第二十話:地獄王の咆哮、深淵の密約(改稿)
第二十話:地獄王の咆哮、深淵の密約
数万の観衆が発する熱気が、すり鉢状の闘技場の底に淀み、酸素を希薄にさせていた。
会場を揺るがす地響きのような足踏みが、石造りの観覧席を震わせ、人々の野蛮な興奮を最高潮へと押し上げる。
観衆の期待を煽るべく、黄金の法衣を纏った主催者が身を乗り出し、喉を張り裂けんばかりに叫んだ。
「天上の神々よ、とくと見よ! 奈落の底より這い出し、絶望の泥を啜りて無敵へと至った、生ける伝説! 死神の鎌を叩き折り、地獄の門番を屠りし、血塗られた王――! その名は、『地獄王グランバード』!!」
鉄格子の扉が重々しい音を立てて跳ね上がると、暗い産道から這い出るようにして一人の男が現れた。
かつての聖戦士、アレクサンダー。
その身には、動きを制限するための重い鉄鎖が幾重にも巻き付けられ、歩くたびにジャリ……ジャリ……と不吉な音を立てる。
だが、その眼光は以前にも増して鋭く、獣の如き覇気を迸らせていた。
奴隷商によって無理やり名付けられた「グランバード」という名は、わずか数日のうちに、この残酷な砂の上での絶対王者として、民衆の魂に深く刻み込まれていた。
その日の試合も、凄惨を極めた。
放たれた餓えた魔獣の群れを、アレクサンダーは武器すら使わず素手で引き裂き、名だたる賞金稼ぎたちの首を、まるで枯れ枝を折るように無造作に刈り取っていく。
それはもはや武術ではなく、生き延びるための、純粋で根源的な「殺戮」であった。
アレクサンダーが刃を振り下ろし、鮮血が砂を赤く染めるたび、観衆は神への祈りさえ忘れ、その圧倒的な暴力の奔流に酔いしれた。
特等席の影で、元老院議員コンスタンティンは、脂ぎった指を噛み、憎悪に歪んだ顔でその光景を睨みつけていた。
「死ね……。なぜ死なぬ、あの薄汚れた野良犬が……! 貴様の死をもって、レイミアは初めて絶望し、私の腕の中で泣き崩れるというのに!」
彼の呪詛とは裏腹に、アレクサンダーは砂の上に新たな死体の山を築き、返り血を浴びたまま悠然と引き上げていった。
観覧席の喧騒から遠く離れた、影の濃い回廊。
シーザーは独り、満足げに、そして酷く哀しげに口角を上げた。
(……やはりな。泥を啜ろうとも、屈辱にまみれようとも。アレクサンダー、お前の牙は折れてはいなかったか)
かつての兄弟の健在――その魂が未だ燃え盛っていることを確認し、彼は翻る白銀の外套と共に、冷徹な足取りでその場を去った。
だが、夜の帳が下りると同時に、聖域の裏側では不穏な火種が爆ぜ始める。
コンスタンティンは、下層街の薄暗い裏通りで、禁忌の品を扱う闇の奴隷商と密会を重ねていた。
その肥え太った体からは、権力者特有の不潔な汗が噴き出している。
「アレクサンダーを確実に殺せる『駒』を用意しろ。法に触れる毒でも、禁じられた魔族の呪具でも構わん……。あの男を、次の試合で確実に塵にしろ。代価ならいくらでも払う」
一方、シーザーもまた、月の見えない闇の中で密やかな会合を繰り返していた。
集まったのは、かつての聖騎士団の生き残り、そして腐敗した法国の体制に疑問を抱く若き志士たち。
彼らは皆、かつてのシーザーが持っていた清廉な理想を捨て、今や実利と変革を求める「影」となっていた。
「準備は整ったか。……この腐りきった元老院を根こそぎ、天の欺瞞を焼き払う準備が」
シーザーの声は、もはや騎士の勧告ではなく、革命者の宣告であった。
闘技場の熱狂は、爆発寸前の導火線へと火を灯そうとしていた。
アレクサンダーの底知れぬ暴力が、シーザーの冷徹な知略が、そして鳥籠の中で静かに微笑むレイミアの毒が。
三つの力が再び重なる時、法国の平和という名の偽典は、音を立てて崩壊するだろう。地獄の蓋が、今まさに開こうとしていた。




