6、『名前』の使い方
いざ体育の授業が始まる。今日は五十メートル走で、モテる男子なんかは女子たちの注目の的となっていた。
そんななか、かんなぎがぶつぶつとなにかを呟いている。武弘は耳を澄ませ、かんなぎの言葉を耳で拾う。
「我が名は高宮天音」
瞬間、かんなぎの雰囲気ががらりと変わるのがわかった。
「神楽?」
恐る恐る声をかけると、かんなぎが『らしくない』すがすがしい笑みを湛えて武弘を見た。
「見てなよ、武弘!」
まるで別人だ。
もしかすると、別人に入れ替わったのかもしれないと思った。そもそも、名前を名乗るとその人間が憑依するのかも。今のかんなぎはかんなぎなのだろうか、高宮天音なのだろうか。
「神楽さん、頑張って!」
女子生徒の黄色い声援は、かんなぎにも向けられた。かんなぎは『らしくなく』女子生徒たちに手を振って、スタート地点に歩いていく。
構え、教師の合図とともにかんなぎが豪速で走る。その速さたるや、男子顔負けのそれである。
タイムは七秒〇八。
陸上部からも声がかかっているほどの速さである。
「たけちんさあ」
遠巻きにかんなぎを見守っていた武弘に、友人のひとりである秋野正が肘で突っついてくる。
「そんなに見つめちゃって。転校生と知り合いだし仲いいみたいだし。もしかしてコレですかあ?」
と、正は小指を立てて武弘を茶化す。武弘はとっさにかんなぎから顔をそらすも、かんなぎのほうから武弘に手を振った。
「武弘! 見てたー?」
溌溂とした声だ。どこか体育会系の女の子をほうふつとさせる、裏表のない元気な声。
まるでかんなぎには似合わないと、武弘はふいっとかんなぎから顔をそらした。
「別に。神楽と俺は、そんなんじゃないし」
言いつつも、悪い気はしなかった。かんなぎはかわいくて美人で、どこをどう見ても完璧な秀才だったからだ。そのうえミステリアスな雰囲気も相まって、クラス中、学校中の噂になるくらいだ。
「なんだ、武弘。儂を避けるとは」
「わ。いつの間にもとに戻ったんだよ」
「言ったであろう。この力は十分限りのものであると」
ふっとかんなぎが武弘を笑った。いつもの人を馬鹿にしたような笑みだ。だが、そのほうがかんなぎらしいのだから文句は言うまい。
「神楽って、ほかにはどんな名前持ってるの?」
「儂か? ……切り札は早々他人に教えるわけもなかろう?」
他人、と断言されたことが、少しだけ気に入らない。だが、それもそうかと思いなおす。かんなぎにとって武弘は単なる依頼人だ。今は武弘を『見張る』ために学校に潜入捜査中で、だけどこの呪いのメールの件が解決した暁には、かんなぎは学校を去るのだろう。
「なんだ、不機嫌か?」
「別に。俺とオマエって、大して仲良くないもんな」
むくれて、自分の餓鬼さを思い知る。かんなぎは見透かすかのように武弘を見て笑っていた。それが余計に武弘を不機嫌にさせた。
考え事をするときは、煮込み料理がちょうどいい。
今日はスーパーで牛すじ肉が半額だったため、たくさん買いだめしてきた。これを大根と煮て大量に作り置きして、何回かに分けて副菜として食卓に出す予定だ。
「なんだ、そのような硬そうな肉を」
「硬そうって。牛すじ肉マジで万能だからな? 煮込んでおけばカレーにもシチューにもできるし、もちろん、甘辛く煮てもうまい」
鍋にたくさんの湯を沸かしながら、武弘は牛すじ肉の血や汚れをきれいに洗い流す。
「まず、煮立ったお湯に酒を入れて、牛すじ肉を入れてゆでこぼす。十分くらいゆでたら鍋ごと水に晒して、牛すじ肉を洗う」
「ほう……なぜ直に煮込まぬ?」
「料理は下準備が大事なんだよ。臭み抜きに下茹では必須。で、これを一口大に切ったら、大根と水、ネギの青い部分とショウガのスライスとニンニクを入れて火にかける」
鍋一杯に水が張られ、武弘は重そうに鍋をコンロに乗せた。そのまま火にかけ沸騰までは強火で、沸騰したら弱火にして、一時間から二時間煮込む。
「貴様、儂を餓死させる気か?」
「いや、だってまだ四時だし。煮込んでる間に呪いのメールのおさらいしたいし」
「……貴様は料理はできるが謎ときはてんでダメだな」
「そういうオマエは、謎解き以外……いや、名前の力使ったらなんでもできるけど!」
「そうだな、儂はなんでもできる。いずれその料理の腕も、儂のものになろう」
そうだ、武弘のこの料理の腕は、武弘が死んだあとかんなぎに受け継がれる。それは幸いなことなのではと思う。武弘の生きた証、プライドをかんなぎが継ぐのだから。
そう思うと、この先より一層料理の道に励もうとさえ思えた。高校を出て専門学校に通って、社会に出て修行して、死ぬまで現役で腕を磨き続けたい。
「でも、この暗号、マジで意味わからんし、そもそもURLはまじない……一度きりのだからもう見られないし」
うんうんとうなりながら、武弘はスマホの画面をプリントした紙をにらみ見ている。
プリントアウトすればなにかがわかるかもと思ったのだが、そう簡単にはいかなかった。




