第十一話 開けてください
黒いものが椅子の脚を這い上がった。
女性もそれに気づき、足元を見た。鞄を抱えたまま後ずさると、黒いものが床から浮き上がり、彼女の身体を覆い始めた。
「何、これ……」
私は女性へ手を伸ばしかけた。
あのときと同じだった。
近づいても届かず、外へ出され、閉まる扉を見ていた。
けれど、今は私が扉の前にいる。
「手を離してください!」
講師が私を見た。
私は取っ手を引いた。講師の手が外れ、扉が開く。
通りを歩いていた人が、店内を見て足を止めた。
「危ないので、店から離れてください!」
人々が道の向こうへ下がるのを確かめ、私は女性へ振り返った。
出口は開いた。
もう、帰れる。
そう伝えようとしたとき、講師の声がした。
「心蝕です。討伐機関を呼んでください」
女性が顔を上げた。
その言葉を聞いた途端、黒いものが肩までせり上がった。
私は新聞の写真を思い出した。
女性も、同じ記事を見ているかもしれない。
「私、何もしていません」
声が震えていた。
「誰も、傷つけていません」
講師が近づくと、女性は椅子へぶつかった。
黒いものが二人の間に広がる。講師は足を止め、店の外へ退いた。
私は女性から少し離れたまま、入口を指した。
「扉は開いています。誰も、そこには立たせません」
女性は出口を見た。
私も、その視線を追った。
明るい通りが見えている。それなのに、女性は動かなかった。
「私、外に出ていいんですか」
黒いものに覆われた自分の腕を見た。
「こんな姿で……」
帰りたいと言っていた人が、今度は外へ出ることを怖がっていた。
扉を開ければ済むと思っていた私は、そこで言葉を失った。
女性は黒いものを払い落とそうとした。指が触れるたび、腕の周りで形が崩れ、また戻る。
私はその手を見て、受付へ向かった。
上着も、衝立もある。けれど、近づけていいのか分からない。
まず、何を望んでいるのか聞かなければ。
「外から見えないように、入口へ目隠しを置きましょう。扉は開けたままにします」
女性は私を見た。
少しして、うなずいた。
私は仕切りに使っている衝立を引き寄せた。出口までの通路を空け、通りから女性の姿が見えない位置に置く。
店の外では、講師が通信魔道具へ話していた。
「発動した場所はこちらです。認定外店舗での対応中に——」
私は衝立を置く手を止めた。
女性が、私を見ている。
ここで講師を追いかければ、この人を一人にする。
私は女性へ向き直った。
「私はここにいます」
そのとき、店の外から講師が呼びかけた。
「リネさん。討伐機関が来るまで、外へ出さないでください」




