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第2話 スパイの男 ラスク


 領民でも知り得ないような裏道や森の中を抜け辿り着いたのは、廃墟となった神殿だった。天井は崩れ落ち、空が丸見えだ。階段の一段目に腰を掛けるようにそっと私は降ろされた。


「実はここ、僕のお気に入りの場所なんだ」


 にこっと笑いながら男は私の右隣に腰を掛け、息を整えている。女性とはいえドレスの重さを含めると50kgほどになる。そんな重さを片腕で軽々と持ち上げて走り切ったことに関しては拍手を届けたいが、お気に入りの話など今はどうでもいい。


「……助けてくれてありがとう。それよりあなたはどうして追われていたの?」

「ちょっとした遊びみたいなものだ。気にするな」


 遊びにしてはやけに全力疾走だったけれど、どうせ明日には会わなくなる相手だ。深く考えるのはやめておこう。

 私は帰宅するべく立ち上がった。


「おや、返答はなしか?」

「返答? 何の?」

「僕の一世一代の告白をなしにする気か?」

「えっ、あれは本気だったの? マルク公爵から助けてくれるための嘘かと……。でも私とあなたはさっき初めて出会ったわ」

「でもあのタイミングで出会えたのは、君とそういう運命だと思うんだけど」

「運命……ね。そんなの聞き飽きたわ」


 今日、婚約破棄をされたマルクもそうである。初めてマルクと会った時は「俺たちは結ばれる運命だ」と歯が浮くようなセリフを言われた。しかし蓋を開けてみれば甘い運命なんてものは存在してなくて、公爵の横でお飾りになる苦くて屈辱な運命しかなかった。きっとこの男も同じ類なのだろう……たぶん。


「君もなかなか大変な運命を背負って生まれてきたんだな」

「とにかく婚約者になんてなれないわよ。今さっき出会った人攫いのことなんて信じられるわけないでしょう。それに名前も知らないわ」


 先程、追手に名前を呼ばれていた気がするが、距離のせいでしっかり聞き取れなかった。


「あぁ、そうだった。僕はラー……。ラスクだ」

「あなた、今言葉に詰まっていなかった? 自分の名前をスラスラ言えないなんてやっぱり怪しい……」

「君の名前ならスラスラ言えるぞ、マーガレット」

「どうして名前を知っているのよ」

「僕は耳が良いんだ。婚約破棄を言い渡された時にマルク公爵がそう言っていただろ? それで君たちの会話に興味が湧いて近づいたんだ」


 そんな始めから見ていたというのか。人の気配は感じられなかったが……一体どこに潜んでいたのだろう。深々とフードを被った人間近くに居たらすぐに気づくはずだ。そして彼は誰かに追われていた。さらには私との婚約を取り消そうとせず、しまいには自分の名前に詰まった……この男、怪しすぎる。

 

「もしかしてあなた、スパイ?」

「面白いことを聞くな。もし僕がスパイだとしたら、本当のことを言うと思うか? それに敵の目の前に姿を現わすようなこともしないと思うけど」


 ええ、ごもっとも。私としたことがストレートに聞いてしまった。


「仮に僕がスパイだとしたら、マーガレットの何を盗もうとしている?」

「伯爵令嬢の私から盗む情報なんてないわね? でも……私の横にいることで都合の良い何かがあるんじゃないかしら?」


 お父様の本棚にあった推理小説の受け売りではあるが、木の葉を隠すなら森の中といったように社会に溶け込んだ方が何かと動きやすいものだ。婚約者がいるのならなおさら、世間に怪しまれることはないだろう。もちろん私はとーーっても怪しんでいるけれど!


「へぇ、面白い考察だな」


 クスッと笑った瞬間、ラスクが目の前から消えた。そしてラスクの顔は私の目線の上にある。いや、ラスクが私の背後に回り、私はラスクの右手で顎を持ち上げられていた。


「なっ……!」


 私の亜麻色の瞳とラスクの新緑色の瞳が重なった。彼のブロンドの睫毛は煌びやかさを助長させている。髪はフードの中で縛っているのか、よく見えなかったがきっと同じ色だろう。ふっと甘く微笑む彼の瞳からはどこか目が離せなかった。


「僕が本当にスパイだったら命がなかったかもね?」


 ラスクはそう言って私の顎から手を離す。たしかに私を狙っているスパイなら命がなかったのかもしれないが、逆にこのくらい機敏な動きを出来る人間がスパイ以外の何だと言うのだろう。


(この男……本当に何者なの!?)


 私はラスクから離れて対立する。護身術なら少しだけ習ったことがあるが、この男に勝てる気はしなかった。


「はっはっは。そんな警戒しないでくれ。僕は怖くないよ」


 ラスクは両手を肩まで上げてヒラヒラと振ってみせた。私以上に言動が一致しない人がいたなんて。その言葉が何よりも怖いことを本人は気づいているのだろうか。


「マーガレットに一目惚れした。それだけだ」

「一目惚れ、ね。それなら諦めてちょうだい。きっとあなたは5人目の元婚約者になる」

「そうか。ならばそれは婚約者になってみないと分からないな?」


 どうしてこの男は引き下がらないのか……。


「それなら、そのフードの下の顔を見せて。そしてあなたが誰なのか教えてちょうだい」


 私には彼を知らなければいけない事情がある。

 しかし彼の返答は予想外のものだった。


「フードを外したらマーガレットは僕のことを知れなくなる」

「どういうこと……?」


 スパイだから正体を明かさないと言うのか。ラスクはそれ以上を告げず、空を見上げていた。心地よい春風が私たちの間を通り抜けていく。彼の瞳はそんな春の新芽のように瑞々しくて初々しくもあった。私は吸い込まれるようにラスクの顔を見つめていた。


(この人、悪人には見えないのよね……)


「マーガレット。僕はこれから君をたくさん知って、君を好きになっていく。裏切らないと約束しよう」

「……」


 返答に困ってしまう。今までの男性とは色んな意味で違うと思う。明るい未来があるかもしれないと少しだけ思えるのはなんでだろうか。でも、運命とか永遠とか約束とか、そんな脆くて壊れそうなものはないと知っている自分もいる。それに今の私には、相手に求める一つの条件があった。


「……そんな約束のできない未来を信じられない。それに私は公爵以上の相手以外は受け付けていないの」

「ふぅん、何か特別な理由があるんだろ?」

「……まぁね」

「それならお互い様だな。ゆっくりお互いを知るところから始めようか」


 お互いを知っていくなんてまるで恋愛結婚だ。政略結婚が主流の今、生涯ありえない話だと思っていた。とくに私は相手の爵位を何よりも重要視しなければいけない理由がある。でも……少しだけ彼に惹かれている自分がいた。今までの男性とは違う何かを感じている。どう返答しようか言葉を選んでいると、ラスクは何かに気づいたように後ろを振り返った。私には何も見えず聞こえないのだが。


「さて、もう少し話したいところだけど、僕の追手が来たようだから逃げるとするよ。明日の正午にまたここで会おう」

「え、えぇ……」

「楽しみにしているよ、マーガレット・ヴィルニフ」


 ラスクは煌びやかな笑顔と共に颯爽と去った。ローブがふわりと風に舞い、爽やかな香油の匂いが鼻をかすめた。香油を使うあたりそこそこの身分がある相手かもしれない。


「……え、ちょっと待って? なんで私の家の名前を知ってるのよー!?」


 やはりスパイなんだろうか。私の叫びはラクスにはもう届かなかった。


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