第六十三話 私の名前で
第六十三話 私の名前で
「こちらも、ご自身のお名前で紹介できますよ」
店員の言葉に、私は母を見た。
母は、まだ説明書を読んでいた。
「お母様」
「聞いているわ。まずは、最後までお話を伺いましょう」
分かっている。
けれど、今の返事を聞き逃されたくなかった。
私の名前が付く。
家にある瓶には、クラリス様の名前が結ばれている。お父様が買ってきてくださったものだ。
案内の肖像は綺麗で、頬へなじませるたびに、自分もあの肌へ近づけるような気がした。
肌が明るくなれば、淡い色の服も似合う。
髪をまとめて、首元の開いたドレスも着てみたい。
そのために、今日は来た。
「血を取るのでしょう。身体に負担はありませんか」
母が尋ねた。
「施術のあとは、こちらでお休みいただきます。お母様も、ご一緒にお待ちいただけますよ」
負担があるとも、ないとも、答えてはもらえなかった。
けれど、開いた扉の向こうに、白い寝台が見えた。そばには椅子があり、小卓には花も飾られている。
母がうなずいたので、私も安心した。今日は、そのつもりで予定を空けてある。
店員が別の書面を用意している間に、商品棚から瓶が下げられた。
クラリス様のものだった。一本ずつ盆へ移され、奥へ運ばれていく。
「あちらは、もう売れてしまったんですか?」
店員は受付へ確かめに行き、戻ってきた。
「ほかの貴族様から、まとまったご注文をいただきまして。その分を取り置いております」
「今の分を、全部?」
「はい。お求めになる方が多いものですから」
やっぱり、人気があるんだ。
家では一本を大切に使っている。それを、一度にあれだけ買う方がいらっしゃる。
空いた棚の隣には、別の女性の瓶が並んでいた。
あそこに、私のものも置かれる。
「お嬢様にも、提供者としてお申し込みいただけます」
差し出された紙へ、私から顔を近づけた。
採った血を、商品に使うこと。
名前と肖像を、商品の紹介に使うこと。
「こちらは、施術とは別なのですね」
母が尋ねた。
「はい。施術のみでもお受けいただけます。商品へのご協力は、こちらで確認しております」
母は紙を受け取り、最後まで読んだ。
早く返してほしかったけれど、急かすのは我慢した。
「アデル。あなたは、どうしたい?」
「お願いしたいです」
すぐに答えると、母が笑った。
「そう。では、自分でもきちんと読んでからね」
紙を戻してもらい、最初から読み返した。
血を使うことも、名前が出ることも、分かっている。
家にあるクラリス様の瓶を、気味が悪いと思ったことはなかった。
選ばれた方だけが分けてくださる、特別なものだった。
「肖像は、今日撮っていただけるんですか?」
「施術のあと、お休みいただいてからです。気に入ったものを選んでいただけますよ」
朝、母と選んだ服を見下ろした。
もう少し華やかなものにすればよかった。けれど、綺麗になった肌を見ていただくなら、この色でよかった。
筆を取り、名前を書く。
普段より丁寧に、最後まで。
「よろしくお願いします」
*
施術を終えて鏡を渡されたとき、最初に思ったのは、部屋が明るいからではないかということだった。
顔を少し横へ向ける。
窓からの光を避けても、頬が白い。
「お母様」
「ええ。分かるわ」
母も鏡をのぞき込んだ。
「いつもより、白く見えるわね」
嬉しくて、もう一度正面を向いた。
今朝、家で見た顔とは違う。帰ったら、自分の鏡でも確かめたかった。
針は何度か刺し直されたけれど、痛みは、思っていたほどではなかった。
「少し、起き上がれますか?」
店員に尋ねられ、寝台へ手をついた。
身体を起こした途端、目の前が暗くなった。
鏡を持つ腕を支えられた。
「アデル?」
母の声が近くなる。
「大丈夫。少し、くらっとしただけ」
横になると、すぐに部屋が戻ってきた。
天井も、母の顔も、はっきり見える。
指先だけが冷たかったけれど、気にしないことにした。
驚かせてしまった。
母はもう、私の頬を褒めてくれたときの顔ではなかった。
「もう少し、お休みになりましょう」
店員が、薄い掛け物を胸元まで引き上げてくれた。
言われた通り、しばらく目を閉じた。
母がそばにいる。帰りも馬車なのだから、急いで起きなくていい。
ただ、肖像を撮る前には、髪を直さなければ。
寝ていたせいで、後ろが潰れてしまった。
「……撮影は、まだしていただけますか?」
「ええ。ご気分が落ち着いてからにしましょう」
よかった。
鏡を、もう一度借りた。
横になったままでは見づらかったけれど、頬は白かった。
お父様にも、早く見せたい。
私の名前の商品は、今日のうちには持ち帰れない。けれど、作っていただけることは、お話しできる。
「お母様。お父様には、私から言ってもいい?」
母は少し困ったように笑ってから、うなずいた。
「ええ。今は、休んでいなさい」
私は鏡を返した。
帰ってから話す言葉は、もう決まっていた。
お父様。今度は、私が選ばれたんです。




