第十二話:魔王母の抱擁、崩落する偽典 (改稿)
第十二話:魔王母の抱擁、崩落する偽典
「救国の英雄たちよ。その人知を超えた武勲に相応しき、至高の報いを与えようではないか」
女王の湿り気を帯びた朱色の唇から、禁断の蜜のような甘美な提案が零れ落ちた。
差し出されたのは、富でも名声でもない。
アンクール全土を統べる王位、そしてその傍らに永遠に寄り添い、魂を蕩けさせる美貌の伴侶。
条件はただ一つ、目の前の女王を正妃として迎え入れ、共にこの「女の都」の主となること。
それは、男という性が抱く根源的な征服欲と愛欲を同時に貫く、あまりにも苛烈な誘惑であった。
謁見の間に漂う香油の香りが、判断力を鈍らせる霧となって英雄たちの思考を侵食していく。
「……断る。我らの剣は、私欲という名の泥濘を這うための道具ではない」
シーザーは眉一つ動かさず、吐き捨てるようにその提案を切り捨てた。
白銀の装甲が冷徹な月光を跳ね返すかのように硬質な光を放ち、彼の高潔さを、拒絶の刃として際立たせる。
だが、その隣でアレクサンダーは、不敵な笑みを浮かべながら王女レイミアを凝視していた。
その視線は獲物を吟味する肉食獣のようでもある。
「悪くねえ話だ。……だが、女王陛下。俺が選ぶなら、あんたじゃねえ。その隣にいる氷細工の王女殿下、こいつを俺の妃に迎えたいもんだな」
「アレクサンダー、貴様……! この状況で何を愚かな、正気を失ったか!」
「固いこと言うなよ、シーザー。最強の獲物を掌中に収める。……これも戦士としての『戦果』の一つだろ?」
激しく火花を散らす二人の兄弟。
その醜悪ともいえる言い争いを、女王は慈母のような、しかし底知れぬ嘲りと愉悦を孕んだ瞳で見つめていた。
男という愚かな種族が自壊していく様を、愉しむように。
だが、二人の背後から一歩、静かに、しかし死神のような足取りで前に進み出る影があった。
ミリアム。
彼女の瞳には、女王の妖艶な美貌も、王位という黄金の輝きも一切映っていない。
ただ、そこにある不浄な、魂を腐らせる「魔の淀み」だけを透徹に見据えていた。
「……その醜い戯れ、ここで終わりにしましょう」
ミリアムの細い腕が、電光石火の速さで女王の白い手首を掴んだ。
次の瞬間、彼女の指先から、太陽を凝縮したかのような純白の浄化の炎が爆ぜる。
「ギ、アアアァァァッ!!」
絶叫と共に、女王の透き通るような美しい肌が、まるで焼けた紙のように黒く焼け爛れていく。
その優雅な背から、骨のきしむ音を立てて悍ましい蝙蝠の翼が突き出した。
絶世の美女という偽りの皮を脱ぎ捨て、現れたのは魔王族の根源、魔王母メルフェレーン。
その髪は、星ひとつない極夜の闇のように漆黒でありながら、真珠のような滑らかな光沢を放っている。背中から生える蝙蝠の翼は、絹よりも薄く、しかし鋼よりも鋭い殺気を孕んで空を舞う。
その容姿は、清廉なミリアムとも、瑞々しいレイミアとも違う。
あらゆる生命を死へと誘い、魂を根こそぎ奪い去る「妖艶の美」。
その瞳は深紫の宝石のように燃え盛り、一瞥するだけで、並の戦士ならば心臓を止めかねないほどの魔力的な色気と威圧感を放っていた。
「忌々しい聖女め……! 神の愛玩動物風情が、我が深淵を覗こうというのか!」
メルフェレーンは呪詛に満ちた絶叫を上げると、謁見の間の天井を巨大な爪で粉砕し、黒い爆風となって舞い上がった。
「覚えておくがいい、三つの魂よ! お前たちの絆は、やがて愛という名の呪いによって腐り落ちるだろう……! 互いを喰らい合う地獄を、その身に刻むがいい!」
呪いの言葉を夜空に刻み、魔王母は黒い残照となって消え去った。
同時に、操り糸を切られた人形のように、王女レイミアの膝が折れる。
「……あ……ああ……っ」
「おい、しっかりしろ!」
崩れ落ちる彼女の細い体を、アレクサンダーが荒々しく、しかし壊れ物を扱うような力強さで抱き止めた。
催眠の霧が晴れたレイミアの瞳から、一筋の涙が零れ落ちる。アレクサンダーの胸板に触れたその手の温もりは、先ほどまでの冷徹なまでの美しさとは違う、生身の、そしてあまりにも脆い「人間」の熱であった。
アレクサンダーの腕の中で震える彼女の姿を、シーザーは無言で、しかし苦々しげに剣を鞘に納めて見つめる。ミリアムは天を仰ぎ、消え去った魔の気配の先にある、さらなる暗雲を見据えていた。
アンクールは解放された。
だが、それは偽りの平和。
救い出した王女という名の火種。
そして魔王族の深淵。三人を待つのは、救済という名で飾られた、さらなる地獄の序曲であった。




