第八話:聖痕の代償、銀の戒律(改稿)
第八話:聖痕の代償、銀の戒律
「静寂の修道院」の地下、冷たい石床が横たわる者に無慈悲な眠りを与えていた。
意識の底、底知れぬ暗泥の中に沈んでいたアレクサンダーが、焼けるような喉の渇きと共に、重い瞼をゆっくりと押し上げた。
歪む視界が最初に捉えたのは、埃の舞う聖堂の天窓から差し込む、一条の白銀の月光。
そして、その戦塵の中に咲いた一輪の白百合のごとき存在――聖なる光をその身に湛えた、ミリアムの横顔だった。彼女の祈りは、戦場で荒れ果てたアレクサンダーの魂を、冷たい清水のように浸していく。
「……ミリアム、なのか?」
掠れた、震える声。
アレクサンダーは本能のまま、その白く、あまりに細い手へと、救いを求めるように煤けた指を伸ばした。だが、指先が彼女の透き通るような肌に触れる直前、鋭い衝撃が彼の手を無慈悲に跳ね除けた。
「――不浄な手で、彼女に触れるな」
低く、冬の湖底を思わせる凍てつくような声。
そこに立っていたのは、返り血を浴びながらも一点の曇りもない銀の装甲を揺らす騎士、シーザーであった。彼の鎧は激戦の爪痕を残しながらも、なお厳格なまでの「規律」を放っている。
ミリアムは小さく安堵の溜息をひとつ零すと、二人の間に漂う一触即発の熱気を感じ取り、何も語らず、ただ静かにその場を後にした。
彼女の足音が遠ざかるのを、アレクサンダーは奪われた獲物を追う野獣のような眼で見送り、忌々しげに毒づいた。
「ケッ……相変わらず、高潔な騎士気取りかよ。おい、邪魔をするんじゃねえ。俺が誰に触れようが俺の勝手だ」
アレクサンダーの吐き捨てた嫌味を、シーザーは硬質な視線で平然と受け流す。
その瞳には、かつての兄弟に対する情愛よりも、重責を背負った番人としての険しさが勝っていた。
「馬鹿を言うな。貴様を貶めるため、あるいは私欲のために言っているのではない。アレクサンダー……貴様を、そして貴様の『力』を死守するためだ」
「守るだぁ? 寝ぼけたこと抜かしてんじゃねえよ」
跳ね起きようとするアレクサンダー。
しかし、それを許さぬ速さで、シーザーの鋼の籠手がその肩を力強く、岩盤のように押し留めた。
「自覚せよ、アレクサンダー。貴様は今や伝説に謳われる『聖王力』の継承者だ。だが知っておけ。その光は、鏡のごとき清冽なる魂にのみ宿る。……愛欲、憎悪、あるいは誰かに対する執着。そうした俗世の泥濘に心を浸せば、内なる光は瞬時に濁り、やがて反転した力は貴様自身を内側から焼き尽くすだろう」
シーザーの言葉は、逃れられぬ呪縛の鎖のように聖堂に重く響いた。
聖王力――それは神の領域に触れ、万物を平伏させる絶対の力。
しかし、その輝きを維持するためには、人間としての豊かな感情を、一切の雑味として切り捨てねばならないという。
アレクサンダーは鼻で笑い、不貞腐れたように顔を背けた。
「ハッ、笑わせるんじゃねえ。人を愛することも、憎むこともできねえ人形になれってのか? 血の通った人間を、神様の器に変えちまおうって寸法かよ。最高のジョークだな、英雄サマ」
だが、シーザーの瞳に揺らぎは微塵もなかった。彼はただ、深淵のような静寂を湛えた真顔で、アレクサンダーの逃げ場を塞ぐように、残酷な真理を突きつけた。
「――冗談ではない。感情という贅沢を捨て去ること。それこそが、神の代行者として地上の理を超えた力を振るう者が支払うべき、最低限の『代償』だ」
シーザーの厳格な人物像が、その言葉に滲み出ていた。彼は既に、自らの感情を法の冷たさに浸し、一人の青年としてではなく、一つの「秩序」として生きる決意を固めている。対照的に、剥き出しの命を叫ぶアレクサンダー。
二人の間に流れるのは、もはや分かち合えぬ宿命の断絶。
月の光に照らされたアレクサンダーの憤怒と、シーザーの銀色の戒律が、冷え切った聖堂の中で静かに、そして激しく火花を散らしていた。




