第十五話:陥落する聖域、濁りゆく血脈(改稿)
第十五話:陥落する聖域、濁りゆく血脈
「ミリアムを頼んだぞ。……お前の『正義』で、彼女をこれ以上の泥濘から守り抜け」
「……言われずとも、任せておけ。それが私の、騎士としての最後の誓いだ」
アンクールの城門前、アレクサンダーとシーザーが交わした握手は、鋼のように硬く、そして冬の刃のように冷ややかだった。
互いにそれ以上の言葉は不要だった。否、もはや互いの瞳の奥に潜む「闇」を正視できず、語るべき清廉な言葉を失っていたのだ。
二人は残酷なまでに自覚していた。
あの天使が堕天した夜、自分たちは魔王母メルフェレーンの誘惑に、そして天王界という名の非情な意志に完敗したのだ。
かつて三人の内に宿っていた、世界を照らすはずの輝かしい「聖王力」は、代償を払い損ねた報いとして、今や吹き消される寸前の灯火ほどにまで減衰し、濁っていた。
シーザーとミリアムを乗せた馬車が地平線の彼方へ消え、その轍さえ砂塵に消えるのを見届けた後、アレクサンダーは独り、踵を返して王宮の奥底へと足を進めた。
アンクールの新たな女王として、そしてアレクサンダーの「戦利品」として即位したレイミア。
アレクサンダーは、何かに取り憑かれたように、あるいは飢えた獣が自らの傷を癒やすように、夜ごと彼女の肢体を貪った。
それが愛ゆえの情動か、あるいは聖女を失った喪失感を埋めるための狂気か。
肌を重ね、彼女の吐息を吸い込む度、アレクサンダーの耳の奥ではメルフェレーンの嘲笑が、呪いのように絶えず木霊していた。
かつて魔獣を素手で引き裂いた勇猛な肉体は、今や上質な絹の寝衣と、溺れるような情欲の熱に蝕まれていく。
その腐敗は、王一人にとどまらなかった。
かつては鉄の規律を誇り、アンクールの民の希望であった聖騎士団もまた、都に満ちる淫蕩な空気に呑み込まれた。
魔王母が遺した誘惑の種は、数日を待たずして彼らを堕落の淵へと引きずり込んだ。
かつての栄光、忠誠、そして誇りは、安酒の香りと女たちの嬌声の中に、跡形もなく消え失せていった。
月日は残酷に流れ、一年が過ぎた。
アンクール王国では、王アレクサンダーと女王レイミアの間に、世継ぎとなる王子レイスが産声を上げた。しかし、その産声はかつてのアレクサンダーのような獅子の咆哮ではなく、どこか冷たく、湿り気を帯びたものであった。
一方、遥か彼方の地、静寂の修道院を再建した「タルカ法国」の奥深くでは、ミリアムもまた一人の娘を授かっていた。
名はリディア。
その背には、人間ならざる者の証――淡い光を放つ小さな翼の断片が宿る、半天使の幼子であった。
表向きは、第一線を退き、法国の権力を握る元老院の一員となった夫・シーザーとの子とされていたが、その赤子の瞳には、かつて彼女を穢した堕天使タルカスの、昏い情熱の残光が宿っていた。
かつて、この世界を救う希望の星と信じられた「三人の赤子」たちは、今やそれぞれの椅子に座り、濁った現実を生きている。
アレクサンダーは、血と欲に塗れ、退廃の美学を謳歌するアンクールの覇王。
その眼差しからはかつての無垢な野心は消え、虚無的な支配欲だけが残っていた。
シーザーは、ミリアムを守るという大義の名の下に、政敵を次々と排除する冷徹な権力の亡者。その白銀の鎧は磨き上げられているが、その内側にある魂は、既に政治という名の泥に浸かりきっていた。
そしてミリアムは、神の呪いとも呼べる異形の子を抱き、慈愛の仮面の裏に絶望を隠し持つ、孤独な聖母。
「……これでいい。これが、俺たちが神の脚本を書き換えるために選んだ、『退化』という名の抗いだ」
豪奢な玉座に深く沈み込み、赤ワインの満たされた銀杯を傾けるアレクサンダーの独白を、夜のアンクールに吹く乾いた風だけが虚しくさらっていった。
かつての産声は遠く、三人の英雄たちの物語は、今や世界の終焉を加速させる、暗黒の叙事詩へと変貌していた。




