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仕事の人  作者:


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3/4

隠さない


 亮の部屋は、いつも静かだった。


 静かすぎるわけじゃない。

 人の気配がちゃんとあって、けれど踏み込まれすぎない。


 太一はソファに沈み込んだまま、開けかけの缶ビールを指先で転がしていた。


 テレビはついている。

 けれど、内容は一つも頭に入ってこない。


「……返信しないの」


 隣で亮が言った。


「しない」


「でも気にしてる」


「うるせぇな」


 亮は怒らない。


 そういうところが、ずるい。


「こないだ挨拶した彼でしょ」


 太一の指が止まる。


「曖昧だった相手って」


「……」


「まだ好き?」


 答えなかった。


 答えないことが、もう答えだった。


 亮は小さく笑った。


「否定しないんだ」


「お前さ」


 太一は缶を置いた。


「なんでそんな余裕なの」


「余裕ないよ」


 亮はさらっと言う。


「普通に嫉妬してるし」


「じゃあなんで」


「でもさ」


 亮は太一の方へ少し身体を向けた。


「もうずっと俺にしといたら?」


「……は?」


「絶対俺のがいい男だよ」


 太一は思わず顔をしかめた。


「自分で言うか普通」


「言う言う」


 亮は笑う。


「だって俺、君のこと隠さないし」


「……」


「迎えも行くし」


「……」


「ちゃんと恋人扱いするし」


 太一は目を逸らした。


 その全部が、欲しかったものだったから。


 亮は少しだけ声を落とす。


「ああいう偏見、乗り越えられない人って結構多いよ」


 太一は何も言わなかった。


「俺の元恋人もそうだった」


「……」


「二人きりの時は“お前がいい”って言うくせに」


 亮は笑った。


 でもその笑い方は、少しだけ寂しかった。


「最後は女を選ぶんだよね」


 部屋が静かになる。


「一時の感情で戻ってきても、結局“普通”に戻る」


「……」


「だから俺、隠される恋愛もう嫌なんだ」


 太一の胸が痛んだ。


 分かる。


 痛いほど分かる。


 飲み会の日。


 会社の人間の前で、亮は普通に隣へ立った。


『同性カップルって偏見持たれがちじゃないですか』


『でも僕からプッシュしまくって、やっと絆されてくれたんですよ』


『もし変なやつって思われるなら僕なんで』


『太一は普通なんで、これまで通り彼には接してもらえるとありがたいです』


 あの時。


 太一は本当に救われた。


 自分が、誰かの迷惑な存在じゃないみたいだった。


 隣にいていいのだと、亮が先に言ってくれた。


「……俺さ」


 太一はぽつりと言った。


「隠されるの、平気なつもりだったんだよ」


 亮は黙って聞いている。


「名前なくてもいいって思おうとしてたし」


「うん」


「でも無理だった」


 太一は目を伏せる。


「お前があの場で普通に隣立ってくれた時」


「……」


「俺、めちゃくちゃ嬉しかった」


 亮の手が、そっと太一の髪に触れた。


 逃げ道を塞がない触り方だった。


「だからさ」


 亮が笑う。


「俺にしときなよ」


「またそれかよ」


「俺、優良株でしょ」


「自分で言うな」


「えっちも上手いし」


「おい」


「相性いいじゃない」


 太一は吹き出した。


「おい、優良株が下落したぞ」


「え、今ので?」


「今ので」


「じゃあ買い時じゃん」


「うるせぇ」


 亮は笑いながら、太一の肩へ額を寄せた。


 その軽さに、少しだけ息ができる。


「でも本気だよ」


「……」


「今すぐ忘れろとは言わない」


 亮の声が、少し甘くなる。


「でも、俺のこと好きになったら、ちゃんと幸せにするよ」


 太一は何も返せなかった。


 代わりに、亮が近づく。


 唇が触れる。


 深くはない。


 確かめるみたいなキスだった。


 離れたあと、亮はそのまま太一を抱き寄せた。


 太一は少しだけ抵抗しかけて、結局その肩に額を預けた。


 亮の腕は温かかった。


「だから俺だけにしとけって」


 耳元で甘く囁かれる。


 太一は目を閉じた。


 部屋の灯りだけが、静かに揺れていた。


 亮の腕の中は、驚くほど静かだった。


 強引に囲い込むわけでもない。

 逃がさないみたいに力を込めるわけでもない。


 ただ、

「ここにいていい」

 みたいに抱かれる。


 太一は目を閉じたまま、小さく息を吐いた。


「……お前ほんとずるい」


「何が」


「そういうとこ」


 亮が少し笑う。


「褒め言葉?」


「知らねぇ」


 太一は額を押し付けるみたいに、少しだけ亮へ寄った。


 その瞬間、亮の腕が少しだけ強くなる。


「……嬉しい」


「うるせぇ」


「いや、だってさ」


 亮は髪を撫でながら言う。


「君、自分から寄ってくるの珍しいから」


 太一は反論しようとして、やめた。


 図星だった。


 圭介といる時は、いつもどこか構えていた。


 帰るタイミング。

 踏み込みすぎない距離。

 “恋人じゃない”ことを忘れないように。


 でも亮は違う。


 恋人として扱う。


 隠さない。


 名前をつける。


 それがこんなに楽だなんて、知らなかった。


「……なぁ」


「ん?」


「お前さ」


 太一は目を閉じたまま言う。


「なんでそんな普通にできんの」


「何が」


「恋人」


 亮は少しだけ考えてから、笑った。


「好きだからじゃない?」


「……」


「好きな人に、“恋人です”って言うの普通じゃん」


 太一の喉が小さく鳴る。


 圭介は、一回も言わなかった。


 たぶん言えなかった。


 男を好きな自分ごと、隠していたから。


 亮は太一の耳元へ唇を寄せる。


「でもさ」


「……」


「俺、まだチャンスあると思ってるよ」


「ポジティブだな」


「だって君、俺のことちゃんと好きだもん」


 太一が顔を上げる。


「は?」


「顔見れば分かる」


「自信過剰」


「優良株なんで」


 太一は吹き出した。


「まだ言ってんのかよ」


「今ちょっと株価戻った」


「安い株だな」


 亮は笑いながら、もう一度太一へキスをした。


 今度は少し長い。


 太一は抵抗しなかった。


 離れたあと、亮が額を寄せたまま小さく言う。


「……だから、ちゃんと俺を好きになってよ」


 その声が少しだけ本気で。


 太一は、返事ができなかった。


--


  スマホを握る手に、じわりと力が入る。


 亮は今ごろ、

 太一へ触れているのかもしれない。


 抱き寄せて、

 キスして、

 “恋人”として。


 その想像だけで、胃がひっくり返りそうになる。


 圭介は知っている。


 太一がどこを触られると弱いか。


 どんなふうに息が乱れるか。


 どれくらい酒を飲むと甘くなるか。


 眠くなると、

 少しだけ体温を寄せてくること。


 全部。


 全部、自分だけが知ってると思っていた。


「……っ」


 でも今は違う。


 亮も知っていく。


 太一のそういう顔を。


 圭介へだけ向けていたはずの、

 気を抜いた顔を。


 それが、耐えられなかった。


 太一は元々ノンケだった。


 男相手なんて無理だって、

 最初は本気で嫌がっていた。


 触れれば怒って、

 キスすれば睨んできて。


 それでも。


 少しずつ慣れていった。


 圭介にだけ。


 だから圭介は、

 どこかで勘違いしていた。


 “太一は自分のものだ”

 と。


「……俺が育てたのに」


 呟いた瞬間、

 自己嫌悪が込み上げる。


 最低だ。


 太一は物じゃない。


 なのに圭介は、

 恋人にもせず、

 未来も与えず、

 隠したまま。


 それでも、

 “自分だけの特別”でいてくれると思っていた。


 その時、スマホが震えた。


 太一じゃない。


 彼女からだった。


『今週末、本当にちゃんと話そう』


 圭介は画面を見つめる。


 逃げられない。


 太一を失いたくないなら。


 まず、

 自分が終わらせなければいけないものがある。


 週末。


 彼女と会う約束をした店の前で、圭介はしばらく動けなかった。


 逃げたい。


 でも逃げたら、

 今度こそ全部失う気がした。


 店へ入ると、彼女はもう来ていた。


「……ごめん、待った?」


「ううん」


 笑ってはいた。


 でも、前みたいな顔じゃない。


 圭介は座る。


 注文もそこそこに、沈黙が落ちた。


 彼女の方から口を開く。


「考えた?」


 圭介は、少しだけ目を閉じた。


「……うん」


「私と結婚したい?」


 その問いに、

 もう誤魔化せなかった。


 圭介はゆっくり息を吐く。


「ちゃんと好きだった」


 彼女の肩が少し揺れる。


「一緒にいたいとも思ってた」


「……うん」


「でも」


 喉が痛い。


「今、一番失いたくないのは君じゃない」


 彼女は俯いた。


 怒鳴らなかった。


 泣きもしない。


 ただ、静かに傷ついた顔をした。


「……そっか」


 圭介は何も言えない。


 彼女は小さく笑った。


「私、多分ずっと負けてたんだね」


「違う」


「違わなくない?」


 その声は穏やかだった。


「恋愛とかじゃなくて」


 彼女は水を一口飲む。


「もっと生活の奥の方で」


 圭介の指が止まる。


 その言い方が、あまりにも正しかった。


 彼女は続ける。


「あなた、その人のことになると、ちゃんと必死だった」


「……」


「私には“ちゃんとしてた”けど」


 胸が痛い。


「その人には、“本気”だったんだね」


 圭介は、否定できなかった。


 彼女は少しだけ息を吐く。


「ちゃんと終わらせてから、好きな人のところ行きなよ」


「……」


「中途半端が一番失礼だから」


 その言葉は、

 太一にも言われた気がした。


 彼女は立ち上がる。


「じゃあね」


「……ごめん」


 彼女は少しだけ困った顔で笑った。


「ほんと最低」


「……うん」


「でも」


 ドアの前で振り返る。


「ちゃんと好きな人選びな」


 そのまま、彼女は行ってしまった。


 圭介だけが、席に残される。


 テーブルの上の水滴が、

 やけに冷たく見えた。


 彼女と別れた。


 終わらせた。


 でも、それで太一が戻ってくるわけじゃない。


 圭介は店を出て、冷たい夜風の中で立ち尽くした。


「……あいつが俺を選ぶのか?」


 彼女と別れたから。


 結婚話を終わらせたから。


 だから何だ。


 太一にはもう、恋人がいる。


 隠さず迎えに来て、

 会社の人間の前で堂々と隣に立って、

 偏見から太一を守れる男が。


『太一は普通なんで』


 あの声が蘇る。


 圭介にはできなかった。


 ずっとできなかった。


「あんな奴から、奪えるのかよ」


 奪う。


 そう思った瞬間、自分で嫌になる。


 太一は物じゃない。


 誰かから奪うものじゃない。


 選ぶのは太一だ。


 それでも。


 圭介はスマホを握った。


 今すぐ連絡したい。


 会いたい。


 別れた、と言いたい。


 でも、それは違う気がした。


 別れたことを切り札にしたら、

 また太一を追い詰める。


 だから圭介は、

 画面を開いたまま、何も打てなかった。


 圭介は、トーク画面を閉じた。


 送らない。


 今は、送らない。


 その判断ひとつに、こんなに力が要るとは思わなかった。


「……まず、ちゃんとしろよ」


 自分に言い聞かせるみたいに呟く。


 彼女とは終わらせた。


 でも、それだけで太一へ行けるわけじゃない。


 太一には亮がいる。


 太一が選んだ、隠さない恋人が。


 圭介は深く息を吐いた。


 奪うんじゃない。


 揺さぶるんじゃない。


 今度は、太一に選ばれに行かなければいけない。


 そのためにまず、

 太一が引いた線を守る。


 仕事では仕事の人として。


 それ以上は、太一が許すまで踏み込まない。


 圭介はスマホをポケットにしまった。


 夜風が冷たい。


 それでも少しだけ、

 息がしやすくなった気がした。




 翌週。


 圭介は、本当に太一へ私用の連絡をしなかった。


 業務チャットも、必要最低限。


『資料確認しました』

『先方返信あり』

『会議室変更』


 それだけ。


 太一も同じ温度で返してきた。


『承知しました』

『共有ありがとうございます』

『確認します』


 丁寧で、遠い。


 それでも圭介は踏み込まなかった。


 昼休み、太一が亮からの電話に出る。


「うん。今日は早く帰る」


 柔らかい声。


 圭介は胸の奥がざわつくのを感じながら、視線を逸らした。


 見るな。


 奪うな。


 揺らすな。


 太一が嫌いにならずにいようとしてくれたものを、自分で壊すな。


 その日の夕方。


 太一が資料を持って圭介の席に来た。


「確認お願いします」


「ああ」


 受け取る。


 それだけで終わるはずだった。


 けれど太一が、少しだけ圭介を見た。


「……最近、静かですね」


 圭介は顔を上げる。


 太一はすぐに目を逸らした。


「いや、別に。仕事しやすくなったって意味です」


「……そうか」


「はい」


 沈黙。


 圭介は資料へ視線を落とした。


「ちゃんとするって決めたから」


 太一の指が、わずかに止まった。


 圭介は続けなかった。


 それ以上言えば、また踏み込むことになる。


 太一は少しだけ黙ってから、


「そうですか」


 とだけ返した。


 でもその声は、前より少しだけ遠くなかった。


 その小さな変化だけで、圭介は息をつけた。


 許されたわけじゃない。


 戻ったわけでもない。


 ただ、太一が自分の言葉を聞いた。


 それだけだった。



 終業後。


 太一はいつものように荷物をまとめていた。


 圭介は声をかけなかった。


 送るとも、

 どこ行くとも、

 亮が迎えに来るのかとも聞かなかった。


 太一がちらりと圭介を見る。


「……聞かないんですね」


「何を」


「俺がどこ行くのか、とか」


 圭介は少し黙った。


「聞く権利ないだろ」


 太一の表情が、ほんの少しだけ揺れた。


「……そうですね」


「ああ」


 沈黙。


 太一は鞄を肩にかける。


「でも」


「ん?」


「聞かれないのも、ちょっと変な感じします」


 圭介は笑えなかった。


 太一も笑わなかった。


 ただ、二人の間にあった棘が、ほんの少しだけ抜けた気がした。


「お疲れさまです」


「……お疲れ」


 太一は出て行く。


 圭介は追わない。


 その背中を見送りながら、初めて思った。


 追いかけるより、

 待つ方がずっと難しい。


 その夜、亮から電話が来た。


「今日、圭介さん静かだった?」


 太一は駅のホームで足を止める。


「……なんで分かんだよ」


「声が変」


「変じゃない」


「変だよ」


 亮は笑った。


「で、どうだった?」


 太一は少し黙ってから答える。


「静かだった」


「そっか」


「私用の連絡もしてこないし、変に絡んでもこない」


「うん」


「仕事の話だけ」


 それは、太一が望んだことだった。


 なのに、胸の奥が少しだけざわつく。


「……ちゃんとしようとしてんのかも」


 口に出すと、余計に落ち着かなくなった。


 亮はしばらく黙っていた。


 それから、いつもの軽い声で言う。


「やだなぁ。優良株のライバル、反発上げしてきた?」


「株の話にすんな」


「でも、いいことじゃない?」


「……」


「君が嫌いにならないで済むなら」


 太一は返事をしなかった。


 ホームに電車が滑り込んでくる。


 亮の声が、少しだけ柔らかくなる。


「太一」


「ん」


「今日、帰ってくる?」


 恋人の声だった。


 隠さない、名前のある場所から呼ぶ声。


 太一は目を伏せる。


「……行く」


「うん。待ってる」


 通話が切れる。


 太一は電車に乗りながら、圭介のことを考えていた。


 ちゃんとしようとしている圭介。


 追ってこない圭介。


 それを少し寂しいと思ってしまう自分。


「……最悪」


 小さく呟いて、太一は額を窓に預けた。


 亮の部屋へ着くと、玄関の明かりがついていた。


「おかえり」


 その声に、太一は少しだけ息を吐く。


「……ただいま」


「ご飯あるよ」


「できる彼氏かよ」


「優良株なんで」


「はいはい」


 靴を脱いで上がる。


 亮はいつも通りだった。


 いつも通り、太一を迎えて、太一の上着を受け取って、無理に何かを聞こうとはしない。


 それが優しい。


 優しいから、苦しい。


「太一」


「ん」


「今日、ぎゅってしていい?」


 太一は目を逸らした。


「……聞くなよ」


「じゃあする」


 亮の腕が、ゆっくり背中へ回る。


 温かい。


 太一は少しだけ固まって、それから亮の肩へ額を預けた。


「俺さ」


「うん」


「最低かも」


「知ってる」


「おい」


 亮は笑って、太一の髪を撫でた。


「でも好きだよ」


「……そういうとこ」


「どこ?」


「逃げ場なくすとこ」


「恋人なので」


 太一は小さく笑う。


 亮はその顔を見て、少し安心したみたいに息を吐いた。


「今日、ご飯ちゃんと食べた?」


「会社で適当に」


「だめじゃん」


「めんどくさかった」


「はいはい。優良株がパスタ作ってあげます」


「まだ言ってんのか」


「言うよ。俺かなり性能いいし」


「株価乱高下激しいな」


 亮は笑いながら立ち上がる。


「でも長期保有向きだよ」


「うぜぇ」


 そんなくだらない会話をしている時間が、

 太一には少し心地よかった。



----



 翌日。


 圭介は、昼休み前に太一へ声をかけた。


「少しだけいいか」


 太一は警戒した顔をする。


「業務?」


「……業務じゃない」


「じゃあ嫌だ」


 即答だった。


 圭介は一度黙って、それでも引かなかった。


「五分でいい」


「しつこい」


「分かってる」


 太一の眉が寄る。


 前ならそこで、圭介は強引に押していた。


 でも今は違う。


「無理ならいい」


 そう言うと、太一が少しだけ戸惑った顔をした。


「……何」


「ここでは話しにくい」


「長い?」


「長くしない」


 太一は数秒黙ってから、ため息をついた。


「五分だけ」


 非常階段。


 前はそこで煙草を吸いながら、どうでもいい話をした。


 今は、距離がある。


 圭介は手すりに触れないまま、言った。


「彼女とは別れた」


 太一の表情が止まる。


「だからって」


「だからお前に来いって話じゃない」


 先に遮る。


 太一が黙る。


「それだけは、言っておきたかった」


「……何を」


「俺がまだ結婚する気でいるって思われたままなのは、違うと思った」


 太一の指が、わずかに動く。


 圭介は続ける。


「前はそのつもりだった。彼女と結婚して、普通にやっていくつもりだった」


「……」


「でも無理だった」


 太一は目を逸らした。


「今さら」


「ああ」


「遅いだろ」


「遅い」


 圭介は頷く。


「それでも、嘘のままにはしたくなかった」


 太一は何も言わなかった。


 圭介は、そこで初めて少しだけ息を吸う。


「亮さんと付き合ってるのは分かってる」


 太一の顔が上がる。


 亮の名前を、圭介が口にしたのは初めてだった。


「そこに踏み込むつもりはない」


「……」


「でも、俺はもう彼女とは結婚しない」


 太一の喉が小さく鳴った。


 圭介は続けた。


「お前が好きだった」


 過去形にした。


 今、現在形で言えば、太一を揺らすと思ったから。


 でもたぶん、太一には伝わった。


 太一は顔を歪める。


「……そういうとこだよ」


「何が」


「今さら、ちゃんとするなよ」


 責める声じゃなかった。


 苦しそうな声だった。


 圭介は何も返さなかった。


 返したら、また欲しがってしまうから。


 もう会えないかもしれない。


 そう思った瞬間、自分でも驚くくらい息が苦しくなった。


 圭介はそんな太一を見て、少しだけ目を細めた。


「……悪かったな」


 太一の眉が寄る。


「それ、何の謝罪ですか」


 圭介は小さく笑った。


「まあ、色々な」


 曖昧な言い方。


 でも太一には分かった。


 恋人にしなかったこと。


 隠したこと。


 中途半端に繋ぎ止めたこと。


 好きだったくせに、ちゃんと好きだと言わなかったこと。


 全部だ。


 圭介は視線を逸らしたまま続ける。


「まあでも、心配すんなよ」


 それから少しだけ笑った。


「お前の邪魔は、もうしないから」


 その言葉が、太一の胸を強く締めつけた。


 圭介は本当に、

 自分を諦めようとしている。


 今までみたいに、

 呼び止めたり、

 揺らしたり、

 手放したくないって顔をしたりしない。


 太一が亮とちゃんと恋人をできるように、

 自分から離れようとしてる。


  会議室のブラインド越しに、昼の光が薄く差していた。


 もう昼休みは終わりかけで、廊下を歩く社員の声が遠く聞こえる。


 圭介はテーブルの端に寄りかかったまま、小さく笑った。


「こうやってまた喋りかけてくれて、ありがとう」


 その声があまりにも穏やかで。


 太一は何も返せなかった。


 しばらく黙ってから、小さく笑う。


「……やっぱり、あんたずるいな」


 圭介が少しだけ目を上げる。


「何が」


「そうやって、ちゃんと諦めようとするところ」


 圭介は何も言わない。


 太一は視線を落としたまま、ぽつりと呟いた。


「……なんで彼女と別れたんだよ」


 圭介の指が止まる。


「別れんなよ」


 その声は責めるみたいで、

 でも少しだけ震えていた。


「あのまま普通に幸せになってくれれば、俺はよかったんだ」


 圭介はしばらく黙っていた。


 それから、静かに笑った。


「無理だったよ」


「……」


「お前好きなまま、あいつと結婚するの」


 太一の呼吸が止まる。


 圭介は目を逸らしたまま続ける。


「多分、あいつのことも不幸にする」


「……」


「お前のことも、また中途半端に繋ぎ止める」


 その言葉は、全部本当だった。


 だから太一は何も言えない。


  圭介は少しだけ目を伏せた。


「普通になれたらよかったんだけどな」


 太一の喉が小さく動く。


 圭介は苦く笑った。


「でも無理だった」


「……」


「お前を普通じゃなくさせた俺が」


 そこで一度言葉を切る。


「普通を選ぼうとしてたのが、そもそもおかしかったって気づいたんだよ」


 会議室が静まり返る。


 太一は何も言えなかった。


 圭介は続ける。


「最初、お前ほんとノンケだったじゃん」


「……」


「男とか無理って顔してたし」


「うるせぇ」


「でも結局、俺が壊した」


 太一の眉が寄る。


「壊したとか言うな」


「壊しただろ」


 圭介は笑わなかった。


「キスも、抱くのも、慣れさせたの俺だし」


「……」


「そのくせ、自分だけ普通の結婚しようとしてた」


 圭介はゆっくり息を吐く。


「そりゃ歪むわ」


 太一は視線を逸らした。


 胸の奥が苦しい。


 だってそれは、

 太一もどこかで思っていたことだったから。


 太一は唇を噛んだ。


「……今さら分かるなよ」


「ああ」


「遅いんだよ」


「分かってる」


「分かってない」


 声が少し荒れた。


「俺がどれだけ待ってたと思ってんだよ」


 圭介は何も言わなかった。


 その沈黙が、余計に太一を苛立たせる。


「恋人じゃなくてもいいって、自分に言い聞かせて」


「お前が彼女の話しても笑って」


「お前が普通に戻るなら、それでいいって思おうとして」


 言葉が止まらなかった。


「なのに今さら、普通を選べなかったとか言うなよ」


 太一は顔を歪めた。


「俺はもう、普通じゃない方に来ちゃったんだよ」


 圭介がようやく顔を上げる。


 太一は泣いてはいなかった。


 でも、泣く寸前みたいな顔をしていた。


「お前が連れてきたくせに」


 会議室の外で、誰かの足音が通り過ぎる。


 圭介は静かに言った。


「……ごめん」


「謝るな」


「でも、ごめん」


「だから謝るなって」


 太一は目を伏せた。


「謝られたら、許したくなるだろ」


 圭介は、少しだけ笑った。


「許さなくていいよ」


 太一の顔が上がる。


「許さないでくれ」


「……何言って」


「そしたらお前、俺のこと忘れないだろ」


 太一の息が止まった。


 圭介は静かに続ける。


「どんな感情であれ」


 最低だ。


 優しい顔で、

 ちゃんと引こうとしてるくせに、

 最後の最後でそういうことを言う。


 太一は泣きそうな顔で笑った。


「……ほんと、ずるい」


「知ってる」


 圭介は時計を見る。


「まあ、もう昼休み終わるな」


 椅子から立ち上がる。


 いつもの先輩の顔に戻って。


「午後も仕事だ」


 会議室のドアへ向かう。


 太一は動けなかった。


 圭介が振り返る。


「戻ろうぜ、平田」


 苗字で呼ばれた。


 仕事の人として。


 ---


 圭介の海外異動が正式に決まった。


 社内メールが回ってきた時、太一はそれを一回閉じて、もう一回開いた。


 欧州拠点。


 来月末から。


 想像していたより、ずっと早かった。


「……」


 でももう、自分には関係ない。


 太一は画面を閉じる。




----


 亮との関係は順調だった。


 普通に楽しい。


 亮は優しいし、

 ちゃんと恋人だし、

 隠さないし、

 何より、一緒にいて安心する。


 それに。


「……えっち、本当に上手いんだよな」


 思わず呟いて、自分で笑ってしまう。


 圭介とは違う。


 圭介はどこか、

 いつも奪うみたいな触れ方だった。


 亮は違う。


 ちゃんと気持ちよくさせようとしてくる。


 大事にされてる感じがする。


 日曜の朝。


 裸のまま抱きしめられて目が覚める。


 背中に回された腕が温かい。


 寝起きの亮は、いつもコンタクトじゃなくてメガネで。


 髪も少し跳ねていて、

 年上なのにちょっとかわいい。


 太一がぼんやり見ていると、亮が眠そうに笑った。


「……おはよ」


「おはよ」


「なにその顔」


「別に」


「かわいい」


「朝から軽い」


 亮は笑いながら、太一をさらに抱き寄せる。


 胸に顔を埋めると、

 柔らかい匂いがした。


 落ち着く。


 安心する。


「……普通に好き」


 ぽろっと零れた。


 亮の動きが止まる。


「え」


 太一は目を閉じたまま、小さく続ける。


「うん。好きだと思う」


 亮がしばらく黙る。


 それから、急に太一をぎゅっと抱きしめた。


「えー、昨日の太一、朝から素直」


「うるせぇ」


「朝から俺、元気になりそう」


「きも」


「今日は出かけるのやめて、家で過ごそうね」


 亮が楽しそうに笑う。


「俺、頑張るから」


「何をだよ」


「色々」


「……最低」


 でも太一は笑っていた。


 これでいい。


 きっと。


 亮といると、

 幸せになれる。


 太一は本気で、そう思い始めていた。


 昼過ぎ。


 結局二人はベッドからほとんど出なかった。


 カーテンの隙間から柔らかい光が入ってくる。


 亮は隣で、太一の髪をいじりながら上機嫌だった。


「ねぇ」


「んー」


「今、“好き”って言ったよね」


「言ったかも」


「録音しとけばよかった」


「うぜぇ」


 亮は笑う。


 その笑い声が、部屋の空気に馴染んでいた。


「でも嬉しいな」


「……」


「太一って、好きとかちゃんと言わなそうだから」


 太一は枕へ顔を埋めた。


「恥ずいんだよ」


「かわいい」


「そのワード禁止」


「えー」


 亮が後ろから抱きついてくる。


 裸の体温が重なる。


 圧迫感はないのに、

 包まれている感じがする。


「太一」


「なに」


「俺、結構本気で安心した」


 その声が少しだけ真面目で。


 太一はゆっくり目を開ける。


 亮は笑っていた。


 でも少しだけ、

 怖がっていた顔でもあった。


「……何を」


「君、いついなくなるんだろって思ってたから」


 太一の胸が少し痛む。


 亮は続ける。


「俺といる時、ちゃんと楽しそうなのに」


「……」


「時々、別のところ見てる顔するから」


 太一は何も言えなかった。


 圭介のことを、

 完全に忘れたわけじゃない。


 それでも。


 今、自分を抱きしめているのは亮だ。


 名前をつけて、

 隠さず、

 恋人として扱ってくれる男。


 亮が額を寄せる。


「俺さ」


「ん?」


「ちゃんと君のこと幸せにしたいんだよね」


 太一は目を閉じた。


 圭介とは違う。


 亮は、最初からずっと、

 幸せにする側として隣に立っていた。


 その優しさが、

 少しだけ眩しかった。


「……何それ」


 太一は枕へ顔を押し付けたまま、ぼそっと言う。


「俺は幸せにしてほしいなって」


 亮の動きが止まる。


「……」


「俺のツンデレに嫌気ささない彼氏に、甘やかしてほしい」


 数秒、沈黙。


 それから亮が、勢いよく太一を抱きしめた。


「え、待って」


「くるし」


「今日の太一デレじゃん」


 亮の声が本気で浮ついている。


「やば」


「うるせぇ」


「なにこれ。俺今日記念日?」


「知らねぇよ」


「え、録音したい」


「やめろ」


 亮は笑いながら、太一の首元へ顔を埋めた。


「……嬉しい」


 その声が思ったより小さくて。


 太一は少しだけ目を開ける。


 亮は、普段みたいに余裕の顔をしていなかった。


 少しだけ、

 本当に安心したみたいな顔をしていた。


「俺さ」


 亮がぽつりと言う。


「ちゃんと君の恋人やれてる気がしてきた」


 太一の胸がじわっと熱くなる。


 圭介とは違う。


 亮は最初からずっと、

 “恋人”として隣に立ってくれていた。


 太一はゆっくり息を吐く。


「……まあ、優良株だしな」


 亮が吹き出した。


「株価ストップ高きた」


「調子乗んな」


「でも嬉しいから今日は許す」


 亮は笑いながら、太一の額へ軽くキスをした。


 柔らかい日曜の光の中で。


 太一は少しだけ、

 このままでもいいのかもしれないと思った。






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