第五十三話 謝っていない人
「マルタさん。あのときは、ごめんなさい」
仕事帰りに来たセラさんが、入口で頭を下げた。
「大嫌いだなんて……ひどいことを言いました」
マルタさんは受付から出かけたまま、立ち止まった。
私は、まだ取っ手を持っていた。
直接お話しできませんか。
電話のあと、私からお願いした。マルタさんにも伝え、閉店後に三人で会うことになった。
でも、セラさんが謝るとは思っていなかった。
謝らなくていい。
そう言いかけて、マルタさんがいることを思い出した。
大嫌いだと言われたのは、私ではない。あのあともここで働きたいと、泣きながら話してくれた人の前で、私が答えていいことではなかった。
「こちらへ、どうぞ」
扉を閉め、奥の席へ案内した。
セラさんは鞄を置き、隣の椅子を少し引いた。
「マルタさんも」
前は、商品に触れてほしくないと言った。
今は、自分の隣へ座るよう勧めている。
マルタさんは、椅子の背へ手を掛けた。
「……私から、お詫びをさせてください」
「もう、いいんです」
セラさんが顔を上げた。
「ちゃんと伝わっていますから。今日は、私が謝りたくて」
「いえ。まだ、何も……」
「お電話で、リネさんにも伺いました。でも、私、覚えていますよ」
声が少し硬くなった。
私が何か言うより先に、マルタさんが首を振った。
「あの日は、本当に何も言えなかったんです。セラさんがお帰りになってから、私……」
「だから、もう一度謝らなきゃと思ってくださったんでしょう?」
マルタさんは、口を開けたままセラさんを見ていた。
「もう、分かっています。それより、座ってください」
セラさんが隣の席へ手を向けた。
マルタさんは、それ以上言わずに座った。
私も、二人の向かいへ腰を下ろす。
マルタさんは今、謝ろうとしていた。
取材では話せなかったことを、今度はセラさんへ直接伝えようとしている。
最後まで聞いてほしい。
今の言葉は、まだ途中だった。
けれど、セラさんは穏やかに待っている。何も言えなくなったマルタさんを、急かそうともしない。
それが親切だと分かるから、私は言い出しにくかった。
「セラさん」
「はい」
「私たちには、謝罪のお話をした覚えがないんです。それなのに、謝っていただくのは……」
「でも、私が言ったことも消えませんから」
セラさんは、隣へ顔を向けた。
「ここで学び直したいと仰っていたのに。前向きなのね、なんて、嫌な言い方をしました」
そこは、覚えている。
言われたマルタさんが、何も返せなかったことも。
全部違うわけではない。
あの場にいた人の話だった。
「帰ったあとも、腹が立っていたんです」
セラさんが続けた。
「仕事中なのに、何度も思い出して。あの人は、また同じ仕事ができるのにって。そう考えていたら、目の前のことまで手につかなくなってしまって」
鞄から、小さな布を取り出した。
握ったまま、一度、言葉を切る。
「今の仕事を、辞めるわけにもいきません。せっかく紹介していただいたのに。ちゃんと働かなきゃいけないのに、また間違えてしまったらと思うと……」
マルタさんは、顔を上げていた。
「それで、神殿へ相談に行きました。もう、あの人のことを考えたくないって」
セラさんはマルタさんを見て、困ったように笑った。
「ごめんなさい。あなたの前で、こんなこと」
「……いえ」
「でも、お話ししているうちに、思い出したんです。ちゃんと謝ってくださっていたこと。リネさんも一緒に聞いてくださっていたのに、私は、嫌なことばかり思い返していたんだって」
私は、二人を見た。
セラさんは布を畳み直し、鞄へしまおうとしていた。
相談に行く前には、あの日のことを考えて仕事を間違えた。
そのあとで、謝罪を思い出した。
「そのときに、初めて思い出されたんですか?」
「はい。思い出したら、楽になりました。今は仕事中に考え込むことも減って」
セラさんが、小さく息をついた。
「前の仕事には戻れません。でも、今の仕事まで失いたくないんです」
よかった、と言いたかった。
新しい仕事が決まったと聞いたときと、同じように。
今の仕事を失わずに済む。それは、この人にとって大事なことだ。
あの日の話をするために、仕事中まで苦しかった気持ちを、もう一度ここへ連れ戻してほしいわけではない。
でも、あのときも、私は仕事が決まっただけで安心してしまった。
何を失ったまま働いているかも知らずに。
今度は、笑っているから。それだけで、よかったと言おうとしている。
そう思うと、用意しかけた言葉を続けられなかった。
「マルタさん」
セラさんが呼んだ。
「あの日、私が言ったこと、許してくださらない?」
マルタさんが私を見た。
私に聞かれても、答えられなかった。
嫌われていることを受け止めようとしていた人が、その相手から許してほしいと言われている。
「私が、許すなんて……」
「では、もう、お互いに何度も謝るのはやめませんか」
セラさんは、マルタさんの手へそっと触れた。
マルタさんは、手を引かなかった。
商品を包もうとして止められた、あの手だった。
「これからも、こちらでお手入れをお願いしていいですか?」
今度は、私に尋ねた。
ここにマルタさんがいても、この人は来てくれる。
もう、どちらが受付に出るかを気にしなくてもいい。
次の来店を知らせる連絡に、名前を書きかけて消すこともない。
ほっとした。
先に浮かんだのは、そんな私の都合だった。
マルタさんも、うれしいの。
顔を見ようとしたけれど、彼女は触れられた手を見つめたままだった。
このまま、次の予約を取ってしまえば。
セラさんはお手入れに来て、マルタさんは商品を用意する。少しずつ話せるようになって、いつか本当に笑い合える日も来る。
そうなってほしかった。
でも、マルタさんは、さっき言いかけたお詫びをまだ言えていない。
私が覚えているあの夜には、謝れなかったと泣いた彼女がいる。
あれまで、もう済んだことにしてしまうの。
「……はい。お手入れは、これからも」
セラさんが笑った。
その顔を見て、続けるのが怖くなった。
でも、聞かなければ。
「神殿では、どなたにご相談されたんですか?」
「相談室の方です。仕事のあとでも伺えるので、助かりました」
セラさんは、マルタさんへも顔を向けた。
「とてもよく聞いてくださるんです。ご紹介しましょうか?」
マルタさんが、顔を上げた。




