第十二話 ここにいてもいい
「リネさん!討伐機関が来るまで、外へ出さないでください」
講師の声に、女性が私を見た。
開けた扉。通路を塞がないように置いた衝立。
それでも、私が入口へ立てば、帰れなくなる。
「私は、出口を塞ぎません」
そう答えると、講師は店の外で眉を寄せた。
「被害が出てからでは遅いんですよ」
被害。
女性の腕を覆う黒いものへ、目が向いた。
触れていいのかも、何が起きるのかも分からない。外へ出れば、通りの人を傷つけるかもしれない。
私は、帰れると伝えたかった。
けれど、帰る道が安全だと約束できるわけではなかった。
女性は鞄を抱え、衝立と私を交互に見ていた。
「私、どうすれば……」
私は入口から離れ、女性の横へ回った。腕を覆うものには触れず、少し距離を空ける。
「今、外へ出るのが怖いですか?」
女性がうなずいた。
「でしたら、ここで待ちましょう」
その顔がこわばった。
「待つって、討伐機関を……?」
私はすぐには答えられなかった。
呼ばれている。それを隠しても、外の話し声は聞こえている。
「はい。でも、まだ誰も傷ついていません。ここで起きたことは、私が伝えます」
私が話せば、この人は守られる。
そんな保証はない。
それでも、今度は何も尋ねられなかったからといって、黙っているつもりはなかった。
女性の膝が曲がった。
床へ座り込もうとしたので、近くの椅子を示した。
「こちらに座れそうですか?」
女性は椅子を見て、首を横に振った。
私は椅子を動かさず、その場でしゃがんだ。女性もゆっくりと床へ座り、鞄を膝に乗せた。
黒いものが、腕から床へ流れ落ちた。
その縁が、私の靴先へ近づく。
踵を引きかけて、止まった。
黒いものは、靴へ届く前に動きを止めた。女性のそばで、薄く広がっている。
触れずにいられる距離を確かめ、私は膝へ手を置いた。
しゃがむと、衝立の向こうが見えなくなった。
開けた扉から入る光だけが、床に細長く伸びていた。
外で、誰かが講師に尋ねている。
言葉までは聞き取れなかった。講師の返事だけが、衝立を越えて届く。
「討伐機関を呼んでいます」
女性の指が、鞄の持ち手を握り直した。
「帰らなきゃ」
小さな声だった。
「こんなことになったら、もう……」
「今すぐ帰らなくても、大丈夫です」
言ってから、私は続けた。
「ここにいてもいいです」
女性の目が、私へ向いた。
返事はなかった。
私は、そのまま待った。
外で声がするたび、女性は衝立へ顔を向ける。そのたびに鞄を抱え直したが、立ち上がろうとはしなかった。
膝の上で握り締めていた持ち手が、少しずつ下がっていく。
やがて、指が一本離れた。
腕を覆う黒いものの向こうに、袖口が見えた。
私はそこを見つめていた。
消えたわけではない。床にも、まだ残っている。
それでも、女性は鞄から片手を離し、膝へ置いた。
私は何も言わず、そばにいた。
*
外から、足音が近づいてきた。
講師が誰かに話しかける。
「こちらです。認定のない店で対応しているうちに――」
私は立ち上がった。
入口に二人の人影があった。一人は年配の男。もう一人は、通信魔道具を持った女性だった。
男が衝立の脇から店内を確かめる。
「怪我人は?」
「いません」
私は答えた。
「この方は、誰も傷つけていません」
男は床の黒いものを見た。剣へ手を伸ばすことはなかった。
そばにいた女性が、私へ視線を向ける。
「討伐機関のひなです」
私は床に座るお客様を振り返った。
膝へ置いていた手が、また鞄を握っていた。
見えていた袖口も、黒いものに覆われている。
ひなは入口で足を止めた。
「中へ入る前に、何があったか聞かせてください」




