩いた。


「うるさい。このリングを売られたくなかったら従いなさい」


「行くぞ」


 濡れた金髪から滴る雫が廊下に落ちていく。アーヴィンの後ろを歩きながら、ミラは込み上げる嗚咽を必死に押し殺した。胸を刺すような痛みだけが残っている。


「ここだ。入れ」


 ミラは小さく息を吸い、言われるまま部屋へ入った。

 扉の向こうは、客間とは名ばかりの狭い一室だった。置かれているのは粗末なベッドと小さな机だけ。アーヴィンは何も言わずに扉を閉め、ほどなくして外から鍵のかかる音が響いた。ミラは窓辺へ歩み寄る。外は夕闇が広がり始め、地面まではとても飛び降りられる高さではない。たとえ逃げ出せたとしても、あのリングを置いてはいけなかった。 震える指で濡れた前髪を払い、ベッドへ腰を下ろす。冷え切った服が肌に張りつき、じわじわと体温を奪っていく。


 このままここから出られなければ、もう二度とヴィオラの優しい笑顔を見ることはできない。


 膝を抱えたまま、ミラの瞳から静かに涙がこぼれ落ちた。リングも、ヴィオラも、失ってしまうかもしれない――その恐怖に、胸が締めつけられる。


 窓の向こうでは、沈みゆく夕日が空を淡い橙色に染めていた。


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