第三十話 仕事へ行く前に
予約の時間に、入口の鐘が鳴った。
セラさんが、神殿の職員と一緒に立っていた。
「こんにちは」
「お待ちしていました。どうぞ」
セラさんは店へ入ると、周りを見渡した。
相談用の机にできた仕切りも、広くなった通路も、ゆっくりと見ている。
「綺麗になりましたね」
「はい。お話を伺う場所も、少し変えました」
椅子を勧めると、セラさんは鞄を置いて座った。職員は、隣の席に腰を下ろした。
あの日は、床に座り込んでいた。
その人が今、私の店で落ち着いて座っている。
それだけで、少しうれしかった。
「今日は、お肌のことを伺えればと思っています。その後、ひりつきはいかがですか?」
「前よりは、落ち着きました」
セラさんは答えてから、鞄へ目を落とした。
「その前に、一つ聞いてもいいですか?」
「はい」
「あの講師の方が、辞めさせられたと聞いて……」
私はセラさんを見た。
「エデンを、ですか?」
「はい」
知らなかった。
セラさんは、鞄の持ち手を指でなぞった。
「私が話したからでしょうか」
*
聖女様の発表に続いて流れた映像を、私も見ていた。
セラさんが撮影に応じたことは、事前に聞いていた。自分の言葉で誤解を訂正したいと言ってくれたことが、ありがたかった。
けれど、そのあと講師がどうなったのかまでは、知らなかった。
「あのお店で施術を受けていないことを、分かってほしかったんです」
「はい」
「でも、仕事を辞めてほしかったわけではなくて」
セラさんが顔を上げた。
「私も、仕事がなくなるのは困るので……」
私は、すぐに返事ができなかった。
あの講師にされたことを、忘れたわけではない。
帰りたいと訴える人の前で、扉を押さえていた。私が施術をしていないと知っていたのに、誤った案内も残った。
それでも、店を辞めさせられたと聞いて、よかったとは思えなかった。
私の店には、新しい看板が付いた。
商材はそのままでいいと言われ、使いやすい家具も用意してもらえた。
それを、ここへ来たセラさんに、うれしくて見てほしかった。
あの人は仕事を失っていたのに。
でも、辞めさせるほどのことではなかったと、この人には言えない。
帰れなくなったのは、セラさんだ。私が許して済むことではなかった。
「講師の処分については、私からは詳しくお話しできません」
隣にいた職員が言った。
セラさんは小さくうなずいた。
「……そうですよね」
私は、机の上へ手を置いた。
「話してくださったことは、私には必要でした」
セラさんが私を見た。
「施術をしていないと伝えても、それだけでは信じてもらえない方もいました。あなたが話してくださって、助かったんです」
その言葉まで、曖昧にしたくなかった。
「ありがとうございます」
セラさんは、しばらく黙っていた。
それから、鞄の持ち手から手を離した。
*
肌の状態を確認し、神殿で使っているものと、今のお手入れについて伺った。
セラさんは職員へ尋ねることなく、自分で答えてくれた。
「洗うとき、力を入れないようにしています。まだ気になって、鏡は何度も見てしまいますけど」
「どんなときに、気になりますか?」
「外へ出る前です。これで人に会っていいのかなって」
綺麗になりたくて、エデンへ通い始めた。
その気持ちは、心蝕を扱えるようになっても残っていた。
私は、これからできるお手入れと、その料金を説明した。
セラさんは最後まで聞いてから、うなずいた。
「お願いしたいです」
ようやく、施術の準備ができる。
私は立ち上がり、奥のベッドへ案内しようとした。
そのとき、セラさんが職員へ顔を向けた。
「今日のお手入れが終わったら、もう、お仕事にも行けるんですよね?」
「ええ。訓練の担当者からも、問題ないと聞いています」
セラさんの表情が明るくなった。
「よかった。教えてもらうばかりだったので、早く役に立ちたくて」
「エデンとの契約については、窓口へ相談できましたか?」
「はい。教えていただいたところへ、契約書を出しました。まだ返事を待っているんです」
戻るかどうか分からないお金を待ちながら、これからの仕事も決めようとしている。
私はうなずき、その先の話を待った。
「お仕事が決まったんですね」
私が言うと、セラさんはうなずいた。
「神殿から紹介していただいたんです。今夜が初めてで」
今夜。
私は、用意しかけたタオルを持ったまま尋ねた。
「どんなお仕事なんですか?」
セラさんは、少し照れたように笑った。
「荷物を運ぶ仕事だと聞いています。人に見られずに運びたいものがあるそうで」
「その力を使うお仕事なんですね」
「私の力なら、覆って隠せるんです。訓練で、箱を包む練習もしました」
あの日、彼女の身体を隠していた黒いものが浮かんだ。
セラさんは、隣の職員へ顔を向けた。
「何を運ぶかは、行ってから教えていただけるんですよね?」
「はい。担当者が説明します。最初は、訓練を見ていた者も同行しますので」
「それなら、安心です」
セラさんは私へ向き直った。
「この力が出たときは、もう働けないと思いました。でも、私だからできる仕事があるって言っていただけて」
私は、明るくなったその顔を見た。
仕事が決まり、必要とされている。
それを喜ぶ気持ちは、私にも分かった。
何を運ぶのかも、まだ知らない。
気になって職員を見たけれど、セラさんはもう、今日使う商材へ目を向けていた。
さっきまで、自分の話で人が仕事を失ったのではないかと心配していた。その人が、自分にできる仕事を見つけて喜んでいる。
私だって、聖女様に必要だと言われたときは、うれしかった。
何も知らないまま、その喜びに水を差す言葉は出てこなかった。
「初めてのお仕事の前ですから、今日は無理のないお手入れにしましょう」
セラさんがうなずき、立ち上がった。
私はベッドへ案内した。
*
鞄と上着を置く場所を伝えると、セラさんは自分で荷物をしまった。職員は相談用の机で待つことになった。
頬のひりつく場所を確かめ、触れる前に声をかける。
セラさんが、自分の手元を見た。
「また黒いものが出たら、途中でやめてもいいですか?」
「はい。すぐに手を止めます。出ていなくても、やめたいと思ったら教えてください」
セラさんがうなずいたのを見てから、頬へ触れた。
少量の商材をなじませると、眉がわずかに動いた。私は手を止めた。
「しみますか?」
「いえ。少し冷たかっただけです」
返事を聞いてから、手を動かした。
今日は、この人のお手入れをする。新しい仕事へ行く前に、少しでも気持ちよく支度ができるように。
*
手入れを終え、鏡を渡した。
「赤いところは、まだありますね」
「はい。今日は、すべてなくなったわけではありません」
セラさんは顔の向きを変えた。
「でも、つっぱる感じがしません」
私は今日使ったものと、帰ってからのお手入れを書いた紙を渡した。
「お手入れのあと、ひりつきが強くなるようでしたら、ご連絡ください」
「はい」
「買い足さなくても、大丈夫なんですね」
「今お持ちのもので続けられます」
セラさんは紙を鞄へしまった。
会計を終えると、次の予約について尋ねられた。
「仕事の予定が分かってから、連絡してもいいですか?」
「もちろんです」
職員と入口へ向かう途中で、セラさんが足を緩めた。
「ここで、待っていてくださったこと、覚えています。一人だったら、もっと怖かったと思います」
私は、その顔を見た。
「私も、一緒に神殿へ行けてよかったです」
セラさんはうなずいた。扉の外へ出てから、もう一度振り返る。
「行ってきます」
「いってらっしゃい」
二人が歩き出すのを、私は入口から見送った。
次の予約は、まだ決まっていない。
私は、今日のお手入れを書いた紙の控えを、お客様の記録に挟んだ。
また来てくださったときに、何が変わったかを一緒に確かめられるように。
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