41.花火大会④
「……」
花火の打ち上げが始まってから三十分ほど経っただろうか。
夜空を彩る花火を夢中になって眺めていた茜だったが、ふと微かな頭痛を覚えて顔を曇らせた。あいにく鎮痛薬は持ち合わせていない。
せっかくこんなに近くで迫力のある花火を見られるというのに、つい、目を逸らして顔を俯けてしまう。
大きな音がお腹に響く。少しの不快感がある。音や振動だけではなく、眩しい光や煙の匂いにも刺激を受けすぎて、疲労感を覚えていた
「……茜? 大丈夫ですか?」
ふいに、隣に座る夏癸から心配そうに声をかけられ、茜はそっと顔を上げた。
視線が合った夏癸が、僅かに首を傾げる。
「少し疲れちゃいました?」
花火の合間に優しく問われ、茜は小さく頷いた。
少しだけ不調を感じているが大げさにするほどのことではない。そう思っていることが夏癸もわかってくれているような気がした。
「二人に言って、先に帰らせてもらいましょうか」
「……うん」
夏癸に促されて、茜はそっと、前に座る柚香の肩を叩いた。
柚香だけでなくなずなもこちらも振り向いた。花火の合間に二人に小さな声で囁く。
「柚香ちゃん、なずなちゃん。ごめん、わたし、先に帰るね。ちょっとだけ具合悪くなっちゃって……」
「えっ、大丈夫?」
心配そうな顔をするなずなに、茜はそっと頷いた。
「少し頭が痛くて。でも大したことないから」
「じゃあ、あたしたちも帰ります。ね、なずな?」
「うん。充分楽しんだし、帰りながらでも花火見れるし」
「帰り混まなくていいよね」
「そうそう」
口々に言いつつ、二人は腰を上げた。茜も下駄を履いて立ち上がる。ふらつくようなことはない。
夏癸がレジャーシートを畳み、持っていたトートバッグの中にしまった。
周囲の観覧客の邪魔にならないように気を付けつつ、花火を見物する人々の合間を縫って四人は公園の出口へ向かって歩き出した。
***
花火大会の会場である公園を出て、打ち上げ花火の音を聞きながら帰路を進んでいく。
柚香となずなは時折夜空を見上げるが、茜はほとんど地面ばかりを見ながら歩いていた。三人とも茜のペースに合わせてゆっくりと足を進めてくれる。
「茜、少し水分摂りましょうか」
通りがかりの自販機で夏癸がスポーツドリンクを買ってくれた。
蓋を開けて手渡された五百ミリリットルのペットボトルを受け取る。歩きながら少しだけ口にした瞬間に、喉が渇いていたことを自覚した。
ごくごくと一気に半分近く飲んでしまう。冷たい液体が喉を通り抜けていく。
そういえば、花火を見ている間は水分を摂っていなかった。
「気分が悪かったりしませんか?」
「うん。少しよくなってきたかも……」
心配そうな顔をしている夏癸に頷いてみせて、ペットボトルを手渡した。
実際、花火大会の喧騒から離れると頭痛も治まってきたようだ。
「じゃあ、私こっちだから。茜ちゃん、またね。お大事にね」
会場からはなずなの家が近いので途中で別れる。ちょうど迎えに来ていたのか、なずなの母がこちらに向かって軽く会釈したのが見えた。夏癸が会釈を返し、再び歩き出す。
柚香ともマンションの近くで別れ、夏癸と二人だけで並んで帰路を歩く。
いつのまにか花火の打ち上げは終わったらしく、辺りは静寂に包まれていた。
家まではあと少しの距離だが、夏癸の隣を歩きながら、茜は浴衣の下でそっと膝を擦り合わせた。
(どうしよう……おしっこしたい……)
なずなと別れた辺りからなんとなく尿意を催してはいたが、家まで我慢できるだろうと思っていた。けれど時間の経過とともに予想以上に尿意が強まっていた。先ほど冷たいものを一気に飲んでしまったせいだろうか。
急ぎたいのに足取りが重くなる。ふと視線を上げると、夏癸としっかり目が合う。思わず、茜は口を開いていた。
「あの……コンビニ寄ってもいいですか……?」
「ええ、いいですよ」
おずおずと告げると、夏癸は優しく頷いてくれた。何のためかは、はっきりと言わなくても伝わっている気がする。
家から一番近いコンビニへ立ち寄る。けれど、トイレの前には二人ほど順番を待っている人がいた。どちらも浴衣姿で、きっと茜たちと同じように花火大会からの帰りなのだろう。
どうしよう。並んでいたら我慢できないかもしれない。
茜はそっと、夏癸の浴衣の袂を引いた。
「やっぱり、家まで我慢します……!」
泣きそうな声で告げて、何も買わずにコンビニを出る。
少しでも早く家に帰りたくて、慣れない下駄で必死に足を前に進める。前を押さえることはできない。はやく、はやく。焦りながら、ただひたすらに歩く。早く、トイレに行きたい。
「茜、もう少しですよ」
隣を歩く夏癸が優しく励ましてくれる声に、声を出さずに頷く。
「先に、鍵開けておきますね」
家までほんの僅かの距離になり、夏癸が少しだけ早く歩いていった。家の門扉を開けて、玄関の鍵も開けて茜を迎え入れてくれる。
有難く思いながら下駄を脱ぎ捨てて廊下に上がった茜は、トイレの前を素通りしてその先の浴室へと小さな歩幅で駆けていった。既にじわじわと下着が濡れ始めている。
脱衣所を通り抜け、風呂場のタイルに両足を載せた瞬間、その場で浴衣の裾を持ち上げた。
「は、ぁぁ……」
途端に下着を突き抜ける水流が勢いを増した。
温かな液体が脚を伝い落ちていき、びちゃびちゃと足元で音を立てる。茜は懸命に浴衣を持ち上げて飛沫からも守ろうとしていた。――絶対に、汚したくはないから。
水音は意外とすぐに止み、茜の足元にはうっすらと水溜まりができあがっていた。
(やっちゃった……)
わざと、お風呂場でおもらしをしてしまった。罪悪感に胸が締め付けられる。
――だって、もう、トイレには間に合いそうになかったのだ。浴衣の裾を持ち上げて、下着を下ろして、便器に座るなんて、する余裕がなかった。
廊下もトイレの床も浴衣も汚さないためには、こうするしかないという咄嗟の判断だった。
下着はぐっしょりと濡れてしまったが、浴衣は恐らく汚れていない。
「茜、大丈……夫では、ないみたいですね」
ふと、背後から夏癸の声が聞こえて、茜はびくりと肩を震わせた。
そういえば浴室のドアは開けっ放しにしていた。泣きそうになりながら、肩越しに後ろを振り向く。
「な、夏癸さん……! あの、あの……ごめんなさい……っ」
「謝らなくていいんですよ。よく頑張りましたね」
夏癸は怒ってはいなかった。
「シャワー浴びて、着替えましょうか」
頷きながらも、茜はおずおずと切り出した。
「あの、浴衣脱ぐの、手伝ってもらってもいいですか……?」
「ええ」
いまの状態で、浴衣を汚すことなく一人で脱ぐのは難しい気がする。
夏癸は躊躇うことなく風呂場へ足を踏み入れると、シャワーを手に取って床を軽く洗い流してくれた。それから、茜の後ろに立って優しく声をかける。
「帯、外しますね」
「お願いします……」
夏癸は丁寧に帯を外すと、一度脱衣所の方へ置いてきてくれた。
セパレートになっている浴衣の上衣も彼の手を借りて脱ぎ、裾を持ち上げたままにしていたキャミワンピース状態になった残りも首の方から慎重に脱いでいく。
浴衣をすべて夏癸に手渡し、そっと後ろを振り向く。肌着姿になった茜から、夏癸はさりげなく目を逸らしてくれた。
「浴衣、汚れていないみたいですね」
「ほんと……?」
「ええ。大丈夫ですよ」
浴衣を確認した夏癸が、安心させるようにそう言ってくれる。
少しだけ安堵したものの、結局粗相してしまった恥ずかしさと情けなさは纏わりついている。
「お祭り、来年はもういいかも……」
思わず、ぽつりと零してしまう。
友達と行く夏祭りも楽しかったけれど、それ以上に疲れてしまった。茜の言葉に夏癸も苦笑交じりに頷くと、早くシャワーを浴びるように促して浴室を出て行った。




