第六十八話 綺麗になったのに
集まりの前日に、血を取った。
そのことを、鏡の前に座った朝、思い出す人は誰もいなかった。
母が選んでくださった耳飾りが、運ばれてきた。
淡い青の石だった。
髪へ当ててもらい、鏡の中で首を傾ける。頬の白さが、よく分かる。
唇だけが、少し色を失っていた。
付き添いの人が、何も言わずに紅を重ねてくれた。
「こちらにしましょう」
これを着けて、お父様の隣へ立つ。
私の名が付いた品を、皆様に見ていただく。
楽しみにしていた日だった。
支度を終えて立ち上がると、膝の力が遅れてきた。
椅子の背へ、手を戻した。
「お嬢様?」
「裾を、踏みそうになっただけ」
足元を直してもらう間、椅子をつかんでいた。
昨日の施術のあと、いつもより長く休ませていただいた。今朝も、起きるのが少しつらかった。
けれど、鏡の中の私は綺麗だった。
お化粧を重ねなくても、顔が白い。
「アデル。行けるか?」
扉の向こうから、お父様の声がした。
「はい。ただいま」
椅子から手を離した。
今度は、何ともなかった。
*
会場は、香りが重なっていた。
焼き菓子の甘さ。蝋の匂い。近くを通る方の香水。
磨かれた長卓には、銀の燭台と花が並んでいる。
「こちらが、お嬢様の」
お父様が箱を開けるたびに、同じ言葉を聞いた。
瓶を持った奥様が、札と私の顔を見比べる。
「まあ。本当に、よく似ていらっしゃる」
「本人ですからな」
お父様が笑うと、周りの方も笑った。
「神殿の新しい取り組みに協力しておりまして。娘も、皆様のお役に立てればと」
「はい」
奥様は案内へ目を落とされた。
「うちにも届いていましたよ。こちらのお嬢様でしたのね」
「お使いになりましたか?」
「まだですの。どれを選べばよいか、迷ってしまって」
「でしたら、ぜひ娘のものを」
お父様が勧めてくださる。
奥様は私へ微笑んだ。
「ええ。今日、お目にかかれてよかったわ」
背筋が伸びた。
ここへ来る前から、私の顔を見てくださっていた人がいる。
お父様は、次に来た方にも私を紹介した。
名前を呼ばれるたび、少し前へ出る。挨拶をして、品をお見せする。
お父様と二人で、お客様を迎えている。
三人目の方のときだった。
笑っている途中で、息を継ぎたくなった。
話は聞こえている。
返事もできる。
ただ、声が少しずつ、遠くなっていく。
壁際には、椅子が何脚も並んでいた。
あそこまで行って、少し休めば。
「アデル様は、もう何度か受けていらっしゃるの?」
尋ねられ、顔を戻した。
「私は、まだ二度です」
「二度で、そのお肌に?」
奥様が近づいてこられた。
頬を見ていらっしゃる。失礼のないように、顔を上げた。
その方の指輪の石が、やけに眩しかった。
「お若い方には、やはり違いますわね」
「娘も、気に入っているようです」
お父様の声に、うなずいた。
気に入っている。
肌が白くなったことも、私の商品を手に取っていただけることも。
もう少しだけ、ここにいよう。
この方とのお話が終わったら。
*
「アデル。何か食べたか?」
お父様に尋ねられ、首を振った。
「まだです」
「そうか。向こうに用意がある。好きなものを取ってきなさい」
ようやく離れられる。
そう思った自分に、驚いた。
来たくて、連れてきていただいたのに。
皿を受け取り、料理の並ぶ卓へ向かった。
小さなパンに肉を挟んだものや、果物を載せた菓子がある。朝からあまり食べていなかった。空腹のせいで、疲れたのだ。
パンを一つ取ったところで、背後から声を掛けられた。
「アデル様。母の分もお願いしたいのだけれど」
先ほどの奥様だった。
商品の案内にある連絡先をお伝えすると、今度は、いつ届くかと尋ねられた。私には分からない。お店へ確かめていただくようお願いし、礼を言われるまで、その場でお話を伺った。
奥様を見送ると、壁際の椅子には別の方が座っていた。
皿には、小さなパンが一つ載っている。
私は卓のそばで、立ったまま口へ運んだ。
味は、しなかった。
*
帰りの馬車では、お父様がよく話された。
「あの奥方が、ご母堂にも勧めたいそうだ。先ほど、わざわざ言いに来てくださってな」
「私にも、仰っていました」
「そうか。皆、喜んでいたぞ」
窓の外は、もう暗い。
道の継ぎ目を越えるたびに、座席が揺れた。背を預けていたかったけれど、お父様の方へ身体を向けた。
「お前を連れてきてよかった」
その言葉に、疲れたとは言えなくなった。
「私も、ご一緒できて嬉しかったです」
嘘ではなかった。
お父様が、あんなに何度も私を紹介してくださったのは、初めてだった。
家に着くと、玄関の階段が高く見えた。
ドレスの裾を持ち上げる。
一段ずつ上がっていたら、先に扉へ着いたお父様が振り返った。
「どうした?」
「少し、疲れただけです」
「ずっと立っていたからな。今夜は、早く休みなさい」
「はい。おやすみなさいませ」
お父様を見送ってから、付き添いの腕を借りた。
部屋へ戻り、耳飾りを外していただく。
青い石が小皿へ置かれた。
鏡の中の顔は、朝よりも白かった。
綺麗になれた。
お父様にも、喜んでいただけた。
明日は、何の予定もない。
そう確かめてから、寝台へ横になった。
起き上がれるかどうかは、確かめなかった。




