第一幕:執着の糸
愛は時として、人を優しくする。
そして時として、最も美しい形で人を壊す。
これは、『失うこと』を受け入れられなかった一人の女の物語。
愛が『執着』に変わる瞬間。
その境界線を描いた、満月の劇場の怪談である。
薄暗い劇場の客席に、彼女はいつも一人で座っていた。
舞台の上では、かつて彼女が愛し、そして彼女を裏切った天才ピアニストの男が、完璧な旋律を奏でている。
彼女の顔には、生気のない微笑みが張り付いている。
男は若く美しい恋人を得て、絶頂期にいた。
──彼女、レイラは、男のすべてを支配していた自負があった。
彼の無名時代を支え、その才能を世に見出させたのは自分だ。
彼が放つ輝きは、自分が注いだ血と涙の反射に過ぎない。
それなのに、男はあっさりと彼女を捨てた。
「君の愛は重すぎる」
去り際に彼が残した言葉を、レイラは毎夜、暗い部屋で反芻した。
重すぎる?
違う。
足りないのだ。
彼の肉体も、魂も、その指先から生まれる音楽も、すべて私のコレクションでなければならない。
彼女は行動を起こした。
ストーキングという生ぬるいものではない。
彼の日常のすべての隙間に、目に見えない罠を仕掛けていった。
──コンサートホールの鍵盤に触れた瞬間、男の指がわずかに凍りつく。
音が違う。
ほんのわずかに。
他の誰にも分からない。
世界のどこかが、確かにずれている。
けれど彼だけは知っていた。
世界で唯一、男の絶対音感だけがそれを鋭敏に捉え、脳裏に名状しがたい予兆となってこびりつく。
楽屋に戻れば、嗅ぎ慣れないお香の匂いが、煙のようにまとわりついた。
男が集中しようと深く息を吸い込むたび、その香煙が彼女の冷たい指先を連想させ、背筋を這い上がってくる。
そして、毎朝、ポストには白い封筒が入っていた。
中身はいつも完全な白紙だった。
しかし、それは二人がかつて愛を囁き合った、あの劇場のパンフレットと同じ、特殊な紙の手触りをしていた。
文字のない白紙こそが、何よりも饒舌に彼女の存在を告げていた。
──男の日常は、音を立てずにきしみ始めた。
男は次第に精神を病んでいった。
演奏中に突然手が止まり、誰もいない客席を見つめて怯えるようになった。
新しい恋人も、彼の異常性に耐えかねて去っていった。
ある嵐の夜、男はついに限界を迎えた。
無人の劇場で、彼は狂ったようにピアノを叩きつけていた。
背後で、パチ、パチ、とゆっくりとした拍手が響く。
振り返った男の目に映ったのは、漆黒のドレスをまとったレイラだった。
その瞳は、暗闇の中で爛々と輝いている。
「やっと気付いてくれたのね。あなたの音楽が、私を求めて泣いていたわ」
男は恐怖に顔を歪めた。
「お前か……お前が僕の邪魔を……!」
「邪魔?」
レイラは鈴を転がすような声で笑った。
「私はあなたを完成させにきたのよ。あの安っぽい女と付き合ってから、あなたの音楽は濁っていた。今の、恐怖に震えるあなたの指先こそ、世界で最も美しい音を奏でられる」
男は逃げようとしたが、連日の精神疲労で足がもつれ……ステージに倒れ込んだ。
レイラは迷いのない足取りで近づき、彼の背中にそっと触れた。
その手つきは、恐ろしいほど優しかった。
──翌朝、劇場には静寂が満ちていた。
警察が駆けつけたとき、ステージの上には奇妙な光景が広がっていた。
男は、ピアノの前に座ったまま事切れていた。
その表情は恐怖に凍りついている。
しかし、その指先は完璧な『ショパンの革命のエチュード』の最初の和音の形に固定されていた。
彼の指は、一本ずつ丁寧に、美しい絹の糸で鍵盤に縫い付けられていたのだ。
そして、男の足元には、切り取られた彼の美しい「耳」が、まるで宝石のようにガラスの小箱に収められて置かれていた。
レイラの姿は、どこにもなかった。
ただ、劇場の楽譜の最後のページに、彼女の筆跡でこう残されていた。
「これであなたの音楽は、誰の耳にも触れることなく、私だけのものとして永遠に完成した。私たちは、次のステージへ行くの」
今でも、満月の夜の閉館された劇場からは、誰も弾いていないはずの、美しくも狂気に満ちたピアノの旋律が聞こえてくるという。
そしてその音は、どこか女のすすり泣き、あるいは、高笑いのように聞こえるのだった。
けれど私は知っている。
彼女は消えてなどいない。
今もどこかで、
誰かの輪郭を指先でなぞっている。
それが愛だと、
まだ信じているように。
女は男を愛していた。
それは疑いようもない。
ただ、その愛は相手を照らす光ではなく、閉じ込める灯になってしまった。
誰かを永遠に手元に置きたいと願う心。
それは誰の中にもある。
だからこそ、この第一幕は怪物の話ではない。
私たち自身の影の話なのだ。




