第二十九話 教える資格
受講者が帰った研修室で、講師は責任者へ向き直った。
机には、使わなかった道具が並んでいる。
質問された内容と、自分の返答を、順に伝えた。
「受講者は、試験までに回答が欲しいとおっしゃっています」
「変更はないと伝えただろう」
「その説明では、納得していただけませんでした」
「だから、勝手に中断したのか?」
講師は責任者を見た。
手順を変えるなと言われた。
変えずに説明すると、答えになっていないと言われた。
誰も道具を出そうとしなかった。帰り支度を始めた人に、座り直してくださいとは言えなかった。
その様子を見ていてくれたら、こんな聞き方はしないはずだった。
「質問に答えられないまま、施術の練習をさせることはできません」
責任者は、しばらく黙っていた。
「分かった。次の研修は、別の講師に任せる」
講師は息を止めた。
次の研修も、自分が受け持つものだと思っていた。今日できなかったところを、もう一度教える。基準についての返事さえもらえれば、続きを始められる。
「別の講師、ですか」
「今日の受講者への対応も、そちらへ引き継げ」
「皆さんがどこまでできるかは、私が見ています。手順を覚えるのに時間がかかる方もいて……」
名前を挙げようとした。あの席の人は塗る量が多くなる。隣の人は、説明をしながらだと手が止まる。次はそこを見ようと、紙にも書いてある。
「それも、引き継げばいい」
責任者は、並んだ商材を見ていた。
そういう意味で話したのではなかった。自分が続けた方がいいと、分かってほしかった。
「一度、皆さんにご説明いただければ、私からも——」
「もう決めたことだ」
続きを言えなかった。
さっきは、私が説明しろと言った。今は、ほかの人へ渡せと言う。
講師になるために、仕事が終わってからも手順を練習した。もう教えなくていいと言われるのは、こんなに簡単なの?
「……私の担当は、どうなりますか」
「当面、店の仕事に戻れと言いたいが、そうもいかなくなったな」
施術の担当へ戻るだけなら、まだ働ける。
講師ではなくなっても、予約のお客様はいる。あの人たちのお手入れまで、できなくなるわけではない。
そう思おうとしたところへ、責任者の言葉が残った。そうもいかなくなった。
「どういうことでしょうか?」
「お前は今や有名人だよ」
責任者が通信魔道具を机へ置いた。
映像が浮かぶ。
椅子に座っているのは、あのお客様だった。
講師は、顔を近づけた。
「リネさんのお店で、施術は受けていません」
女性は膝の上に手を重ねていた。
「契約について相談していたら、エデンの講師の方が来ました。研修の試験でも、私を担当された方です」
講師は動けなくなった。
「家に帰りたいと伝えました。でも、扉の前に立たれて……リネさんが開けようとしても、取っ手を押さえていました」
あのときは、説明を聞いてほしかった。
少し話せば分かってもらえると思っていた。
画面の中の女性が、重ねていた手を握った。
「また帰れないんだと思って、怖くなりました。そのあと、黒いものが出てきたんです」
講師は責任者を見た。
責任者は、画面を見たままだった。
「リネさんは扉を開けて、外から私が見えないようにしてくださいました。誰も怪我はしていません」
女性が顔を上げた。
「なのに、私が施術を受けて心蝕を起こしたと、エデンから案内が出ていました」
少し、間があった。
「リネさんは、私を助けてくれたんです。あのお店を危ないと思っている方に、それを伝えたくて、お話ししました」
映像が終わった。
責任者が魔道具を引き寄せる。
「聖女様の発表に続いて、王都へ流れたものだ」
講師は、消えた画面を見ていた。
あのお客様が、こんなに話せる人だとは思っていなかった。
自分の前では、いつも小さな声で答えていた。
あのとき、ここまで言ってくれていれば。
そう思ってから、画面の中の言葉を思い返した。家に帰りたい。
それは、聞いていた。
聞いて、取っ手を押さえた。
けれど、こんな映像を流さなくてもよかったのに。店へ連絡してくれたら、話をすることもできたのに。
言い分を聞いてほしかった。ここで自分まで黙れば、あの映像だけで何もかも決まってしまう。
「お前の担当を外してほしいという連絡も来ている」
責任者の声がした。
「店での勤務も、今日までだ」
講師は、責任者を見た。
「……辞めろということですか?」
「そうだ」
「待ってください。あのお客様を連れ戻すように言ったのは、あなたですよね?」
「あの対応をしろとは言っていない」
「説明を終える前に帰ろうとされたので——」
「帰れなくしたんだろう」
講師は口を閉じた。
取っ手を押さえた感触が、指に戻ってきた。
客は、家に帰りたいと言っていた。
自分は、少し話をするだけだと答えた。
「それに、施術をしていないと知っていながら、訂正しなかった」
「案内を出したのは、私ではありません」
「間違いに気づいていたんだろう?」
気づいていた。
受付で、あの一文を読んだ。
訂正すれば、自分が扉を押さえたことも話さなければならないと思った。
だから、予約の時間だけを答えた。
「……私だけの責任なんですか」
責任者は答えなかった。
「お前を店に立たせたままでは、客に説明がつかない。鍵を返して、私物をまとめろ」
「明日から、ですか」
「今日までだと言っただろう」
明日の支度をして帰るつもりだった。足りない商材を確かめて、次の研修に向けて道具をそろえる。そのつもりで、今朝もここへ来た。
今、帰ったら。明日の朝は、ここへ来てはいけない。
「お客様に、ご挨拶だけでも……」
「こちらから説明する」
責任者は机に置いた魔道具を手に取った。
その前に立っていても、もう質問はされなかった。
*
研修室に一人残され、講師は鞄を開いた。
手引きへ手を伸ばして、止まった。
それも、商材も、店のものだった。
いつもなら、次の研修で使うものを鞄へ入れていた。
今日は、何を持って帰ればいいのか分からない。
机の端に、説明の順番を書いた自分の紙があった。
それを折って、鞄へ入れる。
自分が話しやすいように、何度も書き直したものだった。
ここで区切る。ここは、実際に手を動かして見せる。余白に書き足した文字が、折り目の内側へ隠れた。
引き継ぐなら、これも置いていった方がいい。
そう思ったのに、鞄から出せなかった。
これがなくても、次の講師は教えられる。自分が来る前にも研修はあったし、明日からも続いていく。
ようやく、毎月の収入も安定した。
生活費を払ったあとに、少しずつ金が残るようになっていた。今月も、同じように入ると思っていた。
次の勤め先を探さなければ。
でも、前の店を辞めた理由を聞かれたら、何と答える?
経歴に講師と書いても、あの映像を見た人なら、分かってしまう。
講師は鞄の口を押さえた。
さっきの映像で、あの客は手を握っていた。
帰れないと思って、怖くなったのだと言った。
自分は、説明を聞かせようとしていた。
あの人は、扉を開けてほしかった。
取っ手を押さえていた指を、鞄から離した。
でも、客を連れ戻すように言った人は、明日もここで働く。
誤った案内を出した人も、残る。
なぜ、自分だけが。
胸元の名札を外した。
自分の名前の下に、講師の肩書きがある。
初めてつけた日は、鏡の前で位置を直した。
曲がっていないか、受付へ立つ前にも確かめた。
机へ置こうとして、指が離れなかった。
従わなかったリネは、聖女に認められた。
自分は従って、ここを出ていく。
帰りたいと言われたとき、扉を開けていれば。
そう思いかけて、責任者の言葉が浮かんだ。
あの対応をしろとは言っていない。
名札を握る手に、力が入った。
だったら、どうすればよかったの。
連れ戻せと言ったときに、教えてくれればよかっただけじゃない。
廊下から、次の研修の日程を尋ねる声がした。
責任者が、いつも通りの声で答えている。
講師は、名札を机へ置いた。
まだ開いたままの鞄には、折り畳んだ紙しか入っていなかった。




