第三十二話 閉じた路地
午後のお客様を見送ったとき、通りの向こうで叫び声がした。
「そっちへ行くな! 心蝕だ!」
入口へ出ると、人々が路地から離れていくところだった。
建物の間に、灰色のものが張り渡されている。風を受けた布のように揺れているのに、端は壁から離れない。
その奥で、人影が動いた。
「誰か、いるんですか?」
近くの男へ尋ねると、うなずいた。
「女の人が一人。声をかけたら、急にああなって……」
灰色のものが揺れた。
隙間から、顔が見えた。
「……先生?」
研修のときと同じ呼び方が、口から出た。
女性がこちらを向く。
次の瞬間、隙間が閉じた。
*
「下がってください!」
駆けつけた警備兵が、人々を通りの反対側へ誘導した。
私も店の入口まで戻った。
あの講師だった。
仕事を辞めさせられたと聞いたばかりなのに。
「来ないで」
灰色のものの向こうから、声がした。
警備兵が足を止める。
「中にいる者、ほかに人はいるか?」
返事はなかった。
兵が一歩近づくと、灰色のものが大きく膨らんだ。路地の外へせり出し、兵を押し戻す。
兵は踏みとどまり、剣の柄へ手をかけた。
「近づくなと言ってるでしょう!」
私は、入口の取っ手を握った。
「討伐機関は?」
「要請済みだ」
その声に、灰色のものが震えた。
「リネです」
私は呼びかけた。
「店の入口にいます。そちらへは行きません」
少し待った。
返事がなく、もう一度声をかけようとした。
「……帰って」
口を閉じた。
「あなたには、見られたくない」
取っ手を握る指に、力が入った。
私には。
顔を知っている人がいれば、少しは安心してもらえると思った。
でも、あの人は私を見て、顔を隠した。
最初から。
「……分かりました」
店の中へ下がった。
路地から見えない壁際で、足を止める。
追い払われたことが、悲しかった。
何かできればと思っただけなのに。
そう考えて、唇を結んだ。
私が何を思ったかなんて、今、あの人に聞いてほしいことじゃない。
外で、警備兵が人々へ離れるよう呼びかけていた。
私は壁際に立ったまま、黙っていた。
*
しばらくして、入口の鐘が鳴った。
「リネさん」
ひなだった。
「現場の女性をご存じだと、警備兵から聞きました」
「認定研修の講師です。以前、私の店にも来ました」
「何か、お話はできましたか?」
「名前を伝えたら、帰ってほしいと。私には見られたくないと言われました」
声にすると、また胸が痛んだ。
ひなはうなずいた。
「分かりました。ここで待っていてください」
「あの人を、どうするんですか」
外へ向きかけたひなが、振り返る。
「まず、巻き込まれた人がいないか確認します。ご本人とも話をします」
私は、窓の向こうへ目を向けた。
灰色のものは、まだ路地を塞いでいた。
「今のところ、怪我人は確認されていません」
ようやく、息を吐けた。
ひなは私の返事を待ち、それから外へ出た。
*
「討伐機関のひなです」
声が、店の中まで届いた。
「中へは入りません。声は聞こえますか?」
少し間があった。
「……私、何もしてない」
講師の声だった。
「誰も、傷つけてない」
セラさんも、そう言っていた。
私は壁際で、耳を澄ませた。
「はい。今のところ、怪我人はいません」
ひなが答える。
「あなた以外に、路地の中にいる人はいますか?」
「いない」
「分かりました。周りの人は離れています。今は、私と話せますか?」
*
ひなは、路地の入口で返事を待っていた。
灰色のものに覆われた奥で、講師が顔を上げる。
ひなの背後に、リネの店が見えた。
入口の上には、金色の紋章が付いた看板がある。
「……あの人は、助けてもらえたのに」
講師は、膝の上で鞄を握った。
「リネのためには、何でも変えてくれるのに」
灰色のものが路地を抜け、通りへ伸びた。
リネの店の看板へ向かって。




