表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『孤独への応答』──所有 → 保存 → 融解 → 共存へ  作者: かぐつち・くまナぱ(便乗期間限定w)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/5

第二幕:硝子の庭で踊る女

人は忘れる。


季節を忘れ、

約束を忘れ、

愛した誰かの声さえ忘れてしまう。


それでも。


忘れたくないものは確かにある。


これは、消えていく世界を書き留め続けた、名もなき記録者の物語。


硝子の庭に咲いた、静かな幻想譚である。


 女は毎朝、鏡の中の自分に塩を振りかける。


「腐らないように」と彼女は言う。


誰にでもなく、空気に向かって。


町の人々は彼女のことを「あの家の女」と呼ぶ。


名前を使うことを、なぜか誰もしなかった。


名前を口にすれば、何かが変わってしまう気がしたのだ——


たとえば空の色とか、パンの焼ける匂いとか、そういう大切なものが。



 彼女の家には窓がない。


正確に言えば、かつては窓があった場所に、今は魚が泳んでいる。


壁の中を、銀色の魚たちが泳いでいて、夜になると壁が波の音を立てる。


彼女はそれを「普通のこと」だと思っていたし、実際そうだったのかもしれない。


 

 ある秋の午後、彼女は庭で椅子を育てていた。


土に脚を埋めた椅子が、ゆっくりと葉を広げている。


赤い葉だった。


座面から芽が出て、背もたれに鳥が巣を作っていた。


彼女はその巣に手紙を入れた。


差出人も、宛先も書かない手紙を。


「届くから」と彼女は言った。


「行き先を知らないものだけが、本当に届くのよ」



 隣の老人が垣根越しに覗いていた。


老人は毎日覗くが、一度も声をかけたことがない。


彼女も気づいているが、気づいていないふりをする。


気づいてしまったら、老人が消えてしまう気がするから。



 彼女が最後に泣いたのは、七年前だ。


そのとき流した涙が床に落ちて、小さな湖になった。


今でもその湖はリビングの隅にある。


金曜日になると、湖に月が映る。


曇りの日でも、雨の日でも、夜でなくても——金曜日なら、必ず月が映る。


彼女はときどき、その湖に指先を浸す。


冷たくて、少ししょっぱい。


「泣くって、これのことだったのね」と彼女は思う。


「随分と、遠いところに置いてきてしまった」



 冬が来ると、彼女の影が先に起きる。


彼女がまだ眠っているうちに、影は台所でお茶を淹れる。


彼女が目を覚ますと、湯気が立っている。


彼女は礼を言わない。


影に礼を言う習慣が、この家にはない。


ただ、カップを両手で包むとき、彼女は少しだけ目を細める。


それで十分だと、影も知っている。



 春になると、庭の椅子が歩き始める。


どこへ行くのかは誰も知らない。


ただ、翌朝には必ず戻ってきて、また土の中に脚を埋めている。


座面についた泥を、彼女は丁寧に拭う。


「どこへ行っていたの」


椅子は答えない。


葉を二、三枚、揺らすだけだ。


彼女はそれで納得する。


言葉にならないものの方が、ずっと多くを語ることを、彼女はよく知っていたから。



 彼女は今日も、鏡の中の自分に塩を振りかける。


「腐らないように」


鏡の中の彼女だけが、微笑んでいる。


今日もまた、少しだけ近くで。



──私はそれを書き留める。


もう何年もそうしている。


彼女が最後に泣いた日も。


椅子が初めて葉をつけた春も。


壁の魚たちが夜の波音を覚えた頃も。


書き留めてきた。


書かなければ忘れてしまう気がした。


忘れてしまえば、彼女は腐ってしまう気がした。


だから書く。


名前を知らないまま。


この町の誰も口にしない名前を、知らないまま。


書き続ける限り、彼女はここにいる。


そう信じている。


けれど、ときどき思う。


私が書くたびに、


彼女は少しずつ鮮明になっているのではないかと。


 壁の魚よりも。


 涙の湖よりも。


 冬の影よりも。


 私よりも。


 昨日より近くで。


 去年より近くで。


鏡の中の彼女だけが、こちらを見ている。


 そして、ときどき。


私の書いたはずのない一文が、紙の上に増えている。


 ほんの短い文章だ。


 いつも同じ言葉。


その文字は、私の筆跡によく似ている。


 だから私は、明日も彼女を書く。


書かなければ、


彼女を忘れてしまうからではない。


私が私を忘れてしまう気がするからだ。



保存することは、所有することとは違う。


閉じ込めるのではなく、見送らないために残すこと。


けれど記録とは不思議なものだ。


書いているつもりで、いつの間にか書かれている。


見つめているつもりで、いつの間にか見つめ返されている。


その境界は、鏡の向こう側のように曖昧である。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
不思議な世界の中で、「魚が泳んでいる」が誤字なのかどうなのか気になってしまいました。 椅子を育てる世界観だから表現の一つなのかなとか……。 書き留めることで、お互いの存在を繋ぎとめているような。 書…
純文学でしょうか。 不思議な世界ですね〜。 (・∀・) 塩をふりかけるのは清めと保存かなぁ。 (*´ω`*) 勝手に文が増えているのは軽くホラーな気もしますけど、そういや自分自身の身にも起こってい…
うわ。 名前を言ってはならない存在なの? 有名どころだと「みだりにその名を唱えてはならない」ヤハウェや、名を呼ぶ事自体が召喚のキーになるハストゥールさまだよなあ。 いあ! いあ! はすたあ! はすたあ…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ