10 怪盗と距離
ミラの足は、無意識にルーイのもとへ向かっていた。彼にすぐ話したい、そう思ってしまったのだ。
まだルーイは、執事としてダイニングルームにいるはずだ。廊下を早足で歩く。すると、暗い廊下の端から、目的の姿がこちらへ歩いてくるのが見えた。
「……ミラ?」
ミラに気づいたルーイの金色の瞳が、わずかに見開かれる。
「ルーイさん、少し……話があるの」
「そんなに急いでどうした?俺に早く会いたくて仕方なかったとか?心配しなくても、今夜は例のサファイアを持って部屋に行こうと思ってた」
いつものように軽口を叩くルーイに、ミラは首を振った。その真剣な眼差しに、彼の笑みがすっと消える。
「……何か、あった?」
「……サファイアを、視たの」
頼んでもいないのに、ミラは自ら想晶の記憶を覗いた。その言葉に、ルーイの瞳がわずかに揺れる。協力すると言ったのは嘘ではなかったようだ。
ルーイは短く息を吐き、ミラの肩にそっと手を添えた。
「移動しよう」
小さく頷いたミラの顔には、明らかに動揺の色が浮かんでいた。
二人はルーイの執事室へと向かった。ミラを椅子に座らせ、リアムは壁際に立つ。灯りはつけず、月明かりだけが部屋を淡く照らしていた。
「……落ち着いた?」
「うん……」
動揺するミラにお茶の一つでも出した方がいいのだろうが、簡素な執事室にはそんな気遣いができるものもない。キッチンへ取りに行こうかと一瞬迷ったが、早く話したそうなミラの様子を見て、リアムは思いとどまった。
「サファイア、先に視てくれたんだ?早速協力してくれて嬉しいよ」
「……研究によって生み出されたって聞いて、それが気になって」
「同感。俺も、ミラに視てもらうつもりだった」
それが探している記憶に繋がるかは分からない。
だが、好奇心の方が勝っていた。研究の詳細は知らないとリュシアンは言っていたが、その実態を記憶している可能性があった。
「それで、何を視た?」
「……ところどころ、途切れていて、記憶も短くて。こんなこと、初めてだった」
ミラは言葉を重ねながら、あの断片的な光景を思い返した。
笑い声は確かに響いていたのに、そこには強い想いがなかった。撫でる手は優しいのに、不思議と温度を感じなかった。
「……研究でうまく生成できなかっただけじゃないの?見た目は、大成功だったみたいだけど」
リアムは肩をすくめる。
英雄が、初代皇帝が、絶世の美女が、偉業を成した者が、遺した想晶。
そうした特別な例は別として、今は見た目の美しさだけで価値が決まるものが多い。インクルージョンが多くても、希少な輝きがあれば高値がつく。それが、今の現実だった。
「記憶はただ、撫でられただけなの。温かそうな部屋で……少年の周りに兄弟、かな。何人かいた。ひとりの女性が机にスープを置いていて、親子かもしれないけど、女性の顔はよく見えなかった。みんな笑顔で話していて、その女性が少年を褒めて、頭を撫でたの。少年は……もっと撫でてほしいって、心の中で願ってた」
口を閉じたミラに、話がそこで終わったのだとリアムは理解した。
「もう終わり?そんな想いで、想晶が生まれる研究……」
リアムの率直な言葉に、ミラは小さくうなずいた。あまりにも短すぎる記憶で、何の手がかりにもなりそうにない。
「どんな研究かも、結局わからなかった」
「……まあ、変な研究でもなさそうだし。俺たちには関係ないか」
すでに興味をなくした様子のリアムとは対照的に、ミラの表情は暗い。
「幼い子は、初めての感情が多くて、想晶を生みやすいって言われてるけど……それにしても、強い想いは感じられなかった」
初めてのミルクの味、初めての外の景色、初めて感じる悲しみ、初めての匂い。幼い子供は初めて経験することが多く、感情も素直に表へ現れる。そのため、想晶が生まれやすいというのは、今では広く知られた常識だった。
「その子、感情豊かに育つんじゃないか?撫でられただけで想晶が生まれるなら、将来は安泰だな」
想晶を生みやすく、それを売って裕福に暮らしている平民もいる。
ミラは俯いていた顔を上げ、リアムを真っ直ぐに見つめた。
「でも……もし、これからこういう作られた想晶が増えたら、きっと混ざっていく。自然に生まれた想晶と、見分けがつかなくなる」
「ん? 何か困ることでも?」
混ざったとしても、想晶の見た目の美しさには変わりない。
「作られた想晶は、もう視たくない。温かい記憶のはずなのに、どうして、あんなにも冷たく感じたのか。身体が拒絶してる。」
俯いたミラの声は、かすかに震えていた。
怖かったのだ。感情が伝わってこない、ただのノイズが入った映像。表情も靄がかかったようにぼやけ、温度もスープと日差しで暖かいはずなのに冷たい。
想いのない記憶を『想晶』と呼ぶことに、ミラは拭えない違和感と痛みを覚えた。
リアムは思わず、その頭に手を伸ばし、撫でて慰めそうになった。
「は、……」
───まずい。
リアムは、自分の中に生まれた感情を噛み殺すように、唇を噛んだ。ミラの、この怯えるような表情を───見たくないと思ってしまったのだ。こんなにも苦しそうに感情に飲まれ、まるで自分が体験したようだった。
ミラはただのメイド。ただ視るための道具で、目的のために利用する存在であるはずだった。協力してれると言うからありがたく利用して、それで。
なのに。視せたくない、なんて。
そんなことを思う資格はないのは、分かっていた。それでも、いつの間にか彼女に情が生まれていたらしい。
「……リアム?」
顔を上げたミラは、口を開けたまま止まっているリアムを、不思議そうに見つめた。リアムは、生じた感情を歯で噛み砕くようにして、ぐっと喉の奥へ押し込める。
「……でも、想晶はこれからも視てもらう。目的のためだ、ミラが辛いとか俺には関係ない」
それは、まるで自分に言い聞かせるような呟きだった。
今、シルクハットがあれば顔を隠せたのに。いつもの癖で頭に手をやるが、その手は空を掴む。
「……そうね。貴方は、記憶を探しているだけ。早く見つけなきゃ」
ミラの言葉は静かで、どこか遠い。
伏せられたその顔に、リアムは何も言葉を見つけられなかった。言いたいことは、すべて奥へ押し込んでしまったのだ。
静かに、心の距離だけが離れていく。そんな感覚に、リアムは苛まれていた。
***
晩餐会が終わり招待客達がエレイン邸から立ち去った頃から、ヴィオラの身体が熱を持ち始め、夜が更けるにつれて次第に上がっていった。それに伴い、ミラとルーイの動きも慌ただしくなる。
ルーイの正体が怪盗リアムだと知る以前のように、二人は執事とメイドの関係へと戻ったようだった。業務連絡のみを交わし、慣れた手つきでヴィオラの看病を行う。
寝台の上で、ヴィオラは静かに目を閉じている。白い肌は赤く火照り、呼吸は浅く、額には汗がじんわりと滲んでいた。ミラは枕元で、新しい冷たい布を静かに絞る。その隣でルーイは、記録帳に体温と脈拍を書き留めていた。
ふたりの動きに乱れはない。けれど、どこか空気が重かった。ミラは布をそっとヴィオラの額に当てがいながら、視線を動かさずに口を開いた。
「あとは私がします。ルーイさんは、休んでください」
「ミラも休め。交代だ」
「いえ、私はお嬢様のおそばに」
「ミラ」
呼び止める声が、わずかに低くなる。金色の瞳が、まっすぐミラを捉えた。
「放っておいてください」
声量が大きくなり、ミラは思わず自身の口を手で押さえた。幸い、ヴィオラは固く目を閉じたままだった。
リアムへの怒りをルーイにぶつけてしまったのだと今、ミラは理解した。
ルーイは短く息を吐く。
「君が倒れたら、お嬢様は自分の風邪も忘れて君を案じるだろう」
その一言に、ミラははっと息を呑んだ。声は冷静だったが、ルーイの優しさが垣間見えた気がした。
怪盗として潜入しているにも関わらず、ルーイは執事の業務に対して手を抜かない。ヴィオラの看病はいつも完璧であった。怒りを引きずったままの自分が、情けない。
「……はい。申し訳ございません」
「謝らなくていい。君が、頑張りすぎなだけだ」
声音は穏やかだった。ミラは頭を下げながら、ふと、頭痛がしていたことに気づく。その鈍い痛みさえ忘れてしまうほど、ヴィオラの看病に集中していた。
交代のために来たメイド二人へ引き継ぎを行い、ミラは状況を簡潔に伝える。ルーイは、荒い息を繰り返すヴィオラを見つめながら、滲む汗を静かに拭った。
「先に退室します」
ミラは小さく頭を下げ、ヴィオラの寝室から静かに退室した。
一連の様子を見ていた一人のメイドが、ぽつりと呟いた。
「……ルーイさんに、あんな感情的なミラ初めて見た……」
ミラが何を考えているのか分からない。それが、メイドたちが抱いていたミラへの印象だった。
自分のことはほとんど語らず、口を開けば決まってヴィオラの話ばかり。感情の起伏も少なく、いつも静かに仕事をこなす。
楽観的に物事を考える自分とは、正反対の人だとメイドの女性は思っていた。
「……ルーイさんとミラって、最近、話すようになったんですか?」
「……元々、まったく会話がなかったわけじゃない」
執事の仮面を被りながら、ルーイは答える。
「え?見たことなかったです」
そう言われて、ルーイは少しだけ視線を宙に泳がせた。
確かに思い返してみれば、ミラとの会話など、正体が知られる前はほとんどなかった。
「……ははっ。確かになかったな」
「わっ……」
不意にこぼれたルーイの笑みに、メイドは思わず息を呑んだ。
ミラと同じく普段は感情を表に出さない、冷静な執事。その笑顔は、思いのほか柔らかい。顔立ちが整っているとは思っていたけれど、笑うとこんなにも格好いいなんて。
メイド二人は顔を見合わせる。お互いの頬が、わずかに赤く染まっていた。
「二人とも、あとは頼んだ。何かあれば呼んでくれ」
「はい、ルーイさん」
二人の瞳にハートが浮かんでいるように見えて、ルーイはそれに気づかないふりをして退室した。
ミラと、ほとんど言葉を交わさなかったあの頃に戻ってしまったような感覚。その違和感に名前をつけることを、ルーイは意識的に避けた。
朝の廊下は、まだ人が少ない。窓から差し込む淡い光が、床に細長く伸びていた。
ミラは足早に角を曲がる。その先で、ちょうど執事服の人物がこちらへ向かってくるのが見えた。
「……」
歩幅、姿勢、鮮やかな金の瞳。見慣れたルーイのものだった。
「おはようございます」
先に言葉を発したのは、ミラだった。声はいつも通りを装ったつもりだ。
「……ああ。おはよう」
ルーイの短い返事だけで、それ以上の言葉は続かなかった。
廊下は十分に広く、すれ違うには避ける必要などない距離だった。それでも、すれ違う直前。ミラはわずかに外側へ寄り、同時にルーイも、反対側へ一歩、身を引いた。視線も交わらなかった。
「主治医の先生が、先ほど到着されました」
すれ違う瞬間に、ミラは足を止めず、業務連絡だけを口にする。
「……分かった。お嬢様の寝室へ案内してくれ」
「はい」
ミラはそのまま歩き去る。背中に視線を感じた気がしても、振り返らなかった。




