第四十一話 誰のための安心
「あの人……確か、リネさんに責任を押し付けた人なんじゃないですか?」
私は、お客様へうなずいた。
「はい。あの件で、講師を担当されていた方です」
棚の前で、マルタさんが手帳を閉じた。
お客様は私たちを交互に見た。
「どうして、こちらに?」
「ご本人と話をして、まずは準備や片付けを手伝っていただくことにしました」
「聖女様がお決めになったんですか?」
聖女様からのお話です。
そう答えれば、この方も安心してくださるかもしれない。
私は棚の方を見た。
マルタさんが、こちらを見ていた。
昨日、私が話すと言った。
「聖女様からご提案はありました。でも、お受けすると決めたのは、私です」
お客様は鞄を膝へ引き寄せた。
「……そうですか」
*
「私、あの発信を見て予約したんです」
お客様が言った。
「聖女様のお話ですか?」
「はい。それから、お客様が話していた映像も。リネさんなら、嫌だと言ったら聞いてくださると思って」
私は続きを待った。
「前のお店では、断るたびに理由を聞かれたんです。お金がないと言えば、分割にできる。忙しいと言えば、短い時間でも来られるって」
鞄の持ち手を、指がなぞった。
「ただ、もう受けたくなかったんですけど。それだけでは駄目みたいで」
棚の方へ目が向く。
「ここでは、あの方も私に説明をするんですか?」
「今日は、私が担当します。マルタさんから施術や商品のご案内をすることはありません」
お客様はうなずいた。
けれど、鞄は膝に載ったままだった。
「……少し、考えてもいいですか?」
「はい」
私は相談票を自分の方へ戻した。
「今日は、何も受けずにお帰りいただいても大丈夫です」
口にしてから、マルタさんが気になった。
最初の日だ。
まだ、瓶の置き場所も説明していない。
お客様が椅子を引いた。
「すみません。今日は帰ります」
私は立ち上がった。
「分かりました」
入口へ向かい、扉を開ける。
お客様は小さく頭を下げ、通りへ出ていった。
*
「……申し訳ありません」
振り返ると、マルタさんは棚の前に立っていた。
相談用の席が空いている。
用意した道具も、そのままだった。
来てくださったのに。
予約が戻り始めたところだった。
今日は私が担当します。
そう説明すれば、受けていただけると思っていた。
それでも、帰ってしまった。
「私が、奥へ下がればよかったですね」
マルタさんが言った。
「次のお客様のときは、見えないところにいます」
うなずきかけた。
奥で準備をしてもらえばいい。
私が接客している間、出てこなければ。
次の方は、帰らずに済む。
私は、空いた椅子を見た。
この人がいると知ったら、次のお客様も嫌だと思うかもしれない。
奥へ下がってもらえば、その気持ちを聞かずに済む。
「働いていることを、隠すのはやめましょう」
マルタさんの顔が強張った。
「では、私は……」
「予約してくださる方には、先にお伝えします。何を担当していただくのかも」
机から予約帳を取った。
次の名前を見て、手が止まった。
この方も、取り消すかもしれない。
その次の方も。
マルタさんを雇わなければ。
そう思って、隣を見た。
彼女は手帳を閉じたまま、私の言葉を待っていた。
昨日、ここで働いてくださいと言ったのは、私だ。
私は予約帳を開いたまま、連絡の文面を書き始めた。
*
マルタさんが、椅子のそばへ来た。
「私からも、謝った方がよかったでしょうか」
「……分かりません」
筆を持ったまま、答えた。
謝ってもらえば、あの方は安心できたのか。
それとも、返事をしなければならなくなって、帰りづらかったのか。
もう、聞けなかった。
マルタさんが入口へ目を向けた。
「私、追いかけそうになりました」
筆を止める。
「奥へ下がりますから、受けていってくださいって。そう言えば、戻ってくださるかもしれないと思って」
私はマルタさんを見た。
「でも、帰るとおっしゃったので……」
閉じた手帳を、両手で持っている。
「ここにいました」
私はうなずいた。
お客様は帰った。
店の売上にはならなかった。
それでも今日は、誰も取っ手を押さえなかった。




