第四幕:孤独は消えない。
愛する人が遠くへ行く。
その事実を受け入れることは難しい。
追いかけたくなる。
引き留めたくなる。
けれど、どうしても届かない場所がある。
これは、去りゆく者を見送ることを学んだ、一人の男の物語。
三部作に対する、最後の返事である。
──彼の話。
彼女は、ときどき消えたがっていた。
死にたい、ではない。
消えたい、でもない。
もっと曖昧な何かだった。
「溶けたい」
と彼女は言った。
最初に聞いたとき、私は意味が分からなかった。
「氷みたいに?」
と聞くと、
違う、と彼女は笑った。
「もっとやわらかく」
それだけだった。
私は何度も彼女を引き留めようとした。
名前を呼んだ。
手を握った。
温かい飲み物を入れた。
明日の予定を話した。
けれど彼女は、少しずつ遠くへ行った。
部屋の隅で雨を見ている時間が増えた。
窓ガラスを流れる水滴を、
まるで懐かしい友人を見るような顔で眺めていた。
私は怖かった。
人は死ぬより先に、
世界から薄くなっていくことがある。
彼女はそうなりかけていた。
ある日、彼女から返事が来なくなった。
手紙も。
電話も。
どこかへ送った言葉は、
雨の中へ投げた小石みたいに沈んでいった。
たまらなくなって呼び出し音を鳴らしても、
受話器の向こうからは、冷たい機械音声が流れるだけだった。
『おかけになった電話番号は、現在使われておりません……』
彼女は自ら、世界と自分を繋いでいた細い糸を、静かに切り落とした。
私という存在のすぐ目の前で。
「どうして」
と私が聞くと、
彼女は窓の外を見つめたまま、ぽつりと言った。
「届きすぎるの」
彼女の声は、もう半分ほど雨の音に混ざっていた。
「名前とか、そういうもので縛られていると、苦しくなっちゃうの。もっと、やわらかくなりたいの」
部屋の隅で雨を見ている彼女の身体は、夕暮れの光に透けて、後ろの壁の模様がうっすらと見えるようになっていた。
私は彼女の腕を掴もうとした。
けれど私の指先が触れたのは、確かな肉体の持ち主ではなく、ただ夏の終わりに残された、ぬるい湿気のような手触りだけだった。
──ある夜。
私は目を覚ました。
静かだった。
隣を見る。
彼女がいない。
部屋の灯りも消えている。
胸の奥が冷たくなった。
名前を呼んだ。
返事はない。
立ち上がろうとして、
足を止めた。
誰かがいた。
いや。
誰かではない。
部屋そのものが、
彼女になっていた。
カーテンの揺れ。
机の木目。
冷蔵庫の低い唸り。
夜の空気。
そこに彼女がいた。
不思議と恐怖はなかった。
あまりにも彼女らしかったからだ。
彼女は昔から、
何かひとつの形に収まる人ではなかった。
雨を見ているときも。
黙っているときも。
笑うときも。
どこか輪郭からはみ出していた。
だから、
ああ。
──とうとう溶けたのか。
と私は思った。
窓の外で雨が降っていた。
彼女が好きだった雨だ。
私は椅子に座った。
帰ってこいとは言わなかった。
言えなかった。
たぶん、
帰ってこないからではない。
もうどこにも行っていないからだ。
しばらくすると、
声がした。
耳ではなく、
もっと別の場所で聞こえた。
「もう頑張らなくていいよ」
彼女の声だった。
優しかった。
泣きそうになるくらい。
優しかった。
その瞬間、
世界の硬さが少しだけほどけた。
長い間抱えていた怒り。
恥。
後悔。
諦め。
そういうものが、
雨に濡れた紙みたいに柔らかくなった。
なくなったわけではない。
まだある。
けれど以前ほど鋭くない。
──朝が来た。
いや。
夕方だった。
時計を見るまで分からなかった。
食卓には冷めかけたお茶があった。
向かいの席を見る。
彼女がいた。
少し透けていた。
私も少し透けていた。
おかしくて笑った。
彼女も笑った。
「まだいる?」
と彼女が言った。
「まだいる」
と私は言った。
私は頷いた。
本当に、
それだけだった。
説得もない。
約束もない。
救済もない。
ただ、
そこにいる。
彼女は小さく目を細めた。
それだけで十分だった。
窓の外では、
相変わらず雨が降っていた。
世界は何も治っていなかった。
人は相変わらず孤独だった。
明日になれば、
また傷つくかもしれない。
それでも。
食卓を挟んで、
彼女がいる。
私がいる。
だから今日だけは、
壊れきらなかった。
雨は静かに降り続いていた。
今日はまだ、海にならなかった。
彼は彼女を救わなかった。
彼女も彼を救わなかった。
二人は何も解決していない。
世界も変わらない。
それでも、同じ食卓に座った。
「まだいる」
その一言だけを交わして。
もしかすると、
人が誰かに与えられる最大の救いとは、
正しい答えではなく、
『今日、ここにいる』
という事実なのかもしれない。




