↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
29/77

第二十九話 教える資格

受講者が帰った研修室で、講師は責任者へ向き直った。

机には、使わなかった道具が並んでいる。

質問された内容と、自分の返答を、順に伝えた。

「受講者は、試験までに回答が欲しいとおっしゃっています」

「変更はないと伝えただろう」

「その説明では、納得していただけませんでした」

「だから、勝手に中断したのか?」

講師は責任者を見た。

手順を変えるなと言われた。

変えずに説明すると、答えになっていないと言われた。

誰も道具を出そうとしなかった。帰り支度を始めた人に、座り直してくださいとは言えなかった。

その様子を見ていてくれたら、こんな聞き方はしないはずだった。

「質問に答えられないまま、施術の練習をさせることはできません」

責任者は、しばらく黙っていた。

「分かった。次の研修は、別の講師に任せる」

講師は息を止めた。

次の研修も、自分が受け持つものだと思っていた。今日できなかったところを、もう一度教える。基準についての返事さえもらえれば、続きを始められる。

「別の講師、ですか」

「今日の受講者への対応も、そちらへ引き継げ」

「皆さんがどこまでできるかは、私が見ています。手順を覚えるのに時間がかかる方もいて……」

名前を挙げようとした。あの席の人は塗る量が多くなる。隣の人は、説明をしながらだと手が止まる。次はそこを見ようと、紙にも書いてある。

「それも、引き継げばいい」

責任者は、並んだ商材を見ていた。

そういう意味で話したのではなかった。自分が続けた方がいいと、分かってほしかった。

「一度、皆さんにご説明いただければ、私からも——」

「もう決めたことだ」

続きを言えなかった。

さっきは、私が説明しろと言った。今は、ほかの人へ渡せと言う。

講師になるために、仕事が終わってからも手順を練習した。もう教えなくていいと言われるのは、こんなに簡単なの?

「……私の担当は、どうなりますか」

「当面、店の仕事に戻れと言いたいが、そうもいかなくなったな」

施術の担当へ戻るだけなら、まだ働ける。

講師ではなくなっても、予約のお客様はいる。あの人たちのお手入れまで、できなくなるわけではない。

そう思おうとしたところへ、責任者の言葉が残った。そうもいかなくなった。

「どういうことでしょうか?」

「お前は今や有名人だよ」

責任者が通信魔道具を机へ置いた。

映像が浮かぶ。

椅子に座っているのは、あのお客様だった。

講師は、顔を近づけた。

「リネさんのお店で、施術は受けていません」

女性は膝の上に手を重ねていた。

「契約について相談していたら、エデンの講師の方が来ました。研修の試験でも、私を担当された方です」

講師は動けなくなった。

「家に帰りたいと伝えました。でも、扉の前に立たれて……リネさんが開けようとしても、取っ手を押さえていました」

あのときは、説明を聞いてほしかった。

少し話せば分かってもらえると思っていた。

画面の中の女性が、重ねていた手を握った。

「また帰れないんだと思って、怖くなりました。そのあと、黒いものが出てきたんです」

講師は責任者を見た。

責任者は、画面を見たままだった。

「リネさんは扉を開けて、外から私が見えないようにしてくださいました。誰も怪我はしていません」

女性が顔を上げた。

「なのに、私が施術を受けて心蝕を起こしたと、エデンから案内が出ていました」

少し、間があった。

「リネさんは、私を助けてくれたんです。あのお店を危ないと思っている方に、それを伝えたくて、お話ししました」

映像が終わった。

責任者が魔道具を引き寄せる。

「聖女様の発表に続いて、王都へ流れたものだ」

講師は、消えた画面を見ていた。

あのお客様が、こんなに話せる人だとは思っていなかった。

自分の前では、いつも小さな声で答えていた。

あのとき、ここまで言ってくれていれば。

そう思ってから、画面の中の言葉を思い返した。家に帰りたい。

それは、聞いていた。

聞いて、取っ手を押さえた。

けれど、こんな映像を流さなくてもよかったのに。店へ連絡してくれたら、話をすることもできたのに。

言い分を聞いてほしかった。ここで自分まで黙れば、あの映像だけで何もかも決まってしまう。

「お前の担当を外してほしいという連絡も来ている」

責任者の声がした。

「店での勤務も、今日までだ」

講師は、責任者を見た。

「……辞めろということですか?」

「そうだ」

「待ってください。あのお客様を連れ戻すように言ったのは、あなたですよね?」

「あの対応をしろとは言っていない」

「説明を終える前に帰ろうとされたので——」

「帰れなくしたんだろう」

講師は口を閉じた。

取っ手を押さえた感触が、指に戻ってきた。

客は、家に帰りたいと言っていた。

自分は、少し話をするだけだと答えた。

「それに、施術をしていないと知っていながら、訂正しなかった」

「案内を出したのは、私ではありません」

「間違いに気づいていたんだろう?」

気づいていた。

受付で、あの一文を読んだ。

訂正すれば、自分が扉を押さえたことも話さなければならないと思った。

だから、予約の時間だけを答えた。

「……私だけの責任なんですか」

責任者は答えなかった。

「お前を店に立たせたままでは、客に説明がつかない。鍵を返して、私物をまとめろ」

「明日から、ですか」

「今日までだと言っただろう」

明日の支度をして帰るつもりだった。足りない商材を確かめて、次の研修に向けて道具をそろえる。そのつもりで、今朝もここへ来た。

今、帰ったら。明日の朝は、ここへ来てはいけない。

「お客様に、ご挨拶だけでも……」

「こちらから説明する」

責任者は机に置いた魔道具を手に取った。

その前に立っていても、もう質問はされなかった。

*

 研修室に一人残され、講師は鞄を開いた。


 手引きへ手を伸ばして、止まった。

 それも、商材も、店のものだった。


 いつもなら、次の研修で使うものを鞄へ入れていた。

 今日は、何を持って帰ればいいのか分からない。


 机の端に、説明の順番を書いた自分の紙があった。

 それを折って、鞄へ入れる。


 自分が話しやすいように、何度も書き直したものだった。

 ここで区切る。ここは、実際に手を動かして見せる。余白に書き足した文字が、折り目の内側へ隠れた。


 引き継ぐなら、これも置いていった方がいい。

 そう思ったのに、鞄から出せなかった。

 これがなくても、次の講師は教えられる。自分が来る前にも研修はあったし、明日からも続いていく。


 ようやく、毎月の収入も安定した。

 生活費を払ったあとに、少しずつ金が残るようになっていた。今月も、同じように入ると思っていた。


 次の勤め先を探さなければ。

 でも、前の店を辞めた理由を聞かれたら、何と答える?

 経歴に講師と書いても、あの映像を見た人なら、分かってしまう。


 講師は鞄の口を押さえた。


 さっきの映像で、あの客は手を握っていた。

 帰れないと思って、怖くなったのだと言った。


 自分は、説明を聞かせようとしていた。

 あの人は、扉を開けてほしかった。


 取っ手を押さえていた指を、鞄から離した。


 でも、客を連れ戻すように言った人は、明日もここで働く。

 誤った案内を出した人も、残る。


 なぜ、自分だけが。


 胸元の名札を外した。

 自分の名前の下に、講師の肩書きがある。


 初めてつけた日は、鏡の前で位置を直した。

 曲がっていないか、受付へ立つ前にも確かめた。


 机へ置こうとして、指が離れなかった。


 従わなかったリネは、聖女に認められた。

 自分は従って、ここを出ていく。


 帰りたいと言われたとき、扉を開けていれば。


 そう思いかけて、責任者の言葉が浮かんだ。

 あの対応をしろとは言っていない。


 名札を握る手に、力が入った。


 だったら、どうすればよかったの。

 連れ戻せと言ったときに、教えてくれればよかっただけじゃない。


 廊下から、次の研修の日程を尋ねる声がした。

 責任者が、いつも通りの声で答えている。


 講師は、名札を机へ置いた。

 まだ開いたままの鞄には、折り畳んだ紙しか入っていなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。