第三十一話 見ないで
入口には、従業員募集の紙が貼ってあった。
講師は鞄から経歴書を取り出し、折れた角を伸ばした。
施術の経験はある。認定研修で、人に教えた経験もある。
募集されている仕事なら、できる。
教える立場でなくていい。まずは施術に入って、任せても大丈夫だと分かってもらえばいい。
経験のある人なら助かると、そう言ってもらいたかった。
扉を開けた。
「お仕事の募集を拝見して、伺いました」
受付の店員は経歴書を受け取ると、奥へ入った。
講師は、上着の袖を整えた。
講師になってから買ったものだった。人前に立つのだから、きちんとした格好をしようと思った。
今日も、これを選んだ。
しばらくして、責任者が出てきた。
「前のお店は、どうして辞めたんですか?」
「……お客様への対応で、問題がありまして」
責任者の目が、経歴書から上がった。
「リネさんのお店で起きた件ですか?」
喉が詰まった。
「ご存じなんですか」
「同じ仕事ですから」
責任者は経歴書を揃え、こちらへ差し出した。
「申し訳ありませんが、今は募集していませんので」
まだ、何ができるかも話していない。
用意してきた説明が、いくつも残っていた。扱える商材も、一日に何人担当していたかも。
リネの名前が出てから、この人は何も尋ねてくれない。
「施術の方でしたら、すぐに——」
「申し訳ありません」
紙を差し出す手は、動かなかった。
講師は受け取った。
「……失礼しました」
扉を開ける。
目の前に、従業員募集の紙があった。
まだ、募集している。
いらないのは、私だ。
講師は経歴書を鞄へ押し込んだ。
次の店では、講師だったことを隠そうか。
経歴書には、自分で書いた。施術だけでなく、人にも教えられると分かってもらいたくて。
そこを消したら、話を聞いてくれる?
けれど、名前を聞かれたら。
足が止まった。
家賃は、来月も払わなければならない。
食べなければ、お腹も空く。
昨日までの仕事はなくなったのに、払うものは何もなくならなかった。
店の中から、声が聞こえた。
「お待たせいたしました」
さっき自分に断りを告げた人が、客を迎えていた。
講師は歩き出した。
ここに立っていても、もう声は掛けてもらえない。
*
次の店は、通りを二つ先へ進んだところだった。
大通りへ出ると、スクリーンに聖女が映っていた。
隣には、リネの店。
「私は、その技術と知識、そしてお客様に向き合う姿勢を認め、聖女認定を授けました」
また、あの発表だった。
近くを歩いていた二人が、画面を見上げた。
「ここ、行ってみたいんだよね」
「予約、取れるのかな」
講師は、鞄の持ち手を握った。
あの店には、客が来る。
自分は、客の前に立つことさえ断られた。
辞めさせられた店では、今日も予約を受けているはずだった。責任者も、いつもの席にいる。
私は、どこへ行けばいいの。
「……あの人じゃない?」
背後から声がした。
肩が強張った。
自分のことかは、分からなかった。
振り返れず、通りを外れた。
*
路地へ入っても、靴音が聞こえた。
足を速める。
靴音は、まだ聞こえた。
追ってきたの?
壁際へ寄り、鞄を胸に抱えた。
もう、出したくなかった。
名前も、勤めていた店も。
あの紙を渡したら、また顔を見られる。
「大丈夫ですか?」
男の声がした。
講師は顔を上げなかった。
「具合が悪いなら——」
靴音が近づく。
放っておいて。
何も聞かないで。
男が息をのんだ。
足元で、灰色のものが膨らんでいた。
薄い布を幾重にも重ねたようなものが、背中から肩へせり上がってくる。
講師は手で押さえた。
指の間からも、同じものが広がった。
「……心蝕」
男が後ずさる。
講師は顔を上げた。
灰色の隙間から、逃げていく背中が見えた。
「違う……」
男は大通りへ駆け出していた。
口を開き、誰かを呼んでいる。
やめて。
人が来る。
また、顔を見られる。
講師は両手で顔を覆った。
灰色のものが、路地の入口を塞いだ。




