第四十八話 ここにいる人
〈買い足すだけでも、伺っていいですか?〉
魔道具にセラさんからの連絡が入った。
前にお渡ししたものが、そろそろなくなるという。
私は棚から瓶を取り、残っている量を伺う返事を書いた。
〈今使っているものも、お持ちいただけますか。ご相談があれば、お時間をお取りします。〉
〈ありがとうございます。今回は、品物だけで大丈夫です。仕事の帰りに寄ります。〉
仕事の帰り。
前に会ったとき、新しい仕事が決まったと喜んでいた。
少しは慣れただろうか。今度来てくださったら、聞いてみたい。
返信欄を開いた。
〈先に、お伝えしておきたいことがあります。〉
そこまで書いて、奥へ目を向けた。
マルタさんが、洗った器を拭いている。
布を替え、縁に水が残っていないか確かめてから、棚へ戻した。
この店で働いていることを、セラさんは知らない。
伝えなければ。
働いていることは隠さず、予約の前に知らせる。お客様が帰ったあの日、私がそう決めた。
今回も、同じように連絡すればいい。
マルタさんの名前を打った。
あの人がこの文字を見たとき、どんな顔をするかと思うと、指が止まった。
来るのをやめてしまうかもしれない。
この店へも、もう来たくないと言われるかもしれない。
セラさんは、こちらで手入れを受けたいと戻ってきてくれた。
商品も、続けて使ってくれている。
今度は、品物を渡すだけ。
私が応対すればいい。
ほかのお客様には、そう考えずに伝えた。取り消された予約もあった。
でも、セラさんは、もう一度ここへ来たいと言ってくれた。あの人からまで、行くのはやめますと返ってくるのを見たくなかった。
受付には、私が出ればいい。買い物が終わるまで、私がお話を伺えば。
書きかけた文章を消した。
〈ご用意して、お待ちしております。〉
送信すると、ほどなく返事が来た。
〈楽しみにしています。〉
私は瓶へ札をつけ、受付の下へ取り置いた。
*
夕方、入口の鐘が鳴った。
「私が出ます」
洗った道具から手を離し、布を取った。
けれど、マルタさんはもう受付へ向かっていた。
「いらっしゃいませ」
そのあとが、静かだった。
顔を上げると、セラさんが入口に立っていた。
片手は、まだ扉の取っ手に掛かっている。
「なんで、あなたがここに?」
マルタさんが、受付の机から手を離した。
「講師を辞めてから……」
「知ってます」
言葉が止まった。
私は、濡れた指を布へ押しつけたまま、二人へ近づいた。
「リネさん」
セラさんの顔が、こちらへ向いた。
「この人、ここで働いているんですか?」
「……はい」
入口から見れば、マルタさんは店員だった。
この店の上着を着て、私と同じ棚の商品を扱っている。
「私が何をされたか、知ってるじゃないですか」
セラさんの手が、取っ手から離れた。
「なんで、この人を」
「来ていただく前に、お伝えするべきでした。申し訳ありません」
セラさんは私を見ていた。
私が応対すればいい。
そう考えていたことまで、言えなかった。
「……そうですか」
セラさんは鞄を持ち直した。
帰ってしまうと思い、私は受付の下から瓶を取り出した。
「こちら、ご用意しています」
差し出しかけて、手を止めた。
品物さえ渡せば、この場を終えられる。
そんなことを、また考えた。
セラさんの目が、瓶へ落ちた。
「……おいくらでしたっけ」
私は値段を伝えた。
財布が開かれ、硬貨が一枚ずつ机へ置かれる。
いつもと同じ会計のはずだった。
私も、いつもの袋を取った。
マルタさんが包み紙へ手を伸ばす。
「触らないでください」
その手が止まった。
「商品は、リネさんから受け取りたいです」
「……はい」
マルタさんは、受付から一歩下がった。
私は瓶を引き寄せ、紙で包んだ。
折り目をつける音が、大きく聞こえた。
「マルタさん」
セラさんが呼んだ。
「私、あなたのことが大嫌いなの」
紙を押さえていた指が止まった。
「辞めさせられたって聞いたときは、気になりました。私が話したからかなって。でも、顔を見たいとは、一度も思わなかった」
マルタさんは俯いた。
顔を知られ、仕事も失った。
働くためにこの店へ来たときには、ほかに雇ってくれる店を探していた。
ここでは、毎日手帳を開いている。
分からないことを聞き、同じ説明を何度も確かめる。
そのことを、セラさんにも話したくなった。
けれど、セラさんは、マルタさんが何をしているかを尋ねに来たのではない。
「……ねえ。ここで、何をしたくて働いているんですか?」
マルタさんが顔を上げた。
「お客様の肌を見て、必要なことを考えられるように、なりたいです」
「前は、考えていなかったんですか?」
マルタさんの口が開いた。
一度閉じ、もう一度、声を出した。
「決められた施術を、受けていただくことを先に考えていました」
「私が帰りたいって言っても?」
「……はい」
セラさんが、うなずいた。
「そうでしたね」
私の手元には、包みかけた商品があった。
あと一か所、紙を折れば終わる。
それなのに、手を動かせなかった。
「だから、こちらで学び直したいと……思っています」
マルタさんは言った。
セラさんは、しばらくその顔を見ていた。
「人を傷つけておきながら、前向きなのね」
*
マルタさんは、何も言わなかった。
セラさんが財布へ目を落とした。
閉じようとして、まだ釣り銭を受け取っていないことに気づいたらしい。机の端へ置き直した。
「私、前の仕事に行けなくなったんです。心蝕暴走を起こしてから。神殿で仕事を紹介していただけたので、今は働いていますけど」
「……はい」
セラさんの指が、財布の縁をなぞった。
「でも、私がしたい仕事とは違うんです。生きていくためには、働かなくちゃいけないですから」
新しい仕事が決まったと聞いて、私は喜んだ。
それで生活が戻ったように思っていた。
「あなたは、また、お客様の前へ出られるのね」
セラさんは、マルタさんを見た。
「私は、前の仕事にも戻れないのに」
店の奥で、水が一滴落ちた。
洗った器を伏せたままだった。
朝も、マルタさんはあの場所で片付けをしていた。明日も来て、同じように仕事を覚えてくれる。
私は、そのつもりでいた。
「リネさん」
呼ばれ、セラさんへ向き直った。
「ごめんなさい。こんなお話をするつもりではなかったの」
「いえ……」
「買い物に来ただけなのにね」
私は包み紙を折った。
留め紐を結び、釣り銭と一緒に差し出す。
セラさんは商品を鞄へ入れた。
「こちらのものは、続けて使いたいんです」
「はい」
「次からは、リネさんにお願いできますか?」
「……承知しました」
セラさんは、それ以上マルタさんを見なかった。
扉を開けると、外はまだ明るかった。
仕事帰りの人たちが、通りを歩いている。
セラさんはその中へ加わっていった。
私へ最後に会釈をしてから、一度も振り返らずに。
店へ戻ると、マルタさんが受付のそばに立っていた。
「片付けます」
私の持つ布へ手が伸びた。
さっき濡れた手を拭いて、そのまま持っていたものだった。
渡すと、マルタさんはいつもの籠へ収めた。
明日の準備を、頼もうとしていた。
セラさんに渡したものを在庫へ書き込み、減った商品を棚へ補充してもらう。
いつもなら、そうして仕事を終える。
「リネさん」
マルタさんが、籠の前で立ち止まった。
「……私、ここにいていいんでしょうか」




