第九話 署名した日
契約書を、二人で広げた。
施術の回数と代金。その下に、予約変更や返金についての細かな文字が続いている。
私は商材の使い方なら説明できる。けれど、この契約がどこまで有効なのか、判断する知識はなかった。
「書かれていることは一緒に確認できます。ただ、契約についての判断は、専門の窓口に相談した方がいいと思います」
女性はうなずいた。
指で行を追い、分からないところに印をつける。途中から、ほとんどの行に印がついていた。
「これ、説明してもらいましたか?」
「読んでくださいとは言われました」
女性は署名欄を見た。
「でも、早く書かないと、その日の割引がなくなるって」
私は筆を置いた。
契約した日のことを尋ねると、女性は少しずつ話し始めた。
体験施術のあとだった。着替えようとしたところで、今後のお手入れについて説明があると呼び止められた。
鏡を見せられ、気になる箇所を順番に指摘された。
そのままにしてきた時間が長い。今日から変えた方がいい。
最初は、断ったのだという。
「一度帰って、考えたかったんです」
女性の手が、襟元へ触れた。
紙のガウンを着たまま、説明を聞いていた。服と鞄は別の場所に預けてあった。
帰りたいと伝えるたび、話が最初へ戻った。
「そのたびに、また鏡を渡されて」
私は何も書けなくなった。
女性は机の上を見ていた。今、そこに鏡はない。
「そんなにひどいのかって、だんだん思って」
綺麗になりたかったのだと、昨日も言っていた。
その願いがあれば、どんな勧め方でも受け入れたことになるのだろうか。
女性は契約書の端を押さえた。
「払えば、着替えて帰れると思ったんです」
私は署名を見た。
丁寧な字だった。
*
相談窓口の場所と受付時間を調べ、女性へ渡した。
契約書も、予約票も、そのまま持っていく。どんな説明を受けたかも話せるよう、本人の言葉で短く書き留めてもらった。
女性は紙を鞄へ入れると、立ち上がった。
「今日は、これで帰ります」
「はい」
手入れはしなかった。
それでも、来てもらえてよかったと思った。
扉へ向かう女性の通信魔道具が鳴った。
画面を確かめ、足が止まる。
エデンからだった。
女性はしばらく迷い、私へ画面を向けた。
〈ご相談内容について、改めてご説明いたします。本日、担当者が伺います。〉
「家に来るんでしょうか」
尋ねられても、私には分からなかった。
画面の下に、もう一行表示された。
〈現在ご滞在の店舗で、お待ちください。〉
第9話をお読みいただき、ありがとうございます。
ようやく帰ろうとしたところへ届いた連絡。
リネと彼女の相談は、まだ終わらないようです。
続きもお付き合いいただけたら嬉しいです。




