第五十七話 神殿の人間
「聖女様がお呼びです」
そう告げられて、思い当たることは一つだけだった。
今朝のリネさんの店だ。
あの店主は、私が何を言っても身構えていた。
犯罪者でも見るような目で、私を拒んだ。
お二人はもう落ち着いておられると伝えれば、少しは安心してもらえると思っていたのに、返ってきたのは、聖女様に相談している、の一点張りだった。
戸口に立っていただけだ。
聖女認定店とはいえ、私が入ってはならない店ではない。
それを、わざわざ聖女様へ連絡したのだろう。神殿へ戻るなり、私は呼びつけられた。
「失礼いたします」
部屋では、聖女様がすでに椅子に掛けておられた。
そばには側仕えの女性が一人、控えていた。
「リネさんのことでしょうか」
「ええ。ご本人から、連絡がありました」
やはり。それなら、説明のしようはある。
誤解があるのなら、解けばいい。私は、そういう仕事をしてきた。
「今朝、お店へ伺いました。マルタさんから、リネさんも苦しんでおられるとお聞きしまして」
「それで?」
「お話を伺おうとしたのですが、なかなか信用していただけず。聖女様から一言、勧めていただけましたら」
聖女様は、黙って私を見ておられた。
言葉が足りなかっただろうか。
まだ、私が何をしてきたかまでは、伝わっていないのかもしれない。
「セラさんもマルタさんも、今は安心して暮らしておられます。お二人の間には、行き違いもあったようですが――」
「謝っていなかったそうね」
「……つらい出来事ですから。すべてを、すぐに思い出せるとは限りません」
「あなたと話したら、思い出した」
「はい」
「便利ね」
思わず、笑みが浮かんだ。
「お役に立てるのでしたら、私も――」
「謝っていない人に謝らせるより、ずっと簡単だもの」
続けようとした言葉が、喉で止まった。
聖女様は微笑んでおられた。
冗談として返せばいいのか。それとも、誰かに余計なことを吹き込まれたのか。
「私は、お二人のお話を聞いたまでです」
「ええ。そういうことにしておきましょう」
そういうこと、とは何だ。
話を聞くつもりもなく呼びつけて、私に何を言わせたい。
ここへ来るまでに用意してきた説明が、急に馬鹿らしくなった。
目の前の方は、初めから、私の返事など必要としていない。
「リネさんにもお話を伺えれば、ご理解いただけると思います」
「また、リネさん?」
「ですから、聖女様からお勧めいただければと」
「あなたを呼んだのは、私です」
声は静かだった。
それなのに、言い返そうとした口が止まった。
「私がいつ、あの方をあなたに任せると言ったの?」
任せていただかなければならない理由など、あるものか。
相談してきたのはマルタさんだ。私は頼まれて、あの店へ出向いた。それを、勝手なことをしたように言われる筋合いはない。
「私の相談室は、枢機卿様がご用意くださったものです」
聖女様の目を見て、はっきりと伝えた。
「私の務めにご不審がおありでしたら、あの方へお尋ねください」
聖女様が笑った。
それなら、この話は終わりだ。
そう思って頭を下げかけた私に、まだ笑いを含んだ声が降ってきた。
「叱られたら、すぐにあの方のお名前を出すのね」
顔が熱くなった。
「……私は、叱責を受けるようなことはしておりません」
「そう?」
聖女様は、そばの女性へ手を向けた。
「では、少しお話を聞かせていただこうかしら」
側仕えの女性が、私の横へ来た。
足音が、しなかった。
「何をなさるのですか」
「あなたも、お話を聞くだけなのでしょう?」
聖女様は、まだ笑っておられた。
「必要ありません。私は――」
肩へ、手が置かれた。
断っているのが分からないのか。
払いのけようとして、私は動きを止めた。
妻の声がした。
何と言ったのか、聞き取れなかった。
聖女様が話しておられる。少し、黙っていてほしかった。今、向こうから聞こえた声を、もう一度聞きたい。
いつも、私を呼ぶときは――。
続きが分かった。
聞こえるより先に、どんな声で呼ばれるのかを思い出した。
返事をしようと、口を開いた。
もう、返事をする相手はいない。
妻は死んだ。
娘と一緒に、あの家で。
「……やめてください」
肩に置かれた手をつかんだ。
声を聞きたかった。
それだけだ。あの日のことまで、思い出したかったわけではない。
なのに、玄関の取っ手が浮かぶ。
出掛ける前に、何度も引いた。窓の留め具も確かめた。妻に呆れられて、それでも、もう一度だけ。
ちゃんと閉めた。
そこから先を考えてはいけない。
帰ったとき、あの家がどうなっていたかを。
「やめてください!」
女の手を外そうとした。
なのに、力がうまく入らない。
あの夢が、また始まる。
聖女様が何かを話しかけているはずなのに、聞き取れない。
声が水の底へ沈むように、遠のいていく。
いつの間にか閉じていた目を開けると、私の目の前に扉があった。
あのとき、閉めたはずの扉だった。
玄関の灯りは、小さく絞られていた。窓の外は、墨を流したように暗い。
廊下の奥の居間から、蝋燭の橙が揺れて、床へ細く伸びていた。生クリームと焼いた生地の、甘い匂いがした。二人で歌っていた誕生日の歌が、途中で途切れていた。
もう一度、確かめたい。
今なら、まだ間に合う。鍵を掛け直して、二人に、誰が来ても開けないように言えばいい。
「扉も、窓も……閉めた」
椅子を押しのけて立ち上がった。
「しっかり確かめたはずなんだ。三回……三回、確かめた」
閉まっている扉の前に、誰かが立っていた。
灯りを背にして、顔は見えない。靴の先だけが、床に浮かんでいた。
知らない男だ。
家の中にいる。
背後で、娘が私を呼んだ。
居間の方から、靴下の足音が、ぱたぱたと廊下を駆けてきた。
振り返って抱き上げたかった。
その顔を見たかった。
だが、目の前の男から、目を離せない。
「なぜ、家の中にいる……」
私が閉めた。
私が確かめた。
それなのに、どうして二人が。
「子供には触るな!」
両腕を広げた。
今度こそ、私が前に立つ。
「下がって」
背後へ手を伸ばした。
娘が、握ってくれるのを待った。
早く。
いつものように、指をつかんでくれればいい。
その手に触れる前に、男が動いた。
押し返そうとした腕が空を切り、膝が床へ落ちた。床の冷たさが、掌に伝わった。
立ち上がろうとしても、息ばかりが漏れた。
娘の悲鳴がした。
「やめろ!」
何をされている。
見なければ。顔を上げて、あの男を止めなければ。
だが、見たら、もう取り返しがつかなくなる気がした。
床へ手を伸ばした。
ここへ来てくれれば、抱き寄せられる。まだ、私の腕は動く。
居間の橙が、ひとつ、またひとつと消えていく。
吹き消すはずの火が、誰にも吹かれないまま。
甘い匂いも、いつの間にか消えていた。
「おいで……」
指の先に、誰も来なかった。
「お願いだ……」
「ルチア。もういいわ」
女の声だった。
娘を呼ぼうとした口から、ひゅっと息が漏れた。
明るい床が見えた。蝋燭の橙ではない、昼の光だった。
私の伸ばした手は、女の手首をつかんでいた。
顔を上げると、あの側仕えが立っていた。
娘は。
振り返った。
椅子が倒れている。壁際にも、机の下にも、誰もいない。
また、いなくなった。
分かっている。もとから、この部屋にはいなかった。
それでも、さっきまで背後にいた。私を呼んだ。今度は、手が届くところに。
「忘れたら、幸せになれるって……」
聖女様が、こちらを見ておられた。
「そう言ったのは、あなたたちでしょう!」
楽になった。
朝、目を覚ましても、しばらく二人のことを考えずにいられた。食事も、仕事もできるようになった。
どうして戻した。
忘れるまでに、どれほどかかったと思っている。
「……何が目的ですか」
「リネさんのお店へは、二度と行かないでください」
あの店へ行ったことなど、今はどうでもよかった。
うなずいた。それで済むなら、何度でも。
「その手を離しなさい」
言われて、まだ女の腕を握っていることに気づいた。
指を離すと、女はすぐに袖を下ろした。私の手は、宙に残った。
「座りなさい」
倒れた椅子を起こした。
腰を下ろしても、娘の声が耳から離れなかった。
最後に聞いた声ではない。
二人が何を言ったのか、私は知らない。それなのに、夢の中ではいつも、娘は私を責めた。
助けてくれと。
痛いと。
どうして来てくれないのかと。
「……楽になりたい」
もう、聞きたくない。
さっきは聞きたいと思った。もう一度呼んでほしいと、返事までしようとした。
だが、声だけでは戻ってきてくれない。二人を思い出せば、あの家も、帰ったあとのことも、全部ついてくる。
嫌だ。
膝の上で、手を握った。
嫌だ。もう一度、あれを抱えて暮らすのは。
身体の奥から魔力があふれ、腕を、胸を包んでいった。
息が、少しずつ楽になった。
何かを考えていた。
とても大切なことだった気がする。忘れないうちに、もう一度――。
何を?
私は、膝の上の手を開いた。
法衣がひどく乱れている。裾を直すと、聖女様の声がした。
「……そうやって、また閉じ込めるのね」
「何がでしょう?」
お顔を見ても、何のお話か分からなかった。
そばの女性へ助けを求めようとして、息が詰まった。
近づいてほしくない。
失礼なことを考えてしまった。
何かをされた覚えもないのに、汗が止まらない。
「申し訳ありません。少し、気分が……」
「ええ。今日はお疲れでしょう」
聖女様は、穏やかにおっしゃった。
「落ち着かれたら、今後のお仕事についてお話ししましょう」
「……私の仕事、ですか」
「ええ。あなたにお願いしたいことがあるの」
何のために呼ばれたのかも、思い出せなかった。
もう一度ご説明いただくのは申し訳なかったが、聖女様は、優しく微笑んでくださった。
その微笑みの意味を、私は知らない。




