第四十九話 帰してあげれば
「……私、ここにいていいんでしょうか」
リネさんは、すぐには答えなかった。
ここにいていい。
明日も来てください。
そう言ってくれたら、片付けに戻るつもりだった。今日も教えていただいたことを手帳へ書いて、明日は間違えないように読み返してから眠る。そのつもりで、聞いたのに。
「私がいると、また、今日みたいなことに……」
「来ていただく前にお伝えしなかったのは、私です」
「でも、あの人が嫌っているのは、私なんです」
リネさんが黙った。
こんな言い方をしたかったのではない。
雇ってくれた人を、困らせたいわけでもなかった。
「……すみません」
それでも、ここにいていいとは言ってもらえなかった。
*
『私、あなたのことが大嫌いなの』
セラさんの声が、何度も聞こえる。
嫌われていることは知っていた。
私がしたことを、忘れてもらえるとも思っていなかった。
でも、実際に顔を見て言われると、何も返せなかった。
商品へ伸ばした手さえ、引っ込めるしかなかった。
いつも私が包んでいるものなのに。
そんなことを思った自分が嫌で、それでも、胸の奥が熱かった。
私だって、仕事を失った。
顔を知られ、知らない人にまで見られるようになった。働き先を探していると話せば、それまで聞いてくれていた人の顔が変わった。
雇ってもらえない理由を尋ねなくても、分かった。
あの店で、言われた通りに働いていたのに。
教えられた施術を、教えられた言葉で勧めていたのに。
私だけで決めたことではなかった。
ほかの講師も、同じことを教えていた。
なのに、私があそこにいた。
セラさんの前に立っていたのは、私だった。
『人を傷つけておきながら、前向きなのね』
では、どうすればよかったの。
働かずに、ずっと俯いていればよかったの。
もう一度この仕事をしたいと、思ってはいけなかったの。
食べなければいけない。
住む場所にも、お金がいる。
リネさんに雇っていただけて、ほっとした。
それから、覚えることがたくさんあると分かった。
分からないことを聞くだけでも、怖かった。こんなことも知らずに講師をしていたのかと、思われそうだったから。
でも、聞いた。
以前のメモには線を引いた。
ずっと正しいと信じて、人にも教えてきた言葉を、自分の手で消した。
何もしていなかったわけではない。
ただ、雇ってもらって安心していたわけではない。
そのことだけでも、分かってほしかった。
少しは変わったと、思ってほしかった。
『私は、前の仕事にも戻れないのに』
あの人も、働いている。
望んでいた仕事ではないと言った。
生きていくためには、働かなくちゃいけないと。
私と同じことを、言った。
新しい仕事が決まったと聞いたとき、私もほっとした。
よかったと思った。
あの人も、少しずつ元の暮らしへ戻っていくのだと思っていた。
戻れていなかった。
私は、施術をするために勉強している。
お客様の前へ出られるようになりたくて、リネさんの説明を書き留めている。
それが、私のしたいことだから。
セラさんのしたかった仕事は、何だったの。
ここへ来る前、どこで、どんなふうに働いていたの。
あの日も、早く帰らなければいけない理由があったの。
私は、何も知らない。
肌のことを相談しに来た人だった。
用意された施術を勧めて、契約していただく。それが私の仕事だった。
帰りたいと言われても、まだ説明が終わっていないと思った。
あの人の仕事が、そのあとどうなったかなんて。
*
「マルタさん。残りは、私が片付けます」
「……できます」
リネさんの声に答えた途端、喉が詰まった。
「できますから」
仕事まで取り上げられたくなかった。
片付けくらい、させてほしかった。
リネさんは、私を見ていた。
何か言わなければと思った。このままでは、何もできなくなったと思われてしまう。
「学び直したいって、言いました」
「はい」
「本当に、そう思っているんです」
リネさんが頷く。
聞いてくれる。
セラさんには言えなかったことも、この人なら。
「ただ、雇ってもらえたらいいわけじゃなくて……ちゃんと、できるようになりたいんです」
毎日見てくれている。
何を聞いて、何を覚えたかも、リネさんは知っている。
この人にだけは、分かっていてほしかった。
「私……前とは、違うんです」
言ってから、鞄の手帳が目に入った。
帰りたいと言われたら、引き止めない。
そう書いた。
教わって、忘れないように、自分で書いた。
セラさんも、帰りたいと言った。
扉の前まで来ていた。
取っ手へ伸びた手より先に、私は扉へ手をついた。
まだ説明が終わっていません。
責任者を呼んできますから、お待ちください。
あの人は、私を見ていた。
帰りたいと、もう一度言った。
聞こえていた。
何を言われているかも、分かっていた。
でも、責任者に叱られるのが怖かった。
契約をやめられたら、私が何を言われるかばかり考えていた。
あの人は、ただ帰りたかっただけなのに。
「……帰してあげれば、よかった」
声にすると、あの扉が浮かんだ。
私が手を離せば、開いた。
セラさんは、自分で開けようとしていた。
「叱られても……帰してあげれば……」
息が吸えなかった。
口を閉じても、喉から声が漏れた。
差し出された布を顔へ押し当てる。
リネさんが何か言ってくれたけれど、うまく聞き取れなかった。
違う。
こんなふうに泣いて、慰めてもらいたかったのではない。
ここにいていいと、言ってほしかった。
今は頑張っていると、分かってほしかっただけだった。
「私が……あそこに、立っていなければ……」
取っ手へ伸びた手を、覚えている。
あの人が帰れなくなったのは、私が、その前に立ったからだ。
あの人を帰せる日は、もう来ない。




