第十話 お迎え
「こちらにいると、伝えましたか?」
女性は首を横に振った。
予約を変えたいと連絡したとき、私の名前は出した。けれど、今日ここへ来るとは言っていない。
私は魔道具に表示された文面を読み直した。
そのとき、入口の鐘が鳴った。
扉の向こうに、研修の講師が立っていた。
「お時間をいただきます」
講師は店へ入り、私たちの机のそばで立ち止まった。女性は、契約書を鞄へ戻しかけたまま動かなくなった。
「行き違いがあったようですので、直接ご説明に参りました。契約についてのお問い合わせも、当店で承ります」
女性は相談窓口の案内を自分の方へ寄せた。
「まず、別のところで相談したいんです」
「もちろん、ご自由です。ただ、こちらでは契約に基づいて対応しておりますので」
講師は施術日程を並べた書面を差し出した。
「延期については調整できます。残りの施術を無駄になさらないよう、改めて予定を——」
「今日は、予定を決めに来たわけではありません」
女性の声が細くなった。膝の上で指を握っている。
私は講師を見た。
「どこで相談するかは、ご本人の自由のはずです」
「それは承知しています。ですが、専門外の方から不確かな説明を受ければ、かえって混乱されるでしょう」
私は口を閉じた。
「認定も受けていないあなたに責任が取れるのですか?」
女性が書類を鞄へしまい、立ち上がった。
「私、もう帰ります」
「でしたら、店までお送りしましょう。責任者もお待ちしています」
「家に帰りたいんです」
女性が入口へ向かうと、講師が先に扉の前へ回った。
「少しお話をするだけです。せっかくこちらまで伺いましたので」
女性は足を止めた。出口の前に立つ講師を見て、鞄を抱え直す。
私は椅子から立ち上がり、二人へ近づいた。
あのときは、閉まる扉を見ているだけだった。
今、出口を塞がれているのは、私の店のお客様だった。
「通してください」
講師が私へ顔を向けた。
「まだ説明の途中です」
「この方は、帰るとおっしゃっています」
私が取っ手へ手を伸ばすと、講師も同じ取っ手を押さえた。扉を開けようとしても、動かなかった。
私の背後で、女性が声を漏らした。
「ここでも……」
振り返ると、女性は鞄を胸へ引き寄せていた。
「ここでも、帰れないんですか」
その足元から、黒いものが広がった。
床を這い、近くの椅子の脚を包んでいく。女性が後ずさると、黒いものも一緒に動いた。
私は、扉の取っ手を握りしめた。
あの施術室で見たものと、同じだった。




