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第七十二話 途中までは、本当に

 娘の施術は、明日だったという。


 翌日、私は予約している家を訪ねた。

 先日、アデルの商品を贈った夫人も同席していた。


「施術を受ける前に、お伝えしなければならないことがございます」


 向かいに座った夫人へ、アデルが提供をやめたことを話した。


 二度目に血を抜いたあと、集まりへ出かけたこと。

 帰宅すると疲れを訴え、翌日には、家の階段を上がるのにも侍女の手を借りていたこと。


 娘が施術をやめたいと打ち明けるまで、私は知らなかった。


「血を抜いたことが原因なのですか」


「詳しいことは、改めて診ていただきます。ただ、娘は、もう続けたくないと申しております」


 夫人は、傍らの卓へ目を向けた。

 神殿から届いた案内が置かれていた。


「娘も、アデル様のお話を伺って、楽しみにしていたのです。綺麗になれるうえに、自分の名前がついた商品まで並ぶなんて、と」


 私も、その言葉で喜んだ。

 娘にとって、よい機会になると思った。


「ですが、身体がつらくなるのなら、同じ思いはさせたくありません。明日の予約は取りやめます」


「……申し訳ございません」


「教えていただけて、よかったです。ただ、もう少し早く伺いたかったわ。娘は今朝も、着ていく服を選んでおりましたから」


 夫人は案内を畳んだ。


「アデル様は、どうしてそこまで無理をなさったのかしら」


 答えられなかった。


 集まりで交わすのは、領地や仕事の話だった。

 子供の話になれば、跡継ぎの息子が何を学んでいるか、どのような役目を任せるか。娘の話をする機会は、そう多くなかった。


 その娘が、神殿に認められた。


 家名と肖像の入った案内を、私は何度も見た。

 瓶を見せると、夫人たちは娘を褒めてくれた。


 綺麗なお嬢様ですこと。

 私も使ってみたいわ。

 今度の集まりには、お連れになって。


 誇らしかった。

 本人も聞けば喜ぶと思った。家で私から伝えるより、直接、褒めていただいた方が。


 あの日のアデルは、笑顔を絶やさなかった。

 紹介するたびに丁寧に礼を述べ、尋ねられたことにも答えていた。


 立派に振る舞えるようになったものだと、安堵した。

 いつまでも子供だと思っていた娘に、嫁ぎ先を探すほかにも、人から認められる道を用意できた気がした。私はそれが誇らしかったのだ。


「……私が、自慢したかったのです」


 夫人は黙っていた。


「神殿が認めた娘を、皆様に見ていただきたかった。褒めていただくのが嬉しくて、次々に声を掛けました」


 もし、途中で娘の疲れに気づいていたら。

 私は、すぐに帰っただろうか。


 もう一人だけ、ご挨拶をしてから。


 そう言う自分が、今も浮かんでしまう。


「血を抜いた跡は、残っていらっしゃるんですか?」


 夫人の問いに、顔を上げた。


 娘の顔は何度も見た。

 白くなったと、褒めもした。


 けれど、袖の下を見せてもらったことはなかった。


「……確かめておりません」


「お帰りになったら、確かめてあげてください」


     *


 帰宅すると、アデルは居間にいた。


 私を見ると本を閉じ、長椅子から立ち上がろうとした。


「そのままでいい」


 娘は腰を戻した。


「皆様には、お話しできましたか」


「ああ。明日の施術も、取りやめるそうだ」


「……そうですか」


 それだけ言って、閉じた本へ目を落とす。


「アデル。腕を見せてくれるか」


 娘はすぐには動かなかった。

 それから本を脇へ置き、袖の釦を外した。


「もう、あまり目立ちませんよ」


 差し出された腕に、薄い痣が残っていた。

 その中に、小さな針の跡がいくつもあった。


「二度、受けたんだったな」


「はい」


「そのたびに、何度も針を刺したのか?」


 アデルは自分の腕を見た。


「一本では終わりませんから」


 それから、私にもよく見えるように腕を傾けた。


「前よりは、薄くなりました。ほら。ここだけですから」


 小さい頃にも、こうして腕を差し出されたことがあった。


 兄と庭で遊びたいとせがんだ日だ。

 兄が駆けていくのを追いかけ、石段で転んだ。泣きながら戻ってきた娘の肘には、血が滲んでいた。


 だから、走ってはいけないと言っただろう。


 手当てを受ける娘へ、私はそう言った。

 泣きやむまで待つこともせずに。


 翌朝、アデルは自分から袖をまくってみせた。


 もう痛くないから。

 今日は、お兄様と遊んでもいいですか。


 駄目だと答えた。


 娘の肌に傷が残ることを、私は恐れていた。

 嫁ぐときに、つまらぬことを言われたくなかった。庭で遊ぶことくらい、我慢させれば済むと思っていた。


 あの子は、兄が庭へ出ても、ついていかなくなった。


「お父様?」


 目の前の腕へ、娘の指が触れた。


「服を着ていれば、分かりませんし……痛くもありませんから」


 もう痛くないから。


 あの朝と同じように、私を安心させようとしていた。


 あれほど傷をつけるなと言ってきた。

 なのに、肌が白くなった娘を見て、私は喜んだ。


 血を抜いたあと、腕は痛まなかったか。

 次も受けてよい身体なのか。


 聞きもしないで、人前へ連れ出した。


「すまなかった」


 アデルが顔を上げた。


「……お父様が、謝ることではありません。私がお願いしたんです」


 娘が望んだ。妻も付き添った。神殿が認めた施術だ。


 何度も、その三つを思い浮かべた。

 私だけで決めたことではないと。


「私も、嬉しかったんです。お父様が、皆様に紹介してくださって」


 アデルは笑おうとした。


「あんなに褒めていただいたのは、初めてでしたから」


 知っている。

 お前が嬉しそうだったことを、私はよく覚えている。


 帰りたいとは言わなかった。

 疲れたと言ったのは、家へ着いてからだった。


 娘は、私のために我慢しながら、私の隣に立っていたのだ。


「皆様には、ご迷惑を――」


「それは、私が話す」


 娘の言葉を遮ってしまい、声を落とした。


「私が勧めたんだ。お前が謝りに行くことではない」


 アデルの口が、わずかに開いた。

 何かを言いかけて、やめる。


 やがて、差し出していた腕を引いた。


 釦を留める娘を見ていた。

 白い袖に隠れると、そこに何もないように見えた。


「お父様」


 娘が、小さく呼んだ。


「私、あの集まりは、楽しかったんです」


 顔を上げた娘の目に、涙が溜まっていた。


「途中までは、本当に」


 私は、うなずくことしかできなかった。

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