第四十二話 鏡を返したくない
翌朝、予約の取り消しが一件届いた。
マルタさんが働いていることを伝えた、その返事だった。
〈しばらく様子を見たいので、今回は取り消してください。〉
承知しましたと返信し、予約帳に線を引く。
知らせなければ、この時間も埋まっていた。
マルタさんが奥で片付けをしていれば、お客様と顔を合わせずに済んだ。そんなことを、また考えている。
昨日、自分で、隠すのはやめようと言ったばかりなのに。
次の予約まで、何をしよう。
取り消された予約を眺めていると、マルタさんが出勤してきた。
今日の予定と、取り消された予約について話した。
「……分かりました」
マルタさんはそれだけ答えて、鞄を置いた。
謝られたら、何と返すか考えていた。
何も言われなくても、困った。もう伝えたのだから準備を始めればいいのに、開いた予約帳を閉じるまで、少し時間がかかった。
*
昼前のお客様は、私からの連絡にも予約を変えなかった方だった。
「今日は、リネさんにお願いできるんですよね?」
「はい。私が担当します」
マルタさんが頭を下げると、お客様も挨拶を返した。
相談用の席へ案内すると、お客様は頬へ手を添えた。
「顔が、くすんで見えるんです。来週、久しぶりに姉に会うので、それまでに少しでも何とかしたくて」
最近のお手入れを伺うと、新しい商材を使い始めてから、時々ひりつくという。
「今日は、肌の状態を確認してから、お手入れを決めましょう」
お客様がうなずいた。
マルタさんへ準備をお願いすると、盆へ伸ばした手が途中で止まった。
袖口を持ち上げ、腕を見ている。
「マルタさん?」
「……また出たらと思って」
袖口を戻す。
「お店の物を、壊してしまったので」
私は窓の方を見かけた。
「何かあれば、すぐに教えてください」
「はい」
マルタさんは盆を持ち、商材の棚へ向かった。
*
用意された盆には、洗浄料とタオルが載っていた。
その横に、角質のお手入れに使う商材もある。
ひりつくと、今お話しされていたのに。
「マルタさん。これは、まだ使うと決めていません」
「あ……くすみが気になるとおっしゃっていたので」
また、くすみにはこれ、と決めている。
そう思って、口を開きかけた。
準備をお願いします。
私も、それしか言っていなかった。
瓶を盆から下ろす。
「用意するものを、先にお伝えしていませんでしたね。すみません」
机の端へ置き、お客様へ向き直った。
「今日は、こちらを使うお手入れは見送ります」
「それでは、くすみは変わらないんですか?」
お客様は、下ろされた瓶を見た。
「来週までに、どのくらい変わるかはお約束できません。まずは、ひりついているお肌に負担を重ねないようにしたいです」
「少しくらいなら、我慢できますけど」
マルタさんが一歩近づいた。
「こちらは、多少刺激を感じることも——」
声が途切れた。
お客様が顔を向ける。
私も、マルタさんを見た。
彼女は瓶へ目を落とし、口を閉じた。
「……リネさん。確認しても、よろしいですか」
「はい」
机から少し離れたところへ来ると、マルタさんは声を落とした。
「これを使わないときは、何を用意すればいいんでしょうか」
私はお客様の鞄へ目を向けた。
「先に、ご自宅で使っているものを確認したいです」
「……はい」
マルタさんが、お客様のそばを空けた。
私は相談用の席へ戻った。
*
「今お使いのものは、お持ちでしょうか?」
「持ってきました」
お客様は鞄を開いた。
「捨てるのは、もったいない気がして」
机に、いくつもの瓶が並んだ。
使い始めた日と、ひりついたときに使っていたものを確かめた。
新しく買ったものとは別に、以前から使えていた美容液と保湿用の商材があった。
「こちらは、お使いになっていて気になることはありませんでしたか?」
「はい。それだけのときは、何ともなかったんです」
「今日は、新しいものや角質のお手入れは重ねずに、こちらで整えてみませんか」
お客様は二本の瓶を見てから、うなずいた。
「お願いします」
*
ベッドへ案内し、マルタさんに、使う二本と清潔なタオルをお願いした。
今度は、一本ずつ名前を伝えた。
「こちらと、こちらですね」
盆の上を確かめ、うなずく。
肌に残っていた化粧品を落とすと、口元に細かな皮が浮いていた。こすらずに水分を補い、少量ずつ商材をなじませる。
「今、しみるところはありませんか?」
「大丈夫です」
口元を整えてから、頬へ移った。
明かりの下で顔の向きを少し変えていただくと、乾いて白っぽく見えていたところが目立たなくなっていた。
早く、鏡を見ていただきたかった。
*
身体を起こしたお客様へ、手鏡を渡した。
「あれ」
鏡が顔へ近づく。
それから少し離れ、もう一度、口元へ近づいた。
「ここ、いつもお化粧をすると余計に目立つんです」
口の端を指さした。
「今日は、あまり気にならない」
「乾いて浮いていた部分が、落ち着いて見えますね」
お客様は、顔を左右へ向けた。
「くすみが全部なくなったわけじゃないんですけど……さっきより、顔が疲れて見えない気がします」
私は、その方が鏡を下ろすのを待った。
まだ、見ている。
口元が、少しずつ緩んだ。
「姉に会うの、嫌だなと思っていたんです。また疲れてるのって言われそうで」
ようやく鏡から顔が上がった。
「何を着ていこうか、考えたくなりました」
私も笑っていた。
これが、見たかった。
「帰ってからのお手入れも、一緒に確かめましょう」
「はい。今日は何を使ったか、書いていただけますか?」
マルタさんが、使った二本の瓶を机へ置いた。
お客様は手鏡を戻しかけて、私を見た。
「もう少し、持っていてもいいですか?」
「もちろんです」
マルタさんが瓶の名前を控えるあいだも、その方は時々、鏡へ目を落としていた。
*
お客様が帰ったあと、マルタさんは盆を片付けながら言った。
「ひりつくと、聞いていたんです」
私は隣へ立った。
「それなのに、我慢できるとおっしゃったら、いつもの説明が出ました」
机の端に置いた瓶へ手を伸ばす。
「最後まで言いそうになりました」
私も、お客様の言葉を聞いていた。
少しくらいなら、我慢できますけど。
受けたいと言われた。
それを、進めてよい理由にしていたことがある。
「今日は、途中で止めてくださいましたね」
「そのあと、使うものを一緒に確かめられました」
マルタさんが私を見た。
「……次も止められるか、分かりません」
「しばらくは、一緒に確認しましょう」
私は、片付ける盆を受け取った。
そのとき、通信魔道具が鳴った。
聖女様の担当者からだった。
〈マルタ様の勤務について、聖女様が経過を知りたいとおっしゃっています。お客様の反応も含め、お知らせください。〉
私は文面を読み直した。
取り消された予約も、帰っていったお客様も、書かなければならない。
でも、今日の方は、鏡を返すのを惜しんでくださった。
〈今日は、私が担当したお手入れで、お客様に喜んでいただけました。マルタさんにも、準備と記録を手伝っていただきました。〉
そこまで書いてから、説明を途中で止めたことも続けた。
隣で、マルタさんが瓶を棚へ戻していた。
一緒に働き始めて、まだ二日目だった。




