第二十話 役に立つ
翌朝、セラは救護室の鏡をのぞいた。
頬のひりつきは、昨日より弱くなっている。けれど、赤みも、気にしていた肌の跡も残っていた。
人に見せられる顔かどうかを確かめようとして、鏡を伏せた。
また黒いものが出たら。
そう思うだけで、指先を見るのが怖くなる。
扉が叩かれた。
「お加減はいかがですか」
入ってきたのは、昨日の診察担当とは別の職員だった。セラが大丈夫ですと答えると、職員はベッドから少し離れた椅子に座った。
「退室の前に、今後のことをお話しできればと思いまして」
セラは膝へ手を置いた。
「また、これが出るんでしょうか」
「その可能性はあります」
指を握った。
やっぱり、家へ帰ってからも終わらない。
「でも、発動した方が皆、誰かを傷つけるわけではありません。力を扱うための訓練を受けている方もいます」
「私も、受けられますか?」
職員はうなずいた。
その返事だけで、胸の苦しさが少し緩んだ。
*
「仕事は、続けていらっしゃいますか」
セラは勤め先を答えたあと、昨日から休んでいることを話した。肌のことで相談に行くとは伝えていたが、心蝕については知らせていない。
肌の相談はどうだった、と聞かれたら、何と答えよう。
昨日まで一緒に働いていた人に、この手を見せる。黒いものが出たことまで話す。
そのあとも、今までと同じように隣にいてくれる?
「昨日のことで、店にも迷惑をかけてしまって」
職員は続きを待っていた。
「付き添ってくれた方のお店です。営業を止める話をされていて……」
「あなたが、その責任を負う必要はありません」
セラはうつむいた。
そう言ってもらいたかった。
けれど、自分があの店に行かなければ、起きなかったことでもある。
「まずは、ご自身の生活を考えましょう。訓練を受けたあとには、こちらで仕事をご紹介することもできます」
「心蝕があっても、ですか?」
「その力があるから、お願いできる仕事です」
セラが顔を上げた。
肌を綺麗にして、前と同じ仕事へ通うつもりだった。
仕事へ行く前に鏡を見て、今日も気になると思わずに済むようになりたかった。
ただ、それだけだった。
それなのに、今は、その仕事へ戻れるかどうかさえ分からない。隣で働く人に、また黒いものが出ないかと尋ねられたら、大丈夫とは言えなかった。
目の前の職員は、その力があるから頼めると言っている。
「私でも、働けるんですか」
「ええ。報酬もお支払いします」
セラは、膝の上の指を開いた。
何も出ていない。けれど、ここから黒いものが出たことを、目の前の職員は知っている。
知っていて、仕事を頼めると言ってくれた。
それがうれしかった。
施術のために払った金も、戻ってはいない。働けなくなれば、生活するための金までなくなる。
ここでは、心蝕のことを隠さなくていい。
何も知らない同僚へ説明するより、もう知っているこの人に、仕事を頼んでもらいたかった。
「どんな仕事ですか」
セラは尋ねた。元の勤め先へ何と連絡するかも決めていないのに、報酬がいつから出るのかまで、聞いておきたくなっていた。
*
リネから連絡が届いた。
〈今朝のお加減はいかがですか。伺える時間を相談したいです。〉
セラは返事を書いた。
ひりつきが弱くなったこと。神殿で訓練を受けられること。仕事も紹介してもらえるかもしれないこと。
〈昨日は、ありがとうございました。こちらでお世話になろうと思います。〉
送信すると、職員が席を立った。
「訓練室へご案内します。今日は、無理のない範囲で試してみましょう」
セラは上着を羽織り、鞄を持った。
もう一度鏡を見ようとして、やめた。
顔を見られるのは、まだ怖い。
それでも、ここでは自分を必要としてくれる。
職員について廊下へ出ると、別の女性が待っていた。黒い制服の袖口に、エデンの紋章があった。
足が止まった。
昨日、扉の前に立っていた講師を思い出す。
「こちらが、訓練を担当します」
紹介された女性は、立ち止まった相手を見て、少し距離を空けた。
「怖いですよね。私も、最初はそうでした」
差し出された手の甲から、黒いものが薄く浮かんだ。
セラは身を引きかけた。
女性は、その手を隠さなかった。黒いものが浮かんでいるのに、平気な顔でそこに立っている。
「あなた一人ではありませんよ」
昨日、これが自分から出たときには、もう元には戻れないと思った。
それが今、目の前の人にもある。
袖口の紋章から、もう一度、その手へ目を移した。
この人に、どうすれば怖くなくなるのか、教えてほしかった。




