第三十四話 聞いていた言葉
入口の上で、木の軋む音がした。
壁際から顔を向ける。
窓の外を、灰色のものが覆っていた。
「看板から離れてください!」
ひなの声がした。
次の瞬間、硬いものが入口へ跳ね込んだ。
金具だった。
床を転がり、相談用の机の脚へ当たる。
「リネさん、もっと奥へ!」
私は後ずさった。
膝の裏が施術用のベッドへぶつかり、身体が傾いた。両手で縁をつかむ。
窓の向こうに、看板の片側が垂れ下がった。
落ちる。
「土魔法で支える。下がってろ!」
年配の男の声とともに、窓の外で土の柱がせり上がった。
傾いた看板を下から受け止める。
鈍い音がした。
私はベッドの縁を握ったまま、動けなかった。
看板の端に、灰色のものが巻きついている。
木が、また軋んだ。
やめて。
ようやく、お店を開けられたのに。
灰色のものの端が、窓の前で揺れた。
思わず身を引く。
こっちに、来ないで。
*
「看板から、手を離せますか?」
ひなが呼びかけた。
「私、触ってない……」
講師の声が返る。
灰色のものが膨らみ、窓へ落ちる光を遮った。
「触ってないのに!」
また、木の割れる音がした。
「止めて……」
私も、止めてほしかった。
看板から離れて。
店を壊さないで。
口を開きかけた。
セラさんが、自分の身体から出た黒いものを払い落とそうとしていた姿が浮かぶ。
あのときも、取れなかった。
私は唇を噛んだ。
だからって、どうしたらいいの。
窓のそばには、商品棚がある。
あそこまで来たら。
瓶の並んだ棚から目を離せず、ベッドの縁を握り直した。
*
「看板ごと下ろしてください。通りから見えない場所へ」
ひなの声がした。
土の柱が、ゆっくりと低くなる。
年配の男と警備兵が看板を外し、路地から見えない方へ運んでいった。
灰色のものが長く伸びた。
まだ追うのかと思ったとき、その端が看板から離れた。
窓が明るくなった。
私は、ようやくベッドから手を離した。
指が痛かった。
入口へ近づこうとして、足が止まる。
まだ、外へ出るのは怖かった。
*
ひなが店へ入ってきた。
「お怪我は?」
「ありません」
声が、うまく出なかった。
もう一度、首を振る。
「看板は外しました。今は、路地の中へ力が戻っています」
ひなは窓の外を確かめた。
「ただ、また広がるおそれがあります。裏から離れられますか?」
「はい」
鞄と通信魔道具を取った。
ここから出られる。
それだけで、少し息がしやすくなった。
「……あの人は?」
ひなが私へ顔を戻す。
「話はできます。ご自分でも、力を止められずにいるようです」
私は、机の脚元に落ちた金具を見た。
さっき、あれが飛んできた。
まだ床にある。
「ご自身の話も聞いてほしいと、繰り返されています」
私は鞄を持ち直した。
「伝えていただけますか」
ひなが待った。
何を言えば、落ち着いてもらえるのかは分からない。
あなたは悪くないとは、言えなかった。
でも、私が知っていることなら。
試験で肌の状態を伝えたとき、あの人は、指定された施術を提案する試験だと答えた。
その条件が誰の決めたものか、私は講師に尋ねもしなかった。あの人が不合格だと言えば、店を続ける道が閉ざされるように感じた。
今は、あの人も誰かに従っていたのだと知っている。
「私も、あの試験では、教えていただいた手順を行えば合格できると思っていました」
ひなを見た。
「あの方だけで、試験の条件を決めたとは思っていません。そのことを、伝えてください」
ひながうなずいた。
私は鞄を抱え、裏口へ向かった。外れた金具のそばは、通れなかった。
あの人に伝わってほしい。
でも、今はそばへ行けない。店の外へ出るまで、窓から離れて歩いた。
*
ひなが路地へ戻ると、灰色の隙間が開いた。
講師は壁際に座り、鞄を抱えていた。
「リネさんから、伝えてほしいと頼まれました」
肩が強張る。
「……何」
「ご自身も、あの試験では、指定の手順を行えば合格できると思っていたそうです」
講師はひなを見た。
「講師のあなただけで、条件を決めたとは思っていないと」
膝の上の鞄へ、涙が落ちた。
「だったら……」
手の甲で拭った。
「だったら、どうして私だけ」
ひなが、隙間の前にしゃがんだ。
「何があったのか、聞かせてください」
「あなたに話して、何になるの」
「今ここで、仕事を取り戻すお約束はできません」
講師は顔を伏せた。
「でも、店から何を指示されたのかは、聞かせていただきたいです」
また、言っていいのか。
責任者には、もう聞いた。
あの対応をしろとは言っていないと、返された。
顔を上げると、ひなはまだそこにいた。
「……客を連れ戻せって」
鞄の持ち手を握る。
「私が行けって、言われたんです」
ひなは続きを待っていた。
講師の顔を隠していた灰色のものが、ゆっくりと膝へ落ちた。




