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【見れどもあかぬ】

平安中期、武家とは言えど頻繁に戦をするような世の中ではなかった。穏やかな日々の中、黒髪を靡かせながら白く細い指が本のページを静かにめくる。琳秋はその様を暫し眺めた後、

「若様は本当にそれがお好きですね。」

と声をかけた。この家の庭には大きな池がある。その池の鯉たちは常に優雅で、柊月のお気に入りだった。池の周りには3つの岩があり、そこへ腰掛けて和歌集を読むのが柊月の日常である。

「りんも読んでみるといい。」

柊月は返事こそするものの、目線はその手の中に並ぶ文字に占領されたままだった。

「私にそれは読めませんから。」

琳秋は元々読み書きができず、ここへ来てから柊月が教えてはいるがあまり呑み込みは良くなかった。

「今読んでいらっしゃるものはどういったものなのですか?」

琳秋はただ柊月が文字たちから目をそらさないのが気に入らず、何か話しかけずにいられなかっただけであった。全くもってその和歌の意味が知りたいだとか、勉強意欲が湧いたなんてことでは無かったのだが…

「春霞がたなびく山の桜をいくら見ても飽きないように、何度逢っても飽きることのない、愛しいあなたである、と。」

柊月の口から出た予想外の言葉に、ついその焦げ茶の瞳に動揺の色を映してしまう。

「その詩を詠った者の気持ちがわかるのですか…?」

言ってから、琳秋は少し後悔した。この世には知らぬほうが幸せなこともあるからだ。しかし柊月は、ふっと笑みを零して顔を上げると

「いいや。私は生まれてこの方、一度も恋愛感情というものを抱いたことは無い。」

琳秋の瞳には一瞬にして輝きが戻り、それどころか口角が上がらぬよう抑えるのに必死だった。

「己が体験したことのないことでも、こうして和歌を通して誰かの気持ちを読むとそんな感情もあるのかと知ることができる。それが面白いのだ。」

そういうものなのか、と琳秋は柊月の言葉に耳を傾けきることで心を落ち着かせた。

「とはいえこの和歌集も何度も読み返していて新鮮味がない。りん、お前のこれまでの女性経験の話を聞かせよ。」

「(今、女性経験と仰られたか…?)」

やっとその黒く澄んだ瞳を自分が占領できたというのに、かけられた言葉はこれである。

「そう仰られましても、私も若様と同じですので。」

琳秋はさすがに少々心が重たくなり、いつもならばその黒い瞳から逸らすことのない視線を、今回ばかりは己の足元に落とした。

「お前、人を好きになったことがないのか?」

自分のことを棚に上げるかのように柊月が問うと、

「ありません。」

と俯いたまま琳秋が答えた。己の発言が原因で琳秋が少し傷心しているとはつゆ知らず、柊月は

「(ここへ来る前はそれなりに女に囲まれて生きてきたのかと勝手に想像していたが、そうかだったのか。)」

などと考えながら和歌集をパタンと閉じた。

おそらくそんな勘違いをしているのは柊月だけでは無い。この家のものの大半がそう思っているだろう。というのも、この琳秋という若い少年は、この時代には少し珍しい焦げ茶色の瞳と髪を持ち、その髪は緩くうねってはいるが柔らかく、後頭部の中心より少し上で束ねられた様はその天真爛漫さを映すようだった。さらにその瞳は大きく、世界の光の全てを集めて反射する。そんな瞳が、もう一度柊月の黒い瞳を捉えた。

「恋愛の和歌について、教えて頂きたいです。」

つい先程までダメージを受けていたとは思えない口ぶりで琳秋が言う。つまるところ、゛恋バナに花を咲かせて恋愛観を探るついでに己のことを意識してもらおう。゛ということである。傷ついても前向きにすぐに立ち直る、琳秋の長所の一つだ。

「教えて、と言われてもな。何が知りたい?」

この話の流れで、゛貴方様の好きなタイプが知りたいです!゛なんてことは言えないので、

「先程の詩のような恋愛の詩では、花をいれることが多いのですか?」

と詩についての話題から入ることにする。

「桜は恋愛の詩ではたとえに用いられることが多いのだ。想い人に想いを伝える際、花を添えることもあるらしい。試行錯誤して詩を詠み、花を選んで添えるだなんて、そこまでしたくなる感情がどのような物なのか、読んでいると気になってこないか?」

目尻を下げて楽しそうに言う柊月の後ろで、風に揺られた枝垂れ桜がふわりと揺れる。宙を舞った花弁はまるで柊月をそのまま攫ってしまうかのようだった。その光景に琳秋は喉仏を大きく一度上下させた。そして先程まで、゛詩の話題から入って恋バナをしよう゛なんて考えていたこともすっかり忘れ、反射的に口を開いていた。

「私ならば、この世の花を全て若様に送りたく存じます。」

柊月の手から、するりと和歌集が抜け落ち砂利の上にカシャッと音を立てる。お互いに瞬きも忘れて見つめあったあと、琳秋がハッとして砂利の上に無造作に開かれた和歌集を拾い上げてはたいた。

「花を選ぶ過程も相手への思いの表れだと、それは理解しております。しかし若様には似合わぬ花がないゆえ、ひとつに絞るなんてもったいないと思いましたので。一生をかけてこの世の花を全て捧げるのが私なりの愛の伝え方かなと。」

ここまで一息で言い切った琳秋は、弁明すべきは別の部分なのではないか?という考えが脳内に浮かびかけて無理やり引っ込めた。今更だからだ。

目の前の柊月は、しばらく固まった後

「自室に戻る。」

と一言だけ呟くと去っていってしまった。

残された琳秋はどうしてもその背中を追いかけることができず、しかし後悔もする気になれず、全くどうすれば良いのか分からないまま立ち尽くすしか無かった。

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