09 怪盗と研究
「ヴィオラ!お招きありがとうございます。すぐにお会いできて嬉しいです。」
リュシアン・ルクレールは、約束通りエレイン邸を訪れた。小さな晩餐会とあって、ヴァレンティン・エレインは古くからの知人を数人だけ招いている。出迎えたヴィオラは、淡い青のドレスに身を包み、柔らかな笑みを浮かべた。
「せっかくだし、時間まで庭園を散歩しない?」
「ええ、喜んで」
ヴィオラの提案に応じ、リュシアンは優雅に彼女の手を取り、並んで屋敷の庭園へと向かった。
エレイン邸の庭園には白い薔薇が咲き誇り、風に揺れるたび、かすかな香りが漂う。その中を歩く二人の姿は、まるで絵画のようだった。
ゆっくりとした足取りで歩いていると、沈黙を破るようにリュシアンが口を開いた。
「最近、面白い事業を見つけまして」
「事業?」
「ええ。想晶に関する研究で、投資してみようかと思ってます」
「どんな研究なの?」
投資に興味を持ったことはないが、『想晶』という単語に、ヴィオラの興味が湧いた。
「詳しくは、夕食の席でエレイン伯爵にもお話しますね」
穏やかにそう言うリュシアンの声に、ヴィオラは微笑みを返しながらも、わずかに首をかしげた。先日のオークションでもそうだったが、今日のリュシアンも想晶を一つも身につけていない。
研究に投資するほど、想晶に興味が湧いたのなら何故身につけないのだろう。
「想晶は……素晴らしいものですね。理解できました」
「ええ、私もそう思うわ」
二人は目を合わせて、微笑み合った。
ヴィオラは、リュシアンのことを『良い人』だと思っている。貰い手のない虚弱な伯爵令嬢と婚約し、体調を気遣い、手紙も贈り物も欠かさない。会えば優しく笑い、必ず「会えて嬉しい」と言ってくれる。だからこそ、胸を締めつけるのは、彼への罪悪感だった。
リュシアンの笑みがふと消える。彼は近くの白い薔薇に手を伸ばし、指先で花びらを撫でながら口を開いた。
「想晶は、扱い方次第で莫大な利益を生みます。今後の経済を動かす中心になるでしょう」
オークションで、想晶を競り合う貴族たちの姿を目にしたリュシアン。彼にとって、それは富の象徴として映っていた。フェリックス・アルマンのように巨万の富を得られるかもしれない。
「美しさに価値があるのは確かです。けれど、それだけではない。人の心を動かす影響力こそ、真の価値なのです」
「……私は、想いのおかげで美しさがあると思うわ。人の想いの数ほど想晶が生まれるでしょ?」
ヴィオラは静かに首を振った。彼の言う価値が、どうしても寂しく聞こえたのだ。
「世間は想いを重視しません。あの輝きを見て、価値を測るのです」
淡い紫の瞳が、一瞬だけ冷たく光る。ヴィオラは言葉を失い、握ったドレスの裾がわずかに震えた。
少し離れて二人の後ろを歩いていたミラは、胸の奥がざらりとした。言葉は穏やかで優しいのに、どこか温度が違う。ヴィオラが笑顔を作るたび、その笑みが少しだけ苦しそうに見えた。
ミラはただ静かに、白い薔薇が揺れる庭を見つめていた。
***
日が沈み、エレイン邸のダイニングルームには、柔らかな灯りが灯っていた。テーブルには白いクロスが敷かれ、花々が彩を添えている。
招かれた客人たちは笑顔を浮かべ、グラスを掲げた。やがて晩餐会が始まり、食器の音と談笑が柔らかく響く。
「伯爵、こうしてお招きいただき光栄です。エレイン邸の食卓はいつも温かいですね」
「君の頼みなら、いつでも招待しよう」
穏やかな声に、ヴァレンティンも満足げにうなずく。その向かいに座るリュシアンは微笑みを浮かべながらも、薄紫色の瞳の奥にはほんのわずかな緊張を宿していた。こうして伯爵と食卓を囲み、言葉を交わす機会には、まだ慣れていない。それでも今日は、不思議と胸の高鳴りのほうが勝っていた。
「先日のオークション、君も参加していたらしいな。想晶に興味が出てきたのか?」
ヴァレンティンの問いかけに、リュシアンの瞳がぱっと輝きを増した。
「そうなのです。伯爵やヴィオラ嬢の影響もありますが、興味が湧いてからというもの、資料を読み漁り、個展にも足を運びました。調べれば調べるほど、想晶とはなぜ生まれるのか、法則性はあるのか、不思議でたまらなくなってしまって」
「それはぜひ語り合いたいな。調べるほどに未知だろう。法則性があるようでいて、決して単純ではない。人の感情から生まれるものだからこそ、理屈だけでは割り切れんのだ」
ヴァレンティンはワイングラスを軽く揺らしながら、穏やかに微笑む。
「はい。本当に素晴らしいです。どうして今まで興味すら持たなかったのか、自分でも不思議なくらいです。知れば知るほど、もっと知りたいと思ってしまいます」
熱を帯びたリュシアンの声に、ヴァレンティンは目を細めた。そのひたむきな眼差しは、かつて自分が初めて想晶の魅力に触れた頃を思い出させるものだった。
「実は……想晶のことで、お三方にお話ししたいことがありまして」
ワイングラスをそっと置き、リュシアンは真っすぐヴァレンティンを見据えた。その声音には、先ほどまでの穏やかな談笑とは異なる熱が宿っている。
「ほう?」
ヴァレンティンは片眉を上げ、静かに先を促した。
「なにかしら」
穏やかな声を発したのは、リディア・エレインだった。ヴィオラの母であり、若葉色の瞳と美しい銀髪、そして人を安心させる柔らかな笑みは娘によく似ている。彼女もまたヴィオラほどではないものの、生まれつき身体が弱かった。
「最近、とても興味深い『想晶の新しい研究事業』の存在を知りまして。伯爵はご存じでしょうか?」
「聞いたことはないな。どういったものだ?」
その一言で、食卓の空気がわずかに引き締まる。
リュシアンは一度息を整え、慎重に言葉を選びながら語り始めた。
「これまで想晶は、人の想いが偶然結晶化したものと考えられてきました。ですが今、その生成を人為的に管理し、促進する技術が研究されているそうです。もし実現すれば、想晶は偶然に頼るものではなくなり、安定して生み出せる資源となる。芸術だけではなく、産業そのものを大きく変える可能性があります」
「────」
ヴィオラは思わず息を呑んだ。
想晶は偶然だからこそ、美しい。
つい先日、ミラとそんな話を交わしたばかりだった。誰かの想いが自然と形になったからこそ価値がある。その想いまで設計された想晶を、果たして同じものと呼べるのだろうか。
ヴァレンティンはグラスを静かに回し、赤ワインの揺らめきを見つめながら低く呟く。
「……もし実現できるのなら、確かに経済は大きく動くだろうな」
「さすがは伯爵。そのように仰っていただけると思っておりました」
嬉しさを隠しきれない様子で、リュシアンは思わず身を乗り出す。
しかし、ヴァレンティンはゆっくりと首を横に振った。
「だが……研究の実態も理論も見えていない段階では、軽々しく賛同はできん」
穏やかな口調は変わらない。それでも深い青の瞳には、鋭い光が宿っていた。その視線を受け、リュシアンは一瞬言葉を詰まらせる。
「……研究の詳細は、まだ確立されていないため公表されておりません。ただ……試作品はございます。ぜひ、ヴィオラ嬢にお納めいただきたく」
そう言ってリュシアンは懐から小さな箱を取り出した。その瞬間、談笑していた客人たちも思わず声を潜め、食卓の視線が一斉に彼の手元へ集まる。
リュシアンは箱を両手で丁寧に持ち上げ、そのまま隣に座るヴィオラへ差し出した。
「……開けてみてください」
ヴィオラは小さく頷く。静かに蓋を持ち上げた、その瞬間――。
箱の中には、深い海を思わせる鮮烈な青を宿した、大粒の想晶が静かに輝いていた。食卓にいた誰もが思わず言葉を失った。
「これは………こんなに大きなサファイア───」
──子爵家の息子が、到底手にできる物ではない。
ヴィオラは思わず言葉を飲み込んだ。その色は暗すぎず、深く澄んでいる。ただ、透明度は劣っていたが、その大きさはヴィオラが所持しているどのサファイアよりも大きい。
「素敵ね…」
「見事だ……これが、その研究の成果だと?」
リディアとヴァレンティンが感嘆の声を漏らす。
「ええ!まさにその通りです。これほどの想晶が、容易に生み出せるのなら、投資する価値は十分にあるかと」
リュシアンの瞳は、青い光を映して揺れていた。だが、ヴィオラの指先は震えていた。容易に生み出せる、その言葉が耳に重く響いた。
「……どうかされましたか。ヴィオラ?」
「……ぁ、いえ。とても美しいです」
サファイアに視線を落としたままのヴィオラの顔を、リュシアンは心配そうに覗き込んだ。無理やり笑顔を浮かべながらも、ヴィオラの胸は冷えていく。
みんな、この不気味さに気づいていないのだろうか。
周囲の話題は、『作られた想晶』の話で一色となった。グラスを傾ける音、笑い声、熱のこもった議論。その輪の中で、ヴィオラの言葉が次第に減っていく。顔色が少し青ざめていることに気づいたミラは、そっと背後から近づいた。
「……お嬢様、大丈夫ですか?」
「ミラ……少し、吐き気がするの」
控えめに告げたその声は、いつもより細く、かすれていた。胃の不快感がヴィオラを支配する。
ミラはヴァレンティンの元へと歩み寄り、静かに耳打ちする。
「……お嬢様の体調が優れません。お部屋へ戻られた方がよろしいかと」
ヴァレンティンは小さくうなずき、視線で促す。ミラはすぐにヴィオラの元へ戻った。
「お嬢様、部屋に戻りましょう。」
ヴィオラは頷き、離れた場所で話し込んでいたリュシアンに近寄る。
「……リュシアン、ごめんなさい。体調が優れないの。今日は部屋に戻るわ」
「大丈夫ですか? 私のことは気になさらず、ゆっくりお休み下さい。……楽しい時間をありがとうございました」
リュシアン柔らかな声が、ヴィオラの耳に残った。「悪い人ではない」ヴィオラにも、それは分かっている。ただ、価値観が違うだけ。ほんの少し、世界の見方が違うだけなのだ。
「参りましょう、お嬢様」
ミラの支えを借りながら、ヴィオラは静かに席を立った。
寝室に戻ると、ミラが手早く着替えを整える。ヴィオラは深く息を吐き、肩の力を抜いた。胃の不快感は消えていたが、気分は優れない。
「……はぁ。こんなことで体調を崩すなんて。……リュシアンに申し訳ないわ。せっかく素敵な想晶をもらったのに……どこか不気味だと思ってしまうなんて」
ミラは黙って頷き、優しく微笑んだ。
「……ホットミルクをお持ちしましょうか?」
「ううん、いいの。今日はもう寝るわ。……このサファイアは、他のものと一緒に収納しておいて」
「かしこまりました」
布団にくるまった主人を見届けて、ミラはそっと灯りを落とす。微かに開けた窓から、夜風がカーテンを揺らした。
ミラが部屋から退室しようとした瞬間、顔を真っ青にさせたリディアが慌てて入ってきた。
「ヴィオラ!!大丈夫なの?」
「お母様、ご心配をおかけしてごめんなさい」
「心配はさせてね、私が悪いんだから」
いつものように取り乱す母の様子を見て、ヴィオラはミラに視線で退室を促した。
娘を虚弱に産んでしまった自分を、リディアは攻め続けている。そんな母を、ヴィオラは恨んだことはない。
「おやすみなさいませ、お嬢様」
ヴィオラは頷き、静かな呟きが、廊下の闇に溶ける。
隣の衣装室へ足を運び、ミラは小箱を取り出した。月明かりに照らされた深い青、それは、あまりにも整いすぎているが、インクルージョンが美しさの邪魔をしている。
ミラはそっと指先を伸ばす。『研究によって生み出された想晶』もしそれが本当なら、この中にはどんな想いが宿っているのか。
ミラの指先が、サファイアに触れた瞬間。視界が白く染まり、光が一気に流れ込んできた。
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柔らかな陽の光が差し込む……だった。
磨かれた白い床、整えられた花瓶、机の上には……スープ。家族らしき人々が席につき、笑顔で会話を交わしている。けれど、それはまるで、……られた脚本のようだった。
笑い声は確かに響い……るのに、どこか温度がない。
食器の音も、拍手の音も、規則正しく、同じ……ムで繰り返される。
「今日も、よくできましたね」
誰かの声がした。優しく、……な声色。頭を撫でられる、もっともっ……っともっと……ともっと撫で……しい…撫で……でて撫でて撫でて……て撫……。
ひとりの子どもが座っていた。青く光るものを小さな両手で抱きしめる。
できた。
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「なにこれ……」
時々、記憶が途切れるのは初めてだった。しかも短く、強い想いを感じられない。想いを生む『感情』が抜け落ちている。
「頭を、撫でられたかった…?」
少年が願ったのは、ただ「撫でられたい」という小さな想い。その笑顔に、涙の跡があったことに、ミラは気づいてしまった。
サファイアを月に掲げる。光に透かされた想晶の中には、無数のインクルージョンが浮かんでいた。まるで、閉じ込められた傷のようだった。
想晶について、分かっていることは少ない。想いの強さと、大きさや透明度は比例しない。色も種類も法則があるかと思いきや、例外も多い。人の想いとは複雑で、それが結晶化されるのだから当然だろう。
「ただ……こんなにもインクルージョンがあるなんて」
ここまでのものは、見たことがない。
サファイアを収納すると、ミラの足は自然と動き出していた。




