第三幕:みんな、やわらかい海になる
疲れた人は、ときどき思う。
全部やめてしまいたい。
名前も。
責任も。
痛みも。
けれど本当に望んでいるのは、消滅ではないのかもしれない。
これは、世界との境界を手放したいと願ったひとりの女の物語。
雨の日に読むための、小さな神話である。
私はときどき、ドロドロに溶けてしまいたくなる。
骨もいらない。
名前もいらない。
昨日も明日もいらない。
全部なくなって、温かいスープみたいになりたい。
窓辺で雨を見るたびに思う。
──雨粒はいいな、と。
空から落ちてきて。
地面に触れたら、自分がどこまでだったのかわからなくなる。
──あんなふうになれたら楽だろう。
だから私は毎晩、少しずつ溶ける練習をした。
思い出を一つずつ机の上へ置いていく。
好きだった本。
恥ずかしかった失敗。
昔の約束。
誰かの声。
そうやって置いていくと、心の輪郭が少しずつ曖昧になった。
──そして、少しずつ。
私は本当に溶けてしまった。
驚かなかった。
悲しくもなかった。
ただ、ああ、こういうことだったのかと思った。
溶けるというのは、消えることではなかった。
広がることだった。
私は部屋の隅まで広がった。
天井まで広がった。
夜の町へ広がった。
──そして気づいた。
みんなも同じだった。
みんな固まっているだけだった。
本当は。
本当はみんな。
少しずつ溶けたがっていた。
だから私は囁いた。
誰にも聞こえない声で。
「もう頑張らなくていいよ」
すると町の人々は少しずつ柔らかくなった。
怒りは湯気になった。
嫉妬は雨になった。
悲しみは静かな水たまりになった。
人々は形を失った。
けれど消えなかった。
むしろ初めて、お互いに混ざり合えた。
誰が誰なのかわからない。
でも不思議と寂しくない。
海の中で波を区別できないように。
私たちは大きなひとつの揺らぎになった。
──最後まで固いままだったのは、空だけだった。
青く、遠く、頑固だった。
だから私は空へ向かって手を伸ばした。
ドロドロになった指先で。
すると空にも小さなひびが入った。
そのひびから、朝日が溶け出した。
夕方だった。
食卓には冷めかけたお茶。
窓の外では風が鳴っている。
私はいた。
彼もいた。
二人とも少し透けていた。
「まだいる?」
と彼女が言った。
「まだいる」
と彼が言った。
それだけだった。
それだけで十分だった。
まだいる。
窓の外で、
雨が降り続いていた。
溶けることは、消えることではなかった。
広がることだった。
境界を失うことだった。
誰かと混ざり合うことだった。
孤独をなくすことはできない。
けれど、孤独の輪郭を少し柔らかくすることはできる。
彼女は、その方法を知っていたのかもしれない。




