018 女子大生Vlog
アラームが鳴ったとき、ウンジェは初めてすぐに体を起こした。
ナビが目を開けるよりも早かった。
「どうしたの? もう起きるの?」
「運動しに行かなきゃ」
ナビは窓を見た。
外はまだ暗かった。
「何時?」
「六時」
「いや、日が昇ってから行きなよ。なんで明け方から騒いでんの」
「運動って、普通は明け方にするものじゃないの?」
「それは昼間に用事がある人の話でしょ。君がなんで早朝から運動するの」
ウンジェはしばらくベッドに座っていたが、再び布団をかぶった。
「じゃあ、日が昇ったら起こして」
「また寝るの?」
「早起きしたら疲れたから」
「それ、いったいどういう意味……」
ナビはため息をついた。
それでも、今朝のソ・ウンジェは昨日とは少し違う人に見えた。
―――
川沿いには、もう散歩している人たちがいた。
ウンジェはジンバルを立て、スマホの録画ボタンを押した。
「こんにちは、ウンジェです。今日は本当に運動しに来ました。この前はしゃべりすぎて、全然走れなかったんですよ。なので今回は、本当に走りながらやろうと思います」
話し終えると、ウンジェはカメラの外を見た。
ナビはベンチの下に座っていた。
〈何?〉
「あたしについてくる?」
〈AirPodsつけてるでしょ? 僕はここにいるよ〉
「ったく……このムカつくクソ猫」
〈緊急ボタン、忘れてないよね?〉
路地でつかまれた手首は、まだ押すと痛かった。
ウンジェは唇をとがらせてから準備運動をし、ゆっくり走り始めた。
「皆さん……あたし、昨日……友……達……と……はぁ、はぁ……」
この前と同じようにVlogを撮りながら走るつもりだった。ところが、きちんと走り始めると何も話せないことに気づき、ウンジェは戸惑った。
「はぁ……ちょっと待って……少し休みます」
五分走ったウンジェは、もう無理だというように散歩道の脇のベンチに座り込んだ。
「うわ……これ、クソきついですね。いや、この前は歩きながらいっぱいしゃべったから、ゆっくり走れば話せると思ったんですけど、完全に言葉が詰まります。言葉? いや、息が詰まります。ああ、喉渇いた。水ないのに……」
ベンチに座ってだらだらしゃべっていたウンジェは、ふと首をかしげた。
ランニング。おしゃべり。
この二つは両立しない。
じゃあ、運動Vlogって、いったい何を入れるんだろう?
足が地面を踏む音。
服がこすれる音。
口から漏れる荒い息。
「いや、でも、こんなの誰が見るの?」
しばらく悩んだ末、ウンジェはカメラを切って、とにかく走り始めた。だが、それでも五分以上は続かなかった。
その後の五十分で、実際に走った時間は十分にも満たなかった。
ナビのところに戻ってきたウンジェは、ようやく一言を絞り出した。
「皆さん……お願いだから、運動してください」
ナビはベンチの下で顔を向けた。
〈ものすごい説得力だね〉
「黙って。今、呼吸してる」
―――
家に戻ったウンジェは、体を洗ってからノートパソコンの前に座った。
ナビが今日撮った映像を画面に出した。
〈はぁ……はぁ……〉
〈ちょっと待って……〉
〈ああ、クソ……〉
ウンジェは再生を止めた。
「こんなの誰が見るの?」
「君が撮ったんでしょ」
「それはわかってる。でも、つまんなすぎじゃない? 走りながらだと話せないんだよ」
次の場面に送った。
スニーカーが映った。
また送った。
今度は額が映った。
その次は、長いこと空が映っていた。
「なんで空を撮ったの?」
「きつすぎて、手を下ろしちゃったみたい」
「視聴者の皆さんに、ソウルの雲の動きをお届けするコンテンツ?」
「ちょっと、真面目に考えてよ」
ウンジェは椅子の背にもたれた。
「運動すると話せないし、話すと運動できない」
「ついに気づいたんだね」
「ほかの人はどうやってるの?」
「たぶん君より運動が得意なんでしょ」
「うわ、ほんと役に立たない」
ナビは前足をきちんとそろえた。
パソコンでは編集ソフトが動いていたが、見た目はただ机の上に座っている猫だった。
ウンジェは目を細めた。
「今、別のことしてるでしょ?」
「してない」
「株見てる?」
「両方できるから」
ウンジェはナビの両頬をつかみ、自分のほうへ向けた。
「こっちが先」
「顔を向けたって、計算してることは変わらないよ」
「気分が変わるでしょ」
ナビは前足でウンジェの手を押しのけた。
「前に撮ったのもあるでしょ。ランニングシューズを三十分も自慢したやつ」
「自慢じゃないよ。情報を伝えたの」
「本物かどうかもわからないって言ってたけど」
ウンジェは答えず、別のファイルを開いた。
画面の中の自分は、シンジョントッポッキの揚げおでんについて熱心に説明していた。
今日の運動映像より、ずっと生き生きしていた。
「これを前に入れて、今日の運動を後ろに入れたら?」
「できるよ」
「でもそれだと、いきなりダイエットする人にならない?」
「だから、なんで痩せようと思ったのか説明すればいいんだよ」
ウンジェは一瞬、言葉を止めた。
昨夜の路地が浮かんだ。
自分の手首をつかんだ手と、どれだけ引っ張っても抜けなかった腕。
それまでカメラの前で話したくはなかった。
ナビはウンジェを見た。
「Vlogでそういう話をする必要はないよ」
「読心術でも使ってるの? なんであたしの考えてることがわかるの?」
「急に手首を触り始めたから」
ウンジェは手を下ろした。
「ただ……思ったより体が弱かったから、運動しようと思ったって言えばいいよね?」
「それで十分だよ」
「つまんないって言われたら?」
「君が運動する理由は、面白くするためじゃないでしょ」
ウンジェはうなずいてから、すぐに首を振った。
「いや、でも動画は面白くなきゃ」
「それはそう」
二人はしばらく黙って画面を見た。
映像の中のウンジェが宣言した。
〈ソ・ウンジェの充実生活プロジェクト、始めます〉
そのすぐ次の場面で、ウンジェはベンチに突っ伏した。
〈クソ、マジで死ぬほどきついんだけど〉
ウンジェとナビが同時に顔を上げた。
「つなげてみて」
「もうつなげた」
―――
問題はタイトルだった。
[二年間寝たきりだった女の、壮絶リハビリ挑戦記]
ウンジェはその文を読んだ瞬間に消した。
「これ、かわいそうすぎるでしょ」
「じゃあ君が書いて」
[終わりました。退院したらズボンが入りません]
「壮絶すぎるね」
「事実ではあるじゃん」
ナビは返事をしなかった。
ウンジェはしばらくスマホをたたいてから、短いタイトルを書いた。
[無礼な体重計と戦った女子大生Vlog]
「これだ」
「ズボンの話も入れたら面白そうだね」
「今撮ればいいじゃん」
ウンジェは退院するときにはいていたズボンと、新しく買ったズボンをベッドに広げた。
そしてスマホを手に取った。
「皆さん、あたしの服を全部見せるわけにもいかないんですけど、そもそも服があんまりないんですよね。二年間寝たきりで退院したんで、まあ当然、服もないですよね。で、これが退院するときにはいてたズボンなんですけど、今は入らないんですよ。最初は洗濯を失敗したのかと思ったんですけど……」
机の上で、ナビが顔を上げた。
「この前は服が縮んだんだろうって思ったんですけど、よく考えたら、このズボン、一度も洗ってなかったんですよ。それで、とにかくもう一本買いに行ったら、前のサイズのズボンが入らないんです。ああ、マジで終わったって、そのとき気づきました。体重計も、もともと自分で買ったやつじゃなくて……いや、あたしが買ったんだ。とにかく体重を量ったら、なんと人生最高体重を更新してたんですよ? しかも、こいつの見てくる感じが本当に無礼で……」
また口が止まらなくなった。
ウンジェは二本のズボンを交互に掲げながら、熱心に説明した。
ナビは動画の使えそうな部分に印をつけながら、少しだけ元の調査画面を開いた。
脳損傷の治療や意識の回復に関する資料が残っていた。読んでいた論文は途中で止まっていて、知らない用語を調べるために開いた文書がいくつもあった。
その横では、体重計が悪いという主張が続いていた。
ナビは調査画面を閉じず、脇に移した。
マジアンの肉体を取り戻す問題は、まだ解決していなかった。
それまでは今の肉体で生きていく方法を探すことも、必要なことだった。
もちろん、体重計に責任を押しつける必要まではなかった。
「もう撮るのやめて」
「えー、なんで?」
「体重計が君を訴えるって」
―――
十分を少し超える動画が一本完成したのは、午後になってからだった。
ウンジェはイヤホンをつけ、最初から最後まで見た。
不要な部分が消え、字幕が入ると、撮影していたときとはまるで違う感じだった。自分の言葉が詰まった瞬間には、字幕が代わりに話していた。
[話すことがないなら、とりあえず走ってみましょう]
その下で、ウンジェが息を切らしていた。
「ねえ、これ、あたしをからかう動画じゃない?」
「面白くしてって言ったでしょ」
「あたしだけ面白くない気がするんだけど」
そう言いながらも、ウンジェは同じところを二度見返した。
アップロードが終わると、チャンネルの挨拶動画の隣に、新しい動画が一つ増えた。
ウンジェは再生回数を確認した。
再生回数 1
「あたしが見たのも入るの?」
「もう見るのやめなよ」
「あと一回だけ」
更新しても、数字は変わらなかった。
そのとき、スマホが鳴った。
登録していない番号だった。
営業電話かと思って迷ったあと、ウンジェは通話ボタンを押した。
「もしもし?」
〈ソ・ウンジェさんでよろしいですか? ソンヒ大学の学務支援チームです〉
ウンジェは背筋を伸ばした。
ナビも顔を上げた。
「はい! 何か出し忘れてましたか?」
〈いいえ。復学申請は受理されています。学科に学生さんのご事情をお伝えしたところ、地理学科から今回のオリエンテーションにぜひ参加していただければ、とお話がありまして、ご連絡しました〉
「オリエンテーションですか?」
〈はい。実際に大学生活を送るのは初めてですよね。履修登録や学科生活の案内を受けたり、今回一緒に授業を受ける学生さんたちと挨拶したりしていただけるように、ということです〉
ウンジェはナビを振り返った。
ナビは一度うなずいた。
「でも、あたし、新入生じゃないのに行っていいんですか?」
〈学科が事情を承知したうえでご案内していますので、大丈夫です。詳しい日程と参加申込方法は、メッセージでお送りします〉
ウンジェは何度もお礼を言った。
通話が終わるとすぐにメッセージが届いた。
ウンジェはリンクを開いた。
地理学科新入生オリエンテーション。
来週の木曜日から金曜日まで、一泊二日。
大学に集合してバスに乗り、近郊の研修施設へ向かう日程だった。
「一泊二日?」
「何?」
「泊まってくるってこと?」
「そうだろうね」
ウンジェは画面を素早くスクロールした。
学科紹介、履修登録の案内、グループ活動、夕食と交流の時間。
わかる言葉もあれば、何をするのか想像しづらい項目もあった。
ナビは履修登録の案内を見ていた。
ウンジェは別のものを見ていた。
「撮るものができた」
「何?」
「女子大生Vlog! オリエンテーション!」
ナビは目を閉じて、開いた。
「大学で何を学ぶのかも、まだ知らないでしょ」
「地理」
「だから、地理学科で具体的に何を学ぶのかってこと」
「地理っとくる、すっごい科学とかじゃない?」
「それ、何……」
ナビは答えるのを諦めた。
ウンジェはもう参加申込画面を開いていた。
名前と連絡先を入力し、学籍番号の欄で少し止まった。
「これ、どこに書いておいたっけ?」
「復学案内の紙」
「どこにある?」
「机の引き出し」
「おお! ねえ、ナビ。なんで何でも知ってるの?」
「僕は賢いから。とりあえず引き出しを開けて」
引き出しから紙を取り出したウンジェは、学籍番号を書き写した。
宿泊の有無を確認し、参加申込を済ませてから、ようやくベッドにどさりと座った。
「あたし、本当に大学生になるんだね」
さっきまで騒いでいた声よりも小さかった。
ナビはウンジェを見た。
ウンジェは再び案内を開き、集合場所を確認した。
画面に書かれた大学名を、指で一度なぞった。
「この大学に入るために、ほんとにいっぱい勉強したんだよ」
「君が?」
「なわけないでしょ。ウンジェが」
言い終えると、二人ともしばらく黙った。
ウンジェはぎこちなく笑った。
「まあ、とりあえず、あたしがちょっと楽しめばいいよね。キャンパスライフ」
ナビはうなずいた。
そしてスマホの予定表に、出発時間と持ち物を入力し始めた。
「撮影は、ほかの人に先に聞いてからね」
「当然でしょ」
「みんなで説明を聞いてるときに、一人だけカメラに向かってしゃべらないでよ」
「だから当然でしょ」
「友達を作りに行くんだから。出演契約を結びに行くわけじゃないんだよ」
「いったいあたしを何だと思ってるの? ウンジェはバカじゃないんですけど!」
ウンジェが不満げに言い返した瞬間、スマホが鳴った。
ウニョンだった。
[新しい動画見たwww 体重計に何してんの]
ウンジェの表情がたちまち明るくなった。
その下に、もう一つメッセージが届いた。
[ところで、復学はどうなった?]
ウンジェは両手でスマホを持ち、返信を書き始めた。
ナビはその横で持ち物リストを確認した。
洗面用具。
着替えと下着。
身の回りの物。
学生本人であることを確認できる身分証。
ウンジェが声をかけた。
「ナビ」
「何?」
「あんたも行くんでしょ?」
「僕が? なんで?」
ナビはリストを見直した。
持ち物に猫はなかった。




